第10話 暗闇に妖しく輝くは月ふたつ

 床に叩きつけられた肩が、痛む。思わず目を閉じたアンナリーザの目蓋に、光が刺さった。押し入った賊の携えたランプだか松明たいまつだかの灯りだろう。


(目を、慣らさないと……!)


 相手の人数や年格好、外の様子を確かめたくて堪らないけど、我慢しなくては。ドレスの裾を整える振りで、アンナリーザは足首に巻いた銃鞘ホルスターを探った。心臓はどきどきと高鳴ってうるさいし、指先も震えてしまって全然練習の時のようにはいかない。銃把グリップを握ろうとすると、汗で滑って取り落としそうになってしまう。でも、違うというならまとの近さも大きさも、だ。


(油断して近づいてくれば良い……!)


 陽動にはまってしまっただけで、船乗りたちが海賊に後れを取るとは思いたくなかった。ユリウスやディートハルトも、今はこの《海狼ルポディマーレ》号にいないはずで──だから、ほんの少し時間を稼げば助けが来るかもしれないのだ。名誉と身の安全の確保のためにも、何もしないでいる訳にはいかない。そう自分に言い聞かせれば、スカートのドレープに隠れて、しっかりと銃把グリップを構えることができた。


「アンナリーザ姫は、金髪のほうかな? 十六歳だって言うし」

「ええ、私よ!」


 賊が彼女の名前まで知っていることに、さらに震えながら。それでもアンナリーザは目を見開き、拳銃を構えた。床に座り込んだままの姿勢だけど、かえって安定するくらいだろう。狭い船室の中でのこと、引き金を引けば相手のどこかには当たる、そんな近さのはずだった──のに。


「……っ」


 扉を蹴り破ったと思しき相手の姿をまともに捉えて、アンナリーザは銃口を揺るがせてしまう。


 若いのは、声の高さや言葉遣いからも分かっていた。だから、彼女と同じ年ごろの少年だと確かめても、それほどの驚きではない。ただ、の容姿のほかの特徴と併せると、彼女の目にはとても珍しく、かつ意外に映った。


「へえ、そんなが使えるんだ。やるじゃん」


 驚いたように軽く瞠った目は、金色。暗闇の中では、室内に月がふたつ、輝くかのようにも見える。きっと、彼の髪と肌の色が余計にその神秘的な目の色を際立たせているからだ。緩く波打つ髪は、陰に紛れる黒。肌も、日焼けの色よりなお濃い褐色をしている。


(《南》の人……!)


 それは、《南》大陸にだって海賊はいる。かの地の濃い肌の色は、マルディバルの港でも目にすることがある。でも、イスラズールを発見し開発してきたのは《北》大陸の諸国だった。イスラズール近くの大海原で、アンナリーザの名を知る者がこの容姿の持ち主ということは──


「撃たないでくれよな? 痛いのも痛くするのも嫌なんだ」


 と、褐色の肌の少年が、ヒョウのように音のしない足取りで一歩近づいたのに気付いて、アンナリーザは慌てて銃を構え直した。


「来ないで……!」

「悪いけど聞けないんだよなあ」


 銃口のすぐ先には、宥めるように軽く両手を広げた少年の姿。困ったように微笑んではいるけれど、アンナリーザを見下ろすその目はそれこそ獲物を狙う猛獣の鋭さを湛えている。銃弾を浴びるのも覚悟のうえで、どこに次の手で彼女を取り押さえられるか、そこまで考えているのだろうと彼女にも分かる。


(嫌……怖い……!)


 少年がもう一歩足を踏み出した瞬間に、アンナリーザは引き金を引いた。でも、目を瞑ってしまった。そのことを、吐き気がするほど後悔した──あるいは、そんな暇さえなかったのだろうか。発砲した反動でアンナリーザは倒れかけた。けれど、また床にぶつかることはない。


あっぶねー。本当ホントに撃つんだもんなあ?」

「きゃ──」


 《南》の色を纏った少年が、間近に金色の目を笑ませていた。口を開いたきり、悲鳴を上げることもできないまま、アンナリーザは彼の腕の中に囚われて立たせられる。拳銃は、震える手から取り上げられてしまった。銃弾は──どこかに掠りくらいはしたのだろうか。少なくとも、少年は笑って動くことができている。アンナリーザは失敗したのだ。


(心臓を狙ってやれば良かったわ……!)


