異世界競馬 ユニコーンダービー

境井 結綺

序章

序章

『さあ、今年もこの時がやって参りました。一昨年に生まれた数多のサラブレッド。その頂点を決める競馬の祭典、第一二三回日本ダービー! まもなくの発走です!』

 熱のこもったアナウンスに続き、華々しい音楽が競馬場内に響き渡る。それに応えてスタンドに詰めかけた十万人ものファンたちから歓声が上がった。

 ついにここまで来た……!

 俺は自分が騎乗する馬の背から観衆の様子を見て思わず武者震いした。プロ騎手(ジョッキー)としてデビューしてから一年と少し。いくつかの大舞台には立ってきたが、今までこれほどの緊張を感じたことはない。

 日本ダービー。この国内最高峰のレースは競馬の世界に生きる者にとって最高の栄誉であり最大の目標だ。競馬関係者の日頃の努力と研鑚は全てこの日のためにある、と言っても過言ではない。

 だが俺にとってこのレースはそれ以上の意味がある。十年前にレース中の落馬事故で他界した父が勝つことを夢見ていた舞台だからだ。俺の父、大空天馬(おおぞらてんま)は若き天才ジョッキーとして名を馳せ、多くのビッグレースを制していたが、唯一勝てなかったのがこのダービーだった。

 天才の父が果たせなかったダービー優勝。それを代わりに成し遂げれば、天才の息子として堂々と胸を張れる。そう思って俺は幼い頃からいつか必ずダービーを勝つのだと心に誓ってきた。そして今、その目標に手がかかる時が訪れたのだ。

「ついに始まるね。風馬(ふうま)」

 黙々と自分の馬のウォーミングアップさせていた俺に声を掛けてきたのは、ジョッキー仲間の成宮優(なりみやゆう)だった。

「ああ」

 俺は緊張で張り詰めた堅い顔を崩さず短く返事をした。

「まだ十九歳の僕らが揃ってこんな大舞台に出られるなんて夢のようだよね」

 成宮はそう言って爽やかな笑顔を見せてくる。

「……そうだな」

 正直なところ、俺はこの成宮という男が苦手だった。

 モデルのような端正なルックスに、誰とでもすぐに打ち解けられるようなコミュニケーション能力の高さ。平凡な外見で口下手な俺にとってはそれだけで気おくれしそうな相手だが、それ以上に看過できないのがジョッキーとしての実績だ。

 成宮とはプロのジョッキーとなるための育成機関、競馬学校時代からの同期で、長らく腕を競い合ってきた仲だった。出会った当初は幼い頃から乗馬を習っていた俺の方が明らかに上だったのだが、卒業してプロになるくらいの頃から成宮はめきめきと腕を上げてきており、昨年の新人ジョッキー勝利数ランキングではトップに立たれてしまっていた。

 もちろん俺だってその様子を指をくわえて見ていたわけではない。天才と謳われた父に恥じぬよう、血の滲むような努力を続けてきたつもりだ。それでも今の成宮の勢いは目を見張るものがあり、追い越すどころか逆に引き離されていくような感覚を覚えていた。今やマスコミではそんな俺たちの関係を面白おかしく取り上げ、『彗星の如く現れた新たな天才、成宮優』、『天才の血を引く秀才、大空風馬』などと書き立てる始末だ。

 しかし、今日のダービーに限っては俺の方にチャンスが巡って来ていた。

 俺の乗るマゼットマゼラン号はファンの間で三番人気に支持される実力馬であるのに対し、成宮のイイクニツクロウ号は十八頭中の十六番人気の低評価を受けている。ファンの人気が馬の実力とイコールではないし、何が起こるのかがわからないのが競馬だ。それでもこのレースにおいては俺の方が有利であることは明白だった。

 逆に言えばここで結果を出さなければ俺は関係者からの信頼を失うことになる。もし成宮の馬に先着されるようなことになれば、周りの人間からの評価順は揺るぎないものになってしまうだろう。馬の全力を出し切り勝利を目指すのはもちろんだが、同じくらい成宮に負けるわけにはいかない。

