第5話 悪い方ではないけど無理です

 いったい何秒の間、呆然自失のていで固まっていただろう。船外で荒れ狂う波と風の音をたっぷりと聞いてから、アンナリーザはようやく聞き返す余裕ができた。


「あの……今、何と仰いましたか?」

「私と結婚してください。私には貴女が必要です」


 彼女の躊躇いを余所に、ディートハルトは即座に答えを返してきた。先ほど言ったのを繰り返すだけでなく、もう少し言葉が追加されていたけれど。そう……アンナリーザは彼の言葉をしっかりと聞いた。意味も、理解した。


「少し、待ってくださいませ……」


 でも、そのうえでどう答えれば良いか皆目見当がつかなかったのだ。


(だって、世が世なら甥なのよ!?)


 フェルゼンラングの歴史を紐解けば、伯父と姪や叔母と甥で結婚した例もあるけれど、それも百年も昔のことだ。エルフリーデの時代ではすでに、近すぎる血縁での婚姻は忌まわしいという感覚が一般的だった。兄夫婦の子と結婚だなんて、たとえ肉体は他人のものだとしてもあり得ないとしか言いようがない。


「……父は、私に王女として心して振る舞うように命じました。私の一存でお受けできるお話ではありませんし、まず私に仰るようなことでもないと思います」


 嫌悪感を剥き出しにしないように、慎重に言葉を選ぶ。この場では、否とも応とも言い難いのだ、と。結論を先延ばしにすればディートハルトの気も変わるかもしれない──変わって欲しいと、切に思う。


船上ここでは、ほかに相手がいないからよ。だから思い違いもしてしまうのだわ)


 間近に接する、ほぼ唯一の歳と身分の釣り合う相手だから。だらしない振る舞いはしていないつもりだけど、それでも起きたばかりの顔や噛み殺した欠伸あくび、銃の練習の時の一喜一憂ぶりなんかを見るうちに、何もかもを知ったと思われてしまったのかもしれない。イスラズールに到着して船から下りれば、ほかの女性を見れば。フェルゼンラングの宮廷に帰れば。きっと、ディートハルトの目も醒めるだろう。


 思い違いに、決まっているのに──けれど、ディートハルトは真剣な眼差しのまま、アンナリーザの手を握って離してくれない。


「貴女さえ頷いてくだされば、マルディバル王は否とは仰いません。フェルゼンラングと、イスラズールとの国交を考えれば、きっと歓迎してくださるかと」

「そうかもしれません。でも、それなら帰国された際に父に打診してくださいませ。そう……それこそ、ラクセンバッハ侯爵を介していただくのが良いかもしれません。父の命令でしたら、私は従いますわ」


 父は、アンナリーザの意に沿わない結婚を無理強いしたりはしないだろう。アルフレートは、もしかしたら母国の利益を優先するかもしれないけれど。レイナルドを銃で脅しても良いとまで言ってくれた彼も、自国の王子に銃口が向く可能性は排除したいはずだ。


(この方は悪い方じゃない……でも、無理だもの)


 アンナリーザが喜んでいないことにようやく気付いたのだろうか、ディートハルトは不思議そうに首を傾げた。その隙に、アンナリーザはできるだけそっと彼の掌の間から自分の手を引き抜いた。拒絶されているからといって、怒ったり不安になったりする様子はないのがこの方らしいことではