6-2

 逃げてしまいたかった。

 弱音を吐いた自分から。そのせいで大切な人を泣かせた自分から。何より、ユーリと再戦して負けることを恐れている自分から。

 全てから逃げて誰も知らないところでひっそりと消えてしまいたかった。

 だが現実はそんなにうまくはいかない。

 それはこの世界でも変わりなく、結局俺は夕陽に照らされたダスクシティの街をただただ彷徨っているだけだった。

 どれくらいそうしていただろう。同じ通りを二、三回行き来した時、ふと酒場の看板が目に入った。それは初めてこの街を歩いた時に見つけてパレードリング前の情報収集のために立ち寄った店だった。

 特に懐かしいわけでもないが、なんとなく気になって立ち止まる。

 そう言えば昔見た映画で、何かに悩んでいた主人公がぶらりと立ち寄った酒場に似ている。その主人公の境遇が今の自分と同じ気がして気づけばその店に足を踏み入れていた。

 まだ夕方だが、早い時間から酒を楽しむ人々で店内は賑わっている。

 俺は人から離れたくて誰も座っていないカウンター席に腰かけた。

「ご注文は?」

 席につくなり不愛想なマスターが聞いてきた。

 ミルクを、と言いかけて急に思いとどまった。

 そう言えば俺はもう二十歳になっているじゃないか。日本にいた頃は十九歳だったが、この世界に来てもう一年近く経つし、早生まれだからどう考えても誕生日を過ぎているはずだ。

 なら酒というものを飲んでみるのはどうだろう。大人たちは辛いことから逃げるために酒を飲んでいるらしいから今の自分にはちょうどいい。

「ウイスキー。ロックで」

 あまり意味は分かっていなかったが、ドラマや映画でよく聞く頼み方をしてみる。

 ほどなくして注文の品が出てきた。

 透明なグラスに大きな氷と琥珀色の液体が入っている。顔を近づけてみるとツンとする匂いがした。こんなものが本当に旨いのだろうか。

 半信半疑のまま一口飲んでみると、口の中に苦みが広がると同時にウイスキーが通っていった食道が熱く焼けつくような感覚がした。

 なんだこの飲み物は!?

 とても飲めたものではない。マリアやルドルフはこんなものを嬉々として飲んでいたというのか。正気の沙汰とは思えない。

 しかし、出されたものを残すというのは俺の主義に反するし、負けたような気がして悔しい。なら、一息に終わらせてしまおう。

 俺はグラスを掴むとグイっと一気に飲み干した。

 さっき感じた熱さを何倍にもした刺激が喉を焼く。やはりこれは自分には合わないものだ。

 そう思って何か別のものを頼もうとメニューを見ていると、不思議と徐々に気分が高揚してきた。何だかさっきまで悩んでいたことがどうでもよくなってくる。これが噂に聞くアルコールの力というものか。だとすればさっきのウイスキーというのは効率がいいのかもしれない。

「マスター、おかわり」

 気づけば俺はウイスキーのグラスを三つも空けてしまっていた。

 いつの間にか頭がぐわんぐわんしてまともに立ち上がれない。

「うぅ」

 だらしなくカウンターに突っ伏してしまう。

 傍から見れば情けない格好だが、それを含めてもうどうでもよくなっていた。このまま寝てしまえば楽で気持ちがいい。

 そう思って目を閉じたとき、上の方から聞きなれた声が降ってきた。

「あーあー。全く何やってるんだいこの坊やは」

 寝ぼけ眼で見上げると腕組みしたマリアが立っていた。

「!」

 反射的に逃げようとしたが、アルコールに冒された体は言う事を聞かず、再びテーブルに突っ伏しただけだった。

「マスター、ギムレット。それとこの子にオレンジジュースを」

 マリアは何らかの酒を注文すると慣れた様子で椅子に腰かけた。

「どうだった? 人生初めての酒の味は」

「別に……旨くはなかった」

「まあ、そうだろうね。最初から酒を旨いと感じるなんて相当特殊な感覚の持ち主さ。酒ってのは徐々に慣れて良さがわかっていくものなんだよ」

 マリアはそう言って得意げに笑った。

「……何しに来たんだよ?」

 俺は不貞腐れ気味に尋ねた。

 こんなに都合よく酒場で出会うわけはない。きっとマリアは何かしらの方法で俺を見つけて追ってきたのだろう。

「酒場なんだから酒を飲みに来たに決まってるだろ」

 マリアはそう言いながら運ばれてきた酒に口をつけた。

「まあ、そのついでにうちの坊やと少し話そうかとは思ったけどね。……それで、一体何に悩んでるんだい? 普段のアンタは生意気で傲慢だけど、弱音を吐くようなヤツじゃないだろ。何かがアンタの心に引っかかってるんじゃないのかい? 今日は特別にアタシが話を聞いてやるから何でも言ってみな」

「別に……」

 俺はついそっぽを向いて押し黙った。

「あのユーリに負けたことがそんなに悔しかったのかい?」

「……」

「それともまた戦って負けるのが怖いのかい?」

「……」

「うーん。コイツはアタシの勘なんだが、問題はアンタの過去にあるような気がするねぇ。この大陸に来る前、アンタの故郷で何があったのか話してごらん」

 その時のマリアの口調にはいつもと違って包み込むような優しさがあった。酒に酔っているせいもあってか、気づけば俺は自分の過去を洗いざらいぶちまけていた。

 父が天才と呼ばれたジョッキーだったこと。その名前を背負って生きてきたこと。同世代に現れた本当の天才である成宮のこと。彼を意識して自滅した日本ダービーのこと。

 マリアは口を挟まず黙って俺の独白を聞いてくれた。そして聞き終わった後に酒を一口含むと、大きく一つ溜息をついた。

「なるほどねぇ……。アンタもしんどい生き方を選んだもんだね。天才と呼ばれた親父さんと同じ業界に入るなんて。嫌でも比べられていろいろ言われるだろうに。まあ、それでも親父さんの背中がかっこよすぎて憧れたからなんだろうけどさ」

「……ああ」

 父がビックレースで活躍する姿は今でも目に焼き付いている。ああなりたい、いつか同じ舞台に立ちたいと夢見たからジョッキーを志したのだ。

「でも、憧れの存在が遠すぎて届かないからこそ悩むんだろうね。きっとアンタはレースに負けたこと以上に、ユーリに負けたっていう事実の方が辛いんじゃないのかい?」

「そう……なのかもな」

 確かにマリアの言う通りかもしれない。成宮やユーリのような天才と呼ばれる存在に負けて、彼らとの差を突き付けられることとが何よりも苦しい。

「だとすると、アンタはまず自分自身を肯定してやることが第一だね」

「自分を肯定する?」

「ああ、そうだ。……いいかい、アタシは今から酷いことを言う。だけどそれが今のアンタに必要だからそうするんだ。だから心して聞きな」

 マリアはこちらに向き直ってしっかりと目を合わせてきた。

「アタシはこう見えて元ジョッキーだ。それも史上最年少でユニコーンダービーを獲った。アンタなりに言うなら『天才』だ。そのアタシが客観的にフーマ・オオゾラというジョッキーを評価してやる」

 俺はその言葉にごくりと生唾を呑み込んだ。

「アンタはいいジョッキーだ。レースのペースもちゃんと把握できているし、細かな状況の変化をキャッチして騎乗に反映している。一緒に出走する他の馬もしっかり分析した上で作戦を組み立てている。なにより、日々のユニコーンへのトレーニングや自身の筋力強化も真面目に取り組んでいて、ひたむきな態度に好感が持てる。一緒に仕事をしていれば、真面目で優秀なジョッキーだと誰もがアンタを認めるだろう」

 普段絶対に聞けないようなマリアからの賞賛の嵐に困惑しつつも照れ臭さを感じた。しかし彼女の言葉にはまだ続きがあった。

「だけど、そこまでだ。優秀ではあるけど、最優秀ではない。人の度肝を抜くような大胆な騎乗を思いつくわけでも、一つのミスもない完璧なレースを常にできるわけでもない。アンタが持っているのは凡人の中の優秀さだ。はっきり言おう。フーマ、アンタは『天才』にはなれない。アンタが求める自分自身には一生たっても追いつけないだろう」

 マリアの言葉は鋭いナイフのように深々と心に突き刺さった。それは今まで俺が目を背けてきた事実、分かっていても認められなかったことだった。

「……本当はずっと前からわかってたんだ」

 気づけば目から大粒の涙を零していた。今まで内に秘めていた悔しさと悲しみが洪水のように溢れ出す。

「俺は父さんみたいにはなれないって……。成宮やユーリには追いつくこともできないって……。だけどっ!」

 初めて競馬学校で馬に乗った時、教官に言われた。お前が馬に乗る姿は不格好だと。

 初めて厩舎に挨拶に行った時、先輩ジョッキーに言われた。お前にはセンスがないと。

 初めてレースに出た時、観客から言われた。お前は親父と違って下手くそだと。

 だけどそれを認めてしまったら、自分が父の名を継ぐに値しない人間だと諦めたことになる。だから今は無理でも、いつかは成宮やユーリや大空天馬のようなジョッキーと同じ『天才』になるのだと自分に言い聞かせてきた。

 だが、マリアに言われたことで気づいた。そんな未来や可能性などないと。彼らが持って生まれた何かが自分には決定的に欠けているのだ。

「俺は父さんの、あの父さんの息子なのにっ……。俺は『天才』になれないっ……」

 ついに俺は自分の敗北を認めた。今まで自分を支えていたものが全て崩れ去ったような気がしてみっともなく大声で泣いた。

 マリアはそんな俺を優しく抱きしめてくれた。

「いいんだ。いいんだよ、それで。それでもアンタはアンタだよ。『天才』じゃない自分をちゃんと認めてあげるんだ」

 そう諭すように繰り返し、俺が泣き止むまで頭を撫でていてくれた。

「落ち着いたかい?」

「ああ……」

「そりゃよかった。じゃあ、これでも飲んでスッキリするんだね」

 そう言うとマリアはいつの間にか頼んでいた飲み物を手渡してきた。

 カクテルグラスに半透明のオレンジ色の液体が入っている。受け取って促されるままに口に含むと、わずかなアルコールの苦みと共に柔らかい甘みと柑橘類の爽やかさが広がった。

「これって……?」

「バレンシアというカクテルだよ。アプリコットを使った酒とオレンジジュースを混ぜたものさ。初めて酒を飲むならこういう飲みやすいものからいかないとね。でも、意外とアルコール度数は高いからゆっくり飲むんだよ」

「……マリア。ありがとう」

 自然と感謝の言葉が出た。

 今までこんなにはっきりと自分を評価してくれた人はいなかった。元の世界では内心で馬鹿にしながら適当なことを言うやつか、こちらを傷つけないように気をつかってくれる人間しかいなかった。マリアの言葉でようやく俺は自分と向き合うことができた。

「いいんだよ。出来の悪いジョッキーの面倒を見るのも含めてトレーナーの仕事だからね」

 マリアはニヤリと笑ってウィンクした。

「でも、俺これからどうしたらいいんだろう……。結局俺には大した才能はないのにジョッキーを続けるべきなのかな」

「馬鹿な子だね。才能があるやつ以外なっちゃいけないなんて言ったらジョッキーは数人だけになっちまうよ。アンタは親父さんの背中に憧れたんだろ? 同じように栄光を掴みたいって思ったんだろ? だったらそれを果たすまで簡単に諦めるんじゃないよ」

「だけど今の俺には魔法も使い道がわからないものが一つ残ってるだけだ……。こんなんじゃダービーに勝つことは……」

「アンタ今まで何見て来たんだい? レースはジョッキーだけのものじゃない。オーナーがチームを作り、装蹄師が蹄鉄を打ち、獣医が健康を保ち、トレーナーが鍛え上げる。ユニコーンレースはチームで戦う競技なんだよ。アンタ一人の才能や力が足りなかったとしても、他のメンバーがそれを補ってくれる。一人の天才ジョッキーが輝くチームより、一人一人が優秀な凡人であるチームの方が遥かに強いんだ。それに何より、レースで走るのはユニコーンだ。誰よりも心強い味方がアンタのすぐ傍にいるだろ。アンタはアタシらとプルーフを信じて自分にできることを最大限やればいいんだよ」

 チーム……。確かにその通りだ。そのことを頭ではわかっていたつもりだが、理解できていなかったのかもしれない。レースに出たらそこからは独りで、全ては自分にかかっていると思い込んでいた。

 本当は自分に足りなかったのは持って生まれた才能やセンスじゃなくて、周りを信じる心だったのかもしれない。

「まだダービーに出られる可能性は残ってる。アタシらは諦めちゃいない。そして出られたなら、あのアダマンタイトに負けないようにプルーフを仕上げてみせるよ。だからアンタもアタシらを信じて、本番に備えておくことだね」

「……わかったよ。俺も諦めない。皆を信じて最後まであがき続けるよ」

「よし! それでこそうちの童貞坊やだね」

「だからそれはやめろって……」

 今まではムカッときていたその言葉も、今はそれほど苦痛に感じなかった。

「……ルナにもちゃんと謝らなきゃな。みっともないところ見せて傷つけちまった……」

「確かにそれはその通りなんだけどね。お嬢は今は拠点にいないよ。ちょうどさっき秋の森へ発っちまった」

「秋の森!?」

 意外すぎる言葉を聞いて急に酔いが醒めた気がした。

「そんなところに行って大丈夫なのか? だって秋の森ってルナやルナの家族を怨んでいる連中だろ? 何をされるかわからないじゃないか!?」

「落ち着きな。秋の森はそんなに物騒なところじゃないよ。誰もがヴェロニカみたいに血の気の多いエルフじゃない。それにああ見えてルナお嬢は銀の森のお姫様だ。秋の森もそうおいそれと攻撃したりできないよ」

「え?」

 ルナが銀の森の姫。そんな話は聞いたことがない。

「聞いてなかったのかい? お嬢の本当の名はルナ・アルジェンティ・ディアーナ。正真正銘、銀の森を治めるディアーナ王家の一員さ。あのアダマンタイトのオーナーであるエレナ姫とは異父姉妹ということになる」

「まじか……」

 ルナに教えてもらえていなかったというショックより、実はお姫様だったという事実の方が驚きだ。しかしそう言われるとやはり品がある気がしてきた。

「って、いやいや! 銀の森の姫なのは置いといたとしてもなんでわざわざ自分を怨んでいるやつがいるところに乗り込んでいくんだよ!?」

「当然、プルーフとアタシらのためさ」

「え?」

「秋の森の重鎮、アルベルト。アタシが去年まで所属していたチームのオーナーで、ヴェロニカの従兄でもある男に会いに行ったのさ。ブラックロータスのダービー出走取消を交渉にね。アルベルトはあの馬のオーナーだからね」

 色んな話が一気に出て来すぎて頭が混乱する。

 要するにトライアルポイント二十四点でダービー出走圏内にいるブラックロータスを辞退させることで、プルーフの出走枠を確保しようということか。しかし……。

「ブラックロータスの出走取消って、そんなのヴェロニカが絶対黙ってないだろ!?」

「まあそうだろうね。なかなかハードな交渉にはなりそうだ」

「そ、そんな悠長な……」

「どうする? 気になるならいっちょ追いかけてみるかい? 明日の朝発てばギリギリ追いつけると思うけど」

 何が楽しいのかマリアはニヤニヤと笑っている。まるでこうなることを読んでいたかのようだ。

「……行くよ。ルナが大勝負に出るってときに離れて待っているのは嫌だ」

 自分が行ったところで何もできないだろうが、せめて彼女を見守りたい。

「よし来た! それじゃあ案内してやるよ。アタシの古巣でもある秋の森をね」

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