第8話 前世の夫との対峙
(もうすぐ……ユリウス様とクラウディオが動き始める。レイナルドがそれを知ったらどれほど怒り狂うかしら……)
順調にいけば、レイナルドが気付いた時には打つ手はなくなっているはずだ。謁見の間に、多少の兵はいるとしても、王宮の外はフェルゼンラング派の手勢と開拓地から辿り着いた民に取り囲まれる。城内の兵も、ユリウスとクラウディオがそれぞれ率いる一団が制圧する。……その、はずだ。
アンナリーザとフロレス伯爵は、その段取りが済むまでレイナルドの注意を引き付ける役を負っている。丸裸にされたと知ったら、あの男も無駄な抵抗は試みないと思いたい。海賊に攫われたはずの彼女が突然現れたとなれば、聞きたいことは山ほどあるはずで、時間稼ぎは簡単なはず。
(私だからこそできるのよ。あの男の性格を知っているから)
そう、自分に言い聞かせても、知っているからこその恐怖が過去から忍び寄るのだ。レイナルドの傲慢さ、粗暴さ、激昂した時の声の恐ろしさ。
(
イスラズールは、長いこと間違った王を戴いてきた。それを正すこともまた、アンナリーザにとっての過去との決別の一環だ。足首に提げた拳銃の冷たい重みを、御守りのように感じながら──アンナリーザは、一歩ずつ前世の夫の前へと歩んだ。
* * *
幸いに、というべきか──フロレス伯爵を前にしたレイナルドの機嫌は、悪くはないようだった。フロレス伯爵の後ろで跪き、目を伏せたアンナリーザの耳に届く壮年の男の声に、かつてエルフリーデを怯えさせた狂暴な響きはなかった。
「マルディバルのアンナリーザ姫を連れて来たとか。本当か?」
「は──姫がお持ちだったマルディバルの紋章が、ここに」
伯爵の説得のため、アンナリーザは身分を証明するものを携帯していたのが役に立った。フェルゼンラング派の信頼を得るべく、ラクセンバッハ侯爵アルフレートの署名の書簡もあったのだけれど、それは今は見せる訳にはいかない。
「なるほど」
そもそもレイナルドはアンナリーザに求婚していたのだし、それが建前だとしてもマルディバルとの通商を望んでいた。その相手の紋章くらいはさすがに把握しているのだろう、あっさりと頷く気配が空気を揺らした。
「──顔を上げていただけるか? お招きしたのにこのような事態になって、心配していた」
とはいえ、アンナリーザにかけられるレイナルドの声に、言葉ほどに案じる響きはなかった。
(私の肖像画は、届いていたのかしら。確かめようとしているのね……?)
フェルゼンラングと通じるくらいだから、フロレス伯爵は王とは疎遠なのだろう。さほど忠実でもない臣下が連れてきた女を、レイナルドはまだ信じていないのだ。
「御目にかかれて光栄ですわ、レイナルド陛下」
でも、アンナリーザが恐れる理由は何もない。彼女は正真正銘のマルディバルの王女で、肖像画でも言葉での情報でも、レイナルドが知る特徴に間違いなく合致しているのだから。だから、淑やかに答え、王女の威厳と気品を示すべく、最高に優雅な所作で顔を上げる。──と、数段高いところに据えられた玉座から、翡翠色の目が鋭く彼女を見下ろしていた。
「なるほど。聞いていた通りの容姿だ。無事でよかった、アンナリーザ姫」
「ありがとうございます」
今度こそ認められたのを知って、アンナリーザは少しだけ肩の力を抜いた。あとは、時間稼ぎに専念すれば良い。使節団とディートハルトと、それぞれの監禁場所で起きるかもしれない騒動から、レイナルドの注意を逸らすことさえできれば。
(聞きたいことは山ほどあるはず。いくらでも付き合ってあげるわ……!)
航海の間のこと、攫われてからのこと、両国の今後について。伯爵と慌ただしく口裏を合わせたところもあれば、取り繕う必要もなく話す準備ができていることもある。何を聞かれても堂々と答えよう、と。アンナリーザは意識して背筋を伸ばした、のだけれど──
「若い姫君はやはり可愛らしい。我が息子も喜ぶだろう」
「……は?」
エルフリーデの記憶にあるより二十年分老けてもなお、レイナルドは美丈夫と言って良い容姿だった。その男が、大きな手を差し伸べて、アンナリーザを招いている。まるで、献上された品を間近に検分しようとでも言うかのように。その傲慢さも信じがたいし──レイナルドは、今、何といっただろうか。
(息子……クラウディオのことでは、ないはずよね……?)
おずおずと立ち上がりながら、アンナリーザは口を開いた。レイナルドの手招きに応じるためではない。何か──すごく無礼なことを言われた気がして、跪いたままでいる気になれなかったのだ。
「陛下。私は……何よりもまずお詫びをするために参りました。陛下からの求婚を、お断りするつもりだからです。お詫びをしたうえで、それでも貴国とマルディバルの間に友情が築けたらと──その、誠意をお見せするために海を越えたのです。使者のオリバレス伯爵は、陛下のご意向を正しく伝えてくださらなかったのでしょうか。ご子息、とはいったい何のことですか……!?」
問い質すうちに、アンナリーザの声は高まっていった。足も、彼女の語勢につられるようにほとんど無意識に進み出る。フロレス伯爵が狼狽える気配を感じたけれど、今さらかしこまったところで意味がないだろう。
(だって……何か思惑があるだろうとは、思っていたけど!)
二十歳も年上の、しかも再婚の縁談が受け入れられるとは思っていないだろう、とは考えていた。次の申し出が通りやすくなるための布石に過ぎないのだろう、と。そもそもはそれを確かめるのも航海の目的のひとつだった。レイナルドの真意が何だったのか──今こそ分かった気がするけれど。でも、まさか、と思いたかったのに。
「
「嫌です」
目の前の小娘の動揺など気付いていないのだろう、レイナルドが機嫌良く語るのを聞きたくなくて、アンナリーザは短く斬り捨てた。そして、ひと言ではとうてい嫌悪を表すのに足りないから、さらに大きく息を吸う。
「大陸では、正式な夫婦の間から産まれたのでは
「何を──」
目を見開いたレイナルドは、まだ事態を把握してはいない。ただ、小娘の分際で歯向かった、ということだけは理解したらしい。ぎり、と奥歯を噛み締める音がアンナリーザの耳にも届き、引き攣った口元や頬に昇る血の色が、かつてエルフリーデが恐れた激しい怒りの兆候を示す。でも──今は、アンナリーザのほうが怒っている。
「陛下の再婚相手を探すのに苦労なさったと伺っております。海を越えた新興の国だからと思っておいででしたか? ──違います! エルフリーデ妃への扱いが、大陸にも広まっていたからです! 陛下にも言い分がおありでしたでしょうけれど! でも、悪評を払拭するには何よりもご自身の振る舞いが肝要でしたでしょう。こんな、騙し討ちのようなやり方ではなくて!」
クラウディオも、勝手な思い込みで求婚をしてきた。海賊を使っての誘拐も、乱暴な手段だった。でも、彼はまだ悪いことをしているという自覚があったし、謝罪も反省もしてくれた。それに引き換え、
(この男ときたら、良い歳をして何も変わっていない……!)
精いっぱい胸を張って睨みつけると、レイナルドは犬が吠えるような顔つきをした。
「……フェルゼンラングに毒されているな。
大柄なレイナルドが、足を踏み出し拳を振り上げる。こういうところも、呆れるほどに変わっていない。大声と暴力で相手を従えられると思っているのだ。
(どこまでも愚かな男……!)
心の底から軽蔑したアンナリーザの頬に、レイナルドが拳を振り下ろす風圧が当たり、彼女は勢いよく床に転がった。
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