第9話 初めて出会う懐かしい色

 一夜明けて──煌びやかな宝石の蝶を髪に飾って《三日月アルヒラール》号の甲板に出たアンナリーザを見て、ゲルディーヴは小さく口笛を吹いた。


「すごいな、。もらっとけば良かった」

「私の着替えに入っていたものよ。今さら欲しいなんて言わないわね?」

「まあ、それはそうなんだけどさ……」


 短い付き合いだけど、この少年が結構義理堅いのはもう分かっている。何かと思わせぶりなもの言いに苛立たせられるのとは、また別の話だ。とやらの意向もあるのだろうし、これでもアンナリーザの機嫌を損ねたいと思ってはいないのだろう。


 宝石の一粒一粒を目で数えていそうなゲルディーヴに苦笑して、アンナリーザは頭に留まった蝶にそっと指先を伸ばした。


「それにこれは、だけなの。もう片翅を、イスラズールの誰かが持っているそうよ」

「へえ。が戻って来るなんて期待してたのかな、そいつは。偉い人たちは呑気なんだな?」

「そうね……」


 彼だったら、もらえるものはもらっておいて逃げる、のだろうか。いかにも海賊らしい発想だった。


(いえ……私も、そうできなくはなかったけれど)


 父も母も兄も、彼女を遥か海の彼方に送ることを躊躇っていたのだから。アンナリーザが強引に押し切らなかったら、美しい蝶は大陸とイスラズールで引き裂かれたまま、二度と完全な形にはならなかったかもしれない。たとえ生命の宿らない宝石の蝶でも何だか可哀想だから、アンナリーザの旅路は蝶のためでもあったのかもしれない。


(マリアネラがいるのは、ベレロニードよね。そう簡単には会わせてあげられないかもしれないけれど──)


 の太陽を受けて輝くのは、蝶にとってもきっと本望だろう。たとえこれから会うのが王ではなく、出向くのが王宮でないとしても、イスラズールであることには変わらないのだから。


(イスラズール人たちは、イスラズールのことを思っている、わよね……?)


 レイナルドという反証を知ってしまっていると、不安は拭えないのだけれど。仮にそうだったとしても、マルディバルの利益に配慮したり、アンナリーザたちの身の安全を今後も保障したりしてくれるとは限らないのではないか、という考えも頭を過ぎってしまうけれど。


(でも、もうすぐ何もかもはっきりするんだから……!)


 暗く狭い船室で、答えのない問いを抱えて思い悩むよりは、現実の困難のほうがよほどマシだ。だからアンナリーザの思いは昨夜と変わらない。──これから行く場所、会う人々を楽しみにして、あとほんの少しの旅を耐えるのだ。


      * * *


 船首が緩やかに角度を変えたとたん、ひたすら続くと見えた密林が、途切れた。


「港がある……!」


 ユリウスが小さく叫んだ通りだった。船首近くに並んで航海の終着駅を待ち望んでいたアンナリーザたちの前に、明らかな人工の建造物が現われていた。人の介入を拒むかのように密集して生い茂る木や草むらを、よほど丁寧に時間をかけて切り拓いたのだろう。そして、手間暇をかけて維持しているのだろう。大型船がどうにか通れるくらいの幅の川の両岸を、木材や石材が固めて逞しい植物たちの侵入を防いでいた。小舟が何艘か繋がれているのは、ここの住人たちが日常の漁に使うのだろうか。でも、待っているはずの人々も、先行しているはずのもう一隻の海賊船、《満月アルカマール》号もまだ姿が見えない。


(いつ到着するか、時間までは伝わっていないの……?)


 訝しむうちに、《三日月アルヒラール》号はゆっくりと川に進んでいった。両側の船舷せんげんを伸びた木の枝や蔦が擦り、アンナリーザたちも時に木の葉に頭を撫でられそうになる。蔦に引っかかりかけた眼鏡を抑えながら、ユリウスが思わず、といった風に呟いた。


「この船が通れるのか……?」

「外から見える部分は小さく作ってあるんだ。最悪、漁の拠点だと言い訳できるようにな。……奥に入れば、もっと驚くぜ?」


 大きな羽虫が目の前を横切って、アンナリーザは跳び上がったし、ベアトリーチェもさすがに彼女の腕を取って身体を縮めている。彼女たちの驚きようが楽しいのか、ゲルディーヴはいつになく楽しそうだった。


 気付けば、《三日月アルヒラール》号の帆は小さく畳まれていた。木の枝によって破損しないように、ということだろう。受ける風の力も弱くなるからこその減速でもあったらしい。


(奥に……見つかってはならないようなものが……!?)


 何度か川が蛇行すると、《三日月アルヒラール》号は完全に密林の只中にいた。少し離れれば、陸の上を船が走る不思議な光景にも見えるだろう。後ろを振り向いても、もはや海の青は見えない。それどころか、空でさえ生命力あふれる木々によって大幅に遮られている。この地に生きる人たちがいたとして、集落──なのか街なのか──の存在を知った上で探さなければ見つけることは難しいだろう。密林を掻き分けて辿り着くのはなおのことだ。


(きっと、の存在をレイナルドも知らないんだわ……!)


 これほどの規模のことを成し遂げて、海賊まで巻き込むなんて。よほど人望ある指導者がいるとしか思えない。それは、彼女エルフリーデが知る人物なのだろうか。

 アンナリーザが胸を高鳴らせるうちに《三日月アルヒラール》号はまた緩やかに舵を切り──そしてついに、視界が開けた。


「わ──」


 そこに広がっていたのは、確かに街並みだった。

 石で舗装されているのはごく一部だけで、多くは剥き出しの地面になっていたけれど。でも、雑草の生えていない赤茶の土は、多くの人が日常的に行き来しているのを思わせた。建物も、木で造ったものが多いようだけど、この奥地までは石材を運ぶのは、たとえ船を使っても難事だろうから手近な材料を使うのは仕方のないことだろう。家々からは炊事の煙が立ち上り、本当に久しぶりに嗅ぐ香辛料の香りに美味しそう、と思ってしまう。きっと、ゲルディーヴたちがもたらした品が人々の生活を潤しているのだ。


「おっ、出てきてるぞ」


 と、そのゲルディーヴの声に促されて、アンナリーザたちは船舷から身を乗り出した。少年海賊が指さす先に、川岸が掘り下げられたのか、入り江のようになった部分がある。《三日月アルヒラール》号は、そこに入港しようというのだろう。もう一隻の《満月アルカマール》号も、すでに錨を下ろしているようだった。それに、何より──


「あれが、か……!?」


 ユリウスがゲルディーヴに問う声が、どこか遠くから聞こえるようだった。


 船舷から見下ろす岸辺に、人が一列に並んでいる。合わせて二十人いるかどうか、くらいだろうか。マルディバルを発った時の見送りの人数に比べればごくささやかだけれど、この「街」の人々なりの歓迎なのだろう。中には女性もいるから、ここで結婚して子を持った人、ここで生まれ育った人ももういるのかもしれない。誰がこの「街」を、に加えて、いったいいつから、という疑問も浮かぶ。


 でも、それさえも、アンナリーザにとっては大したことではなかった。彼女が見つめるのは、列の真ん中にいる赤褐色の髪の青年だった。頭上を遮る木の枝ははもうないから、陽光は惜しみなく彼にも注がれて、その髪を燃えるような赤にも見せる。炎と王冠と戴くような髪の色は──にとっては、身近に見慣れたものだった。多くの場合、恐怖や嫌悪や苛立ちを込めて見つめた色だ。でも、感情を排して見れば、王に相応しい美しい髪なのは認めざるを得なかった。


(まさか。そんなはず……こんな、ところで!?)


 考え過ぎだ、期待してはならない、と。アンナリーザは必死に自分に言い聞かせようとした。

 青年は、彼女と少しだけ年上に──つまりは、クラウディオと同じ年ごろに見えたけれど、まだ距離があるのだから分からない。見事な赤毛は珍しいけれど、まったくいない訳でもない。第一、の髪の色を確かめることもできないまま死んだのだ。余計なことを考えては、交渉の雑音になってしまう。


 でも──その青年は、近づく海賊船を見上げて顔を上げた。額に手をかざして、船弦に並んだたちの姿を確かめようとするかのように。畳んだとはいえ、《三日月アルヒラール》号の帆が陽光を反射して眩しかったのだろうか。


 軽く細めたその青年の目は、エルフリーデと同じ、深い青の色をしていた。

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