4幕 黄泉比良坂で風が哭く

19話 立ち塞がる者

 出雲の南東に位置する黄泉比良坂よみひらさかとは、現世と幽世かくりよを繋ぐ洞窟だ。

 大倭国の生物が死ねば、魂は黄泉比良坂を通って三途の川を渡り、幽世にいく。

 幽世で閻魔えんまが魂を選別し、生前の行いがき者は次なる命へ、悪しき者は地獄へと送られる。

 地獄に送られた魂は、摩耗し切るまで責め苦を負う運命だ。


 ただし物見遊山ものみゆさんで覗けるわけもなく、初代常世姫が記した文献以外に、証明するものはない。

 とりわけ政府は認めず、ゆえに初代常世姫は、出雲の一帯を選んで譲り受けた。

 危険な黄泉比良坂を、管理下に置いたのだ。

 十層に分かれて構成される黄泉比良坂は、強大な怪異の巣窟である。

 集う数多あまたの魂の思念が、次々と怪異を生む。

 生身の人間が立ち入るのなら、脅威は怪異のみならず。

 奥に進めば進むほど肉体と魂が剥離はくりし、第十層に辿り着く頃には、気づかず死んでいるだろう。



「言うだけあって、速かったな。助かったよ」

「いえいえ、とんでもございやせん」


 滞りなく黄泉比良坂に到着し、伊織は大蛙から下りる。

 山脈のふもとに空いている大穴は、ひとえに不気味だ。

 入り口に張られている何重もの注連縄しめなわは、怪異を外に出さないためか。

 管理は五大武家の朝霧家が担い、許可なく入れば重罪に当たる。

 が、どうでもいい。重んじるべきは、友の命だ。


「あんさん、三人の匂いが残っとりますわ」

「三人……?」


 隆源と沙奈と、ほかにも誰か居るのだろうか。


「いってみれば分かるか。大蛙、ここで待っていてくれ。場合によっては、沙奈を先に運んで欲しい」

「なんなりと。くれぐれも、お気をつけてくだせえ」


 大蛙を待機させ、伊織は注連縄をまたぎ、黄泉比良坂に入る。

 明かりは不要だ。漂う魂の残滓ざんしが洞窟内を照らし、視界は良好だった。

 警戒を怠らず、邪魔な怪異を斬り、奥に進んでいく。




 奥の傾斜――まさに黄泉への坂道を下り、第二層。

 まだ隆源や沙奈は見つからず、途中、広い空間に出る。

 岩に友が一人、座っていた。


「伊織殿、やはり真っ先にきたか」

「修一郎……?」


 伊織は様々な意味で驚愕し、友好的に声はかけられなかった。

 なぜ修一郎がここに? なぜ予想していたかのような反応を?

 なぜ殺気を纏い、鋭い視線を向けるのか。


「……すまぬな」


 謝った修一郎が腰を上げ、徒手空拳で構え、戦う意志を示した。


「なぜだ! なぜきみが、隆源につく!?」


 言動で察す。彼は敵に回ったのだと。せない。ありえなかろう。

 恋華が呪いにかけられ、沙奈が連れ去られたのに。


「問答無用! 伊織殿、構えよ!」


 修一郎が地面を蹴り、否応なしに戦闘が始まった。


「斬れるわけが……!」


 伊織は風陣歩ふうじんほを使い、瞬時に下がる。

 友を相手に真剣なんて使えるか――いつかの言葉が脳裏をよぎる。


「柳葉にも歩行術はあるぞ! 逃がさぬ!」


 修一郎が同等の速度で動き、拳を振りかぶった。


(素手では受けられないか……!)


 伊織はやむを得ず、半分抜いた刀の腹で拳を防ぐ。

 接触の衝撃が空気を揺らし、修一郎の怪力で伊織の足元が凹む。

 並の者であれば、防御ごと潰されかねない一撃だ。


「木刀のようには折れぬか!」

「折られて堪るかよ! おい、何があったんだ!」

「伊織殿を討とうとしている吾輩に、語る資格など……!」


 修一郎が続けて何度も拳を振るい、


「資格って、何の話を……!」


 伊織は防御と回避に徹する。

 殴打の連撃は一向に途切れず、その硬い拳は無傷だ。


「いつまで守るつもりだ! 伊織殿、戦え!」


 猛攻の中、修一郎がすがるように言う。

 微かな違和感――垣間見えた、拳への迷い。


(こうなれば……!)


 伊織は苦渋の決断を下し、抜刀の構えを取る。

 守ってばかりいても、じり貧だ。何よりも、時間が惜しい。

 刀を完全に抜き、風刹ふうせつの一の太刀で左拳を弾く。

 次いで返す刃、剣気の風を乗せた、二の太刀を振り下ろす。

 簡単に斬れる男ではないと、確信をもって。


「おおおおおぉぉぉっ!!」


 修一郎が叫び、右の正拳突きで刀を受け止め、剣気が散った。

 術での相殺を疑うが、そうではない。

 彼は単なる気合いで、剣気の風を掻き消したのだ。

 埒外な戦法は、驚嘆きょうたんの一言に尽きる。

 こちらは鉄の塊で、鋭利な刃で押している癖、力は拮抗し、まるで振り切れる気がしない。

 至近距離で睨み合い、伊織は切実に望む。


「修一郎、理由を話してくれ! いったい何があった!?」

「…………」

「俺らは友だろう! 違うのか!?」

「……っ!」


 修一郎が歯噛みし、僅かに力を弱め、逡巡の素振そぶりを見せる。

 伊織は目で語る。友だと思うならば話せと。

 詳細は分からなくても、資格はそれだけで十分だ。


「修一郎!」


 刀と拳が擦れ、どちらも退かず、長い沈黙を経て。


「……脅されている……」

「なに?」

「伊織殿を討たねば、恋華は明日を待たずして死ぬ! 討てば恋華を助けてやると! 隆源に脅されている……!」

「なっ……!?」


 修一郎の握り締めた拳から、鮮血が流れる。刀傷ではなく、自傷によってだ。

 言葉や拳を通して、悔しさと屈辱の激情が伝わった。

 隆源が出した条件は、紛うことなき鬼畜の所業だ。

 最初から修一郎を脅すつもりで恋華を殺さず、呪うにとどめたのだろう。

 友同士で、潰し合わせるために。だとしても。


「きみらしくないぞ! それなら隆源を討て!」

「できぬ……! 隆源は阿頼耶あらや識に至った! 吾輩が命を懸けるだけなら、本望だ! だが、だが……! しくじれば妹が死ぬ!」


 覚識の上、阿頼耶識は、ひと握りの術者のみが至れる境地だ。

 隆源はどれだけの人間を喰らい、力を増したのか。

 修一郎が泣き出しそうな表情で。


「吾輩はどうすればいい、友よ……!」

「……っ、馬鹿野郎……!」


 やるせなさを込めて、伊織は強引に体重をかけ、修一郎を弾き飛ばした。

 修一郎は自らの力を、信じ切れていない。

 伊織の力を、信じ切れていない。

 今の修一郎に隆源を討とうと誘っても、彼は応じまい。

 呑まれているのだ。妹の死の恐怖に、隆源の力に。


「だったら、きみが選んだのなら……! きみこそ本気で戦えよ、修一郎! 迷いを捨てろ! そんな腑抜けた拳で、俺を討てると思うな!」

「伊織殿……!」


 修一郎が目を見開く。


「いつかきみが望んでいた、真剣勝負だ。俺も今出せる、全力で戦おう」


 伊織自身も迷いを捨て、覚悟を決める。

 友を倒し、信じさせる覚悟を。


「ふっ……」


 伊織の宣言に口元を緩めた修一郎が、深く息を吸って吐く。

 勝負は仕切り直しとなり、


「改めて。仙道・内丹ないたん術、柳葉流、柳葉修一郎!」


 修一郎が身体を捻り、片足を前に出し、片腕を引く。

 作法に則った名乗りに、


「魔道・魔刀術、無月一心流、蓮水伊織!」


 名乗り返した伊織は、刀の切っ先を足近くまで下ろす。

 防御に向いた下段、土の構えだ。


「いくぞ、伊織殿!」


 修一郎が先手を取り、前に低く跳ぶ。

 刀の構えは理解しているはず、伊織は上等だと口角を上げる。

 再三に渡って思うが、模擬戦とは比べものにならない俊敏さだ。

 打ち合うかと思いきや、しかし修一郎は、刀の間合いに入る寸前で止まった。


「しっ!!」


 と右拳の親指が弾かれる。

 弾丸のごとく高速で飛来する何かが、ぼんやりと視えた。

 伊織は半ば反射で刀を振り上げ、それを斬る。


「流石、指弾しだんを斬るか! 芸当であるぞ!」

「氣を飛ばしたのか……!」


 体内の氣の操作に特化した仙道・内丹術は、指向性をもった放出すら可能にする。

 魔術との大きな違いは、氣を原動力とした変換の過程、予備動作がほとんどないところだ。

 内丹術は山岳修行が有名であり、山の危険性は言うまでもない。

 山で生き残るべく予備動作を減らし、常在戦場の心得のもと、己が身一つで挑む。

 氣を集中させた肉体の強化も含め、原始的ゆえに単純明快な強さだ。


 連続で指弾が放たれ、伊織は「種が分かれば」と、難なく氣の塊を斬る。

 刀を振り切った体勢を隙と見たか、修一郎が距離を詰め、両拳を交互に振るう。


騙刃かたりば、中段!)


 即座に刀を戻し、逆風と追い風を用いた、緩急の斬撃。

 騙刃で拳をかいくぐり、切っ先が修一郎の胸元を掠る。

 射程リーチの差だ。傷口に薄っすら鮮血が滲む。


(氣を集中させている拳以外なら、刃は通るか)


退かぬぞ! 真剣勝負なればっ!!」

「……っ!?」


 修一郎が微塵もおくさず、大股で踏み込む。

 無謀――否、これは勇敢な選択だ。刀の間合いを殺すのが狙い。

 懐に入り込まれては、伊織の不利だ。


さや打ち!)


 刀から左手を離して鞘を掴み、迫りくる拳を三度みたび打つが、修一郎は怯まない。

 その荒々しい姿を一瞬、何倍も大きく錯覚する。

 さりとて気圧されず、


「風陣歩で……!」


 後ろを取り、


「柳葉流、残影ざんえい!」


 同じく歩行術で後ろを取られ、振り向きざま、迷いを捨てた刀と拳がせめぎ合う。

 ならばとお互い離れ、


「「覚識・顕現――」」


 伊織は刀を立て、切っ先を頭上へ。


「――霊魔刀れいまとううつろ!」


 修一郎が足を開き、両腕を十字に組む。


「――流転之理るてんのことわり!」


 修一郎ほどの術者であれば、使えて当然だろう。

 覚識の初見は双方とも、さしずめここからが本番だ。


(まずはひと太刀)


 油断はできないが、虚の太刀は防御不能である。攻めるべし。

 伊織は修一郎の魂を知覚し、防御されることを前提に、正面から斬りかかった。

 案の定、修一郎が拳を突き出し、命中の直前。


(何だと……!?)


