エピローグ① 解ける確執、前世との決別
アンナリーザは、
(つまり、マリアネラは
窓からの景色を
「あの、アンナリーザ様」
「──はい」
物思いにふけっていたアンナリーザの耳に、おずおずと呼び掛ける声があった。どこか舌足らずな印象の、かつ、こちらの機嫌を窺うような調子の女の声だ。
「王女殿下。とても、怖い思いをなさったと思います。あの……申し訳ございませんでした。どうか、クラウディオを悪く思わないでくださいますように……」
「まあ、とんでもないことですわ、女公爵」
マリアネラを前に沈黙していたことに気付いて、アンナリーザは慌てて笑顔を繕った。エルフリーデだった時とは違って、今の彼女にマリアネラを嫌う理由はない。前世の確執も、たぶん解けたと思う。訪ねてきた相手を放っておいてしまったのは、彼女のほうの無作法というものだった。
「イスラズールの
新たな王──そう、父王に代わってのクラウディオの即位は大方の民と臣下に認められた。開拓地から駆けつけた民の数を見て怯んだ者、アンナリーザやユリウス──つまりは、大陸との繋がりを重視した者も多いから、彼自身の資質や器量はこれから見極められることになるのだろうけれど。
(でも、きっと大丈夫……!)
彼には、すでに
「私などに時間を費やすより、貴女には為すべきことが多いと思いますわ、女公爵。ご子息にも、これからのことをよく説明していただかないと」
「恐れ入ります……。あの、ずっと前からそうしなければならなかったのでしょうけれど。私では、とても……」
アンナリーザができるだけ優しく語り掛けると、マリアネラは安堵と同時に恥じ入るような、複雑な表情を見せた。
(マリアネラ……相変わらずとても可愛いわね)
エルフリーデの記憶と目の前の女を重ね合わせて、アンナリーザはしみじみと思う。年齢相応の老いはあるにしても、顔かたちの美しさ、言葉遣いの幼さやふんわりとした雰囲気は変わらない。一歩引いた目線で見られる今なら、庇護欲をそそるとはこういうことか、と自然に分かる。それに──花咲くような笑顔に、怯えや不安が隠れているのも。
(
いつも、ふわふわと得意げに笑っていると思っていたのは、エルフリーデの目が曇っていたのかもしれない。あるいは、二十年に渡ってレイナルドを宥め続けて、マリアネラの可憐な笑顔にも綻びが出てきたということなのか。いずれにしても、今のアンナリーザはこの女性を嫌う気にはなれなかった。それどころか、ごく自然に微笑むことだって、できる。
「ご息女の
「まあ……ありがとうございます」
隔意はないと、伝えることができたのだろうか。マリアネラの笑みもいくらか明るくなり──けれど、すぐにまた不安の影が忍び寄る。
「あの、でも、よろしいのでしょうか? その──ええと、そもそものところから、なのですけれど。王子殿下と、娘が……」
これは、誰もが驚いたというか呆れたというか首を捻ったことなのだけれど。マリアネラの娘のセラフィナに愛を囁かれたディートハルトは、どうやら彼女の想いに応えるつもりになった、らしい。
(そういえば、言われたことには素直に頷く方だったわ……)
海の向こうの地の王になるよう命じられた時も、アンナリーザに求婚を断られた時も。ディートハルトは、なるほどそういうものか、ていどの面持ちであっさりと受け入れていた。ならばセラフィナに結婚を迫られても同じことなのかもしれない。マリアネラの娘なら、彼女も美しいのだろうし。
(それに……悪いことではない、はずよ)
半ばは自分に言い聞かせるように、アンナリーザはそっとマリアネラの手を取った。何を考えているか分からないと思っていた相手も、肌に触れれば温かく柔らかい。……そんなことに気付くのに、二十年もかかってしまった。
「フェルゼンラングの国王陛下がどのように思し召そうと、お怒りが海を越えることはございませんでしょうから。クラウディオ様もかの国の御血筋でいらっしゃることですし、従兄弟同士で手を携えるのも良い形かもしれません。……私、というか
王家の子女を、国益のために使い捨てる──エルフリーデの祖国のやり口は今も変わっていなくて、アンナリーザには受け入れがたい。ディートハルトがセラフィナの夫君で満足してくれるなら、フェルゼンラングがイスラズールに介入する可能性は減るし、その分マルディバルが主導権を握ることができるかもしれない。ディートハルト自身にとっても、そのほうが幸せなのではないか、という気がする。
「……時代は、変わるのでしょう。イスラズールとフェルゼンラングの関係は、かつては良いものではなかったのでしょうけれど。でも、これからは違う──変えることができるのではないか、と思います。ディートハルト様と……セラフィナ様は、その象徴になってくださるのかもしれません」
「そう、でしょうか……」
「そうですとも。そうなるように、私も努めますから」
言い切った後──アンナリーザは、マリアネラの手を握った指先に、力を込めた。少し身体を傾けて、相手の耳元にそっと囁く。
「ですから、私とエルフリーデ妃を重ねる必要はないのですよ、女公爵」
「え──」
マリアネラの、見開かれた目を覗き込んで、アンナリーザはゆっくりと言い聞かせた。
「貴女は私と亡くなった方を重ねていらっしゃる節があると、前
「……申し訳ございません。私は──」
関係のない相手と重ねられて誘拐された、との糾弾だと思ったのだろう、声を震わせたマリアネラに、アンナリーザは優しく首を振った。
「ですから、お気になさる必要もない、ということです。エルフリーデ妃は──お気の毒では、あったのでしょうが。クラウディオ様の成長を見届けたかったでしょうし、イスラズールのことも気に懸けていたでしょうし。……でも、もう亡くなった方ですから」
だからもう良いのだ、と。前世の自分を突き放しながら、アンナリーザはマリアネラの手を離し、用意していた小箱を見せた。細やかな細工が施された蓋を開けると──虹のような絢爛な輝きが溢れだす。海を越えて彼女に贈られた、宝石の蝶の装飾品だった。
差配したのはマリアネラだから、じゅうぶん覚えはあるだろう。ただ、
「私、
クラウディオの意中の人は、テソロカルトにいたフアナではないのか、と。仄めかしたのは伝わったらしい。
「もしかしたら、と感じることはありましたわ。その時は、エルフリーデ様の時のようなことがないようにと、言い聞かせなければならないと思っていました……!」
確かに、アンナリーザへの求婚が成功していたなら、フアナは日陰の身になっていた。言い聞かせるというのは、分を弁えさせるというのか、そもそも寵姫など置かないように、ということなのか。いずれにしても、アンナリーザは求婚を断っていて正解だったのだろう。
(それに……マリアネラも、ずっと気にしていたのね。この人が望んでいたことではなかった……)
そう、腑に落ちたことで、アンナリーザの中の
「かつてのようなことは、もう起きないと思います。クラウディオ様は、父君とはまるで違うから。……だから、安心なさってください」
「はい。ありがとうございます。アンナリーザ様……!」
目に涙を浮かべたマリアネラを、アンナリーザは抱き締めた。そうして、前世の自分と決別した。
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