「どうしたんだい? 顔が固いよ! せっかくのダービーなんだ。どうせなら楽しもう!」

 こちらの内心も知らず、成宮は相変わらず能天気な言葉を投げかけてくる。

 俺はレースに集中しているふりをして無視することに決めた。

「はい! 始めるよ! ゲート準備して!」

 ちょうどその時、係員から声がかかって周りの空気が一段と張り詰めた。さすがの成宮も口を閉じ真剣な表情に変わる。

 レースの開始を告げるファンファーレが鳴り響き、馬たちが順々にスタートゲートに入っていく。俺も自分の馬を指定されたゲートに誘導して待機する。

 落ち着け。普段通り乗れば結果はついてくる。

 心の中でそう唱え、緊張と高揚で高鳴る胸を鎮める。

『さあ、日本ダービー、いよいよ発走です!』

 ゲートが開く。遠くに感じる父の背中を追うように、俺はスタートを切った。


 競馬には展開利という考え方がある。レースの展開による有利不利のことで、一般的に全体のペースが遅い場合は前を走る馬が有利、速い場合は後方で待機している馬が有利とされる。

 今日のダービーは大方の予想を裏切りかなりのハイペースになっていた。有力馬たちが前で飛ばす馬のペースに惑わされてしまった結果だ。そんな中、俺とマゼットマゼランは中団グループの後方でレースを進めており、かなりの展開利が見込める状況にいた。

 これはひょっとしたら勝てるかもしれない……!

 俺は仄かな期待と興奮を抱きつつ最終コーナーを回っていった。

 前方集団は続々と正面スタンド前、五〇〇メートルの長い直線に入り、ラストスパートをかけ始める。しかしハイペースになったためか、どうも彼らのスピードの伸びは今一つだ。

 いける!

 俺は前方集団からやや遅れて直線に入りながら確信した。手綱を通して伝わってくる馬の余力は抜群。しかも、マゼットマゼランは末脚(ラストスパート)に自信がある馬だ。この展開利と手応えなら、有力馬たちを含めた前の集団をまとめて差し切れるだろう。

 俺は興奮と共にスパートの合図を出すべく馬に鞭を入れた。

 マゼットマゼランが一気に加速する。だがその直後、すぐ横を凄まじい速さで通り過ぎていく馬がいた。

 馬鹿な!?

 抜き去っていたその人馬の特徴を見て驚愕した。成宮の乗るイイクニツクロウだ。

 レース前こそ俺も成宮を警戒していたが、彼らがスタートで出遅れたことで既に意識から外していた。イイクニツクロウは元々前でレースをすることで実績を挙げてきた馬だ。そういうタイプの馬にとって自分の長所を損ねてしまう出遅れは致命的なのだ。だからスタートした時点でもはや成宮に負けることなどあり得ないと高を括っていた。それがまさか最後の直線勝負で後れを取るなど夢にも思わない。

 まだ間に合う!

 マゼットマゼランはエンジンのかかりが遅いだけだ。本気を出せば抜き返せるはず。そう信じて俺は必死で愛馬を鼓舞した。

 しかし、成宮の馬を捉えることはできない。それどころか逆に突き放されていく。その様はまるで自分と成宮のジョッキーとしての実力の差のように見えて、俺は深い絶望と恐怖を覚えた。

 ここで勝てなければ、きっともう一生こいつに勝てない。永遠に背中を追い続けることになる……!

 俺はそんな強迫観念に駆られ、何とか愛馬のギアを上げようと激しく鞭を入れた。

「いけっ! いけぇっ!」

 だが、それが大きな過ちだった。

 叫び声と鞭に驚いたマゼットマゼランは大きく左に寄れ、隣を走る別の馬にぶつかりそうになった。慌てて手綱を引いて制止したが、それにより今度は急ブレーキがかかり、馬は大きくバランスを崩し、ついには躓いてしまったのだ。

 そうなれば当然、騎乗しているこちらも無事では済まされない。馬の転倒に巻き込まれ、俺の体は大きく宙を舞った。

 終わった……。

 スローモーションで迫ってくる地面を見ながら、ぼうっとした頭でそう思った。

 頭から落ちる軌道だ。下手をすれば死ぬかもしれない。例え死ななかったとしてもダービーの直線で落馬する、などという醜態を晒してジョッキーを続けていけるわけがない。ダービーを勝つどころか完走すらできないとは。情けなさを通り越して自分に対する怒りしか湧いてこない。

 結局、俺は成宮に勝つことも、父の背中に追いつくこともできなかった。

 どうしてだろう。何が足りなかったのだろう。いや、もしかしたら彼ら『天才』とは決定的に持って生まれたものが違ったのかもしれない。だとしたら惨めに足掻いていた自分は本当に滑稽だ。