 拳を逸らし、避けられた――いや、おかしい。たしかに当てた感覚はあったのだ。ただまるで、落葉らくように緩やかな刃を押し当てたかのような、ふわりとした曖昧な感触だった。

 とてつもなく上手い受け流し。一瞬でもずれがあれば、魂を打てていた。


「吾輩はこの性格ゆえ、ごうを好む」


 修一郎が落ち着き払い、ゆっくりと拳を動かす。


「だが吾輩が辿り着いた極致は、剛でもじゅうでもなく、りゅうにある! 周囲の氣の流れを知覚し、力を殺さず、活かして流す。活人に繋がる拳だ」

「ははっ、やるな……!」


 伊織は忘我ぼうがし、心底から称えた。

 暗殺に秀でた無月一心流とは、方向性がまったく別の極致だ。

 伊織にはできない活人の技は、敬意を表するに相応しい。


「俺の覚識は、魂を打つぞ」

「ふははっ、明かすか!」


 公平さを保ちたくて伝える。

 どれだけ飾って正当化しようと、死闘は汚らしく野蛮だ。

 それでも友が相手なら、尊厳に似た何かがある。

 ――斬り、流され、撃たれ、防ぎ、短い間に幾百と繰り返す。


「はぁ、はぁっ……!」


 修一郎が段々と、息を乱し始めた。

 虚の太刀には精密さが求められるが、後手の受け流しも、輪をかけて精密でなければ不可能だろう。

 精神への負担は、尋常ではないはずだ。


「息が上がっているな?」

「平然と……! 底が見えぬ男よな!」


 修一郎の動きが鈍り、延々と続いていた応酬に、終わりのきざしが見える。

 伊織は大きく跳び退き、臍下丹田せいかたんでんに心を静めた。


「修一郎、潮時だ! 次で決める!」


 あの消耗状態であれば、受け流されるかは、所感で三割といった具合か。

 決めどきとしては十分だ。宣言に違わず、今出せる全力を。


「こい、伊織殿! 何としても受け流し、一撃を入れてみせようぞ!」


 尚も後手を狙うか、修一郎が待ち構える。


(……、……)


 刀を水平にして、切っ先を修一郎に定め、握る両手を頭のそばに移動させる。

 八双の構えの縦に対し、このかすみの構えは横――刺突に特化した姿勢だ。

 面ではなく点の攻撃は、受け流されれば隙が大きく、一撃を食らうこと必至。

 逆に当たれば、決定打となり得よう。


 刃に纏う風を強め、細く鋭く回す。

 重心を微調整し、足腰に力を込め、上半身を傾ける。

 深い静寂。洞窟の天井から、ぴちゃりと水滴が落ちた。


(終わらせる!)


 風陣歩で前へ。全ての音が消失し、伊織は一陣の風と化す。

 瞬時に間合いを詰め、見極め、神速の刺突を放つ。

 切っ先を中心に風が分かれ、暴風となって修一郎を包む。

 無月一心流魔刀術、奥義、風縛刺ふうばくし――切っ先から分けた暴風で相手を捕らえ、刀で貫く必殺の突きだ。


 手応えはあった。舞った粉塵が消え、


「……流し切れぬ、か」


 刃に左肩を貫かれた修一郎が、目を閉じて呟く。

 本来は心臓を狙うひと突きだが、伊織は殺さないために、肩を狙っていた。

 肩を刺しただけなら、まだ戦えるだろう。

 だが覚識の状態の刺突は、肉体の傷に加えて、魂を強く揺さぶった。

 苦しみは想像が及びもつかず、喋れるだけでも驚きだ。

 伊織が刀を引き抜くと、修一郎がどさりと倒れ伏す。


「……吾輩の、負けか」

「俺の勝ちだな。死んでくれるなよ?」

「……死ねそうにはないな。土台、鍛え抜いた肉体よ」

「……歩けるようになったら、外に戻れ。俺はいく」


 修一郎ほどの内丹術の術者なら、傷口に氣を集中させれば、止血は容易たやすかろう。

 隆源や修一郎がきたときに掃除したのか、ここらに怪異はおらず、襲われる心配もない。


「隆源を、倒せるか?」

「倒すさ。待っていろ、友よ」

「……まだ吾輩を、友と呼んでくれるのか」


 震えた声。涙を零す修一郎に、背を向ける。


「当たり前だ。必ず、隆源の首を持ち帰る」


 平然を装ってはいるが、疲労が溜まっていた。

 それでも、だからこそ決意は変わらない。

 伊織は重い足取りで、黄泉比良坂を下りていった。

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