 悔恨に、歯を食いしばって。硝煙と、知らない香辛料と、それに少年の体温に包まれて、息をすることさえままならない。彫像のように固まった彼女を見下ろしてちらりと微笑んで──少年は、首を巡らせ、声を上げた。


「姫は捕らえた! 略奪はほどほどにして引き上げるぞ! すぐに手勢が戻って来るからな!」


 少年の呼びかけに応じて、荒っぽい足音が幾つかアンナリーザの──王女の! ──船室に踏み込んできた。


「おう!」

「こっちの女はどうする?」

「連れてけ。お姫様のお世話をしてもらう」


 ベアトリーチェが息を呑む音が聞こえて、アンナリーザは海賊たちが彼女にも手をかけたのを知った。ここで声を出さないでいることなんて、できない。


「止めて! 彼女に手を出さないで!」

「そんなこと言われてもなあ」


 立ち上がってみると、少年はアンナリーザよりもいくらか背が高かった。彼女の腰に回した手も、ほっそりとした見た目の割に力強くて逃げられそうにない。豹と思った印象に違わず、しなやかに鍛え上げられた体躯をしているらしい。


 獲物を嬲る肉食獣の表情で、彼はアンナリーザの耳元に囁いた。


「お姫様は、俺たちに着替えさせられたりとか嫌だろう?」

「な──」


 無礼だった。言葉も、顔の近さも、そもそもこの襲撃も。声も出ないアンナリーザに笑いかけて、少年は彼女の身体を廊下へと引っ張り出す。ほかの船室の扉は開け放たれて、縛られた侍女や従者、衣装箱を運び出す賊どもの影が松明の火に揺らめいた。


「あ、アンナリーザ様……お供、いたします……!」

「そんな……っ」


 アンナリーザとほぼ同じ格好で、別の賊の腕に囚われたベアトリーチェが、震える声で囁く。


(貴女は私の侍女じゃないのに……!)


 アンナリーザが無理に乞うて、イスラズール行きに同行してもらったのだ。海賊に攫われて──この後、何が起きるか分からないなんて。彼女の才に対しても、大陸で待つ顧客に対しても申し訳が立たない。


「怖がらなくて良いよ? ひどいことはしないからさ」

「……しているじゃない……!」


 白々しいとしか思えないことをうそぶかれて、アンナリーザは口を開く気力をかき集めた。彼女がきっ、と睨んでも相手は動じることなく、甲板への階段を軽々と登っていくだけだったけれど。女ひとりを抱えているというのに、スキップでもしそうな足取りなのが腹立たしいことこの上ない。


「誰も殺しちゃいないよ。そっちで同士撃ちでもしてたら別だけどさ。──あ、あと荷物をちょっともらうのは、まあ手間賃ってことで!」


 少年の笑顔が輝いた。甲板に出た瞬間を狙いすましたかのように、朝日が水平線から顔を出したのだ。赤い曙光に目を細めるアンナリーザの視界に、《海狼ルポディマーレ》号の現状が目に入る。


(……やっぱり、ひどいじゃない……!)


 白く誇らしく風を受けていた帆は、ところどころ焦げたり破れたりしている。甲板にも、焦げや破損が見える。血と硝煙の臭いが辺りに満ちて、呻き声も聞こえて──朝の爽やかな光が照らし出すには、あまりに悲惨で、残酷な光景だった。犠牲者がいないなんて、信じられない。


「わ、私をどうしようというの。私の名前を知った上で、こんなこと……!」


 毅然として抗議するはずが、アンナリーザの声はみっともなく震えていた。すぐ傍にいるベアトリーチェも、甲板の惨状に顔を真っ白に青褪めさせているのが目の端に映る。気丈な彼女でさえも、耐え難い光景なのだ。


 陽の光の下、褐色の肌を輝かせて。アンナリーザの目に浮かぶ恐怖と非難など知らぬげに少年は笑う。彼女を抱えたまま、船舷せんげんへと近づきながら。


「まずは俺たちの船に来てもらう。そこからどこに向かうかは──まあ、追々、な。この船の奴らに聞かれちゃ困るし──」


 そして彼は船舷を越えて、アンナリーザごと宙に身体を投げ出した。

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