 だがもはやそんなことすらどうだっていい。どのみち俺の人生はもう終わったようなものだ。

 そんな諦念を抱きつつ、俺は大地へ激突する衝撃を受け入れた。


 新緑の芝の上を一騎のポニー(小馬)が駆けていく。

 俺はその背中に跨りながら鞭と手綱を駆使して彼を導いている。

 これは……。幼い頃、十歳くらいの記憶だろうか。確かジョッキーベイビーズという小学生の競馬大会に出場した時のものだ。

 どうしてこんな過去を振り返っているのだろう、と考えたところで急に自分が落馬したことを思い出した。なるほど。それならばこれは死ぬ前の走馬灯のようなものなのかもしれない。都合よく自分にとって輝かしい記憶を見るなんてどれだけおめでたいのだろう。

 俺の自嘲的な感情とは裏腹に、記憶の中の幼い自分は真っすぐな気持ちでレースに臨んでいた。今見れば下手くそすぎると思う部分もたくさんあったが、がむしゃらでひたむきな昔の俺は自分自身と馬の力を信じて懸命に愛馬を鼓舞していた。彼もそんな俺の気持ちに応えてぐんぐんと加速していき、最後の直線では前にいた馬たちを抜き去って見事先頭でゴール板を駆け抜けた。

「大空風馬くん! 優勝おめでとうございます! 今の気持ちを一言」

 満面に愛想笑いを張り付けた中年の男性アナウンサーがマイクを向けてくる。そういえばレース後にはこんな風にインタビューを受けていたような気もする。

「とてもうれしいです! それとがんばってくれた馬に感謝したいと思います」

「なるほど! 素晴らしいレースでしたね! 風馬くんはお父さんがあの有名な大空天馬さんですが、やはり将来はお父さんと同じジョッキーを目指しているんですか?」

「はい! 父のようにみんなから信頼されるジョッキーになりたいと思います。そしていつか絶対に、父が勝てなかったダービーを獲りたいと思います!」

「素敵な夢ですね! きっと天馬さんも誇らしく思っていらっしゃることでしょう。以上、未来の天才ジョッキー、大空風馬くんでした!」

 そうか。この頃の俺はまだ天才少年だったのだ。

 神童、天才、選ばれし者。子供の頃に競馬の大会で優勝するたびに周りの大人たちは俺に父の面影を重ねてもてはやした。

 一体いつからだっただろう。『天才』と呼ばれなくなったのは。いつから俺の才能は枯れてしまったのだろう。いつから『さすがは大空天馬の息子』と言われなくなってしまったのだろう。

 いつまでも止まないフラッシュの光とシャッター音に包まれながら、敗北感に打ちのめされた俺の意識は徐々に薄れていった。


「ふーん。これがルナが拾ってきたっていう男なのかい?」

「もう! そんな捨てられていた犬みたいな言い方しないでよ、ヘカテ」

「似たようなものじゃないか。どこの馬の骨とも知らない人間なんて」

 すぐ近くで二人の女性が話す声が聞こえる。

 一体、何だっていうんだ……。

 何か随分と古い記憶を見ていたような気もするが、頭がぼんやりとしていてよく思い出せない。

 俺は酷い頭痛に顔をしかめながらゆっくりと目を開けた。

 そこは全く知らない部屋だった。

 ログハウスのような温かみのある木目調の壁と小さな机。開け離れた窓からは柔らかい陽光が差している。俺は部屋の中央に置かれた簡素なベッドに寝かされていて、その傍らの椅子に一人の少女が腰かけていた。

「あれ! 目覚ました!? 良かったよ! 無事で」

 俺が意識を取り戻したのに気づき、少女が嬉しそうな声を上げた。

 肩まで伸ばした銀髪と青く大きな瞳が印象的な美しい少女だ。華奢な体に深い緑色のチュニックを纏い、茶色のショートパンツを穿いている。

「大丈夫? どこか痛めたりしてない?」

 少女は心配そうな口調でこちらを覗き込んでくる。

 あまり女性に慣れていない俺は、急に彼女の顔が近づいてきたのでドキマギしてしまったが、銀色の髪の間に見え隠れする耳を見て凍り付いたように固まった。

「ん? どうかした?」

 ピンと尖った長い耳。人ならざる者のそれは彼女がエルフであることを示していた。

「嘘だろ……」

 目が覚めたら見知らぬ場所で、空想の世界の住人である亜人に出会う。そんな出来事があるとしたら、アニメやマンガでよく見る『あれ』しかない。

 そう、きっとこいつは異世界転生だ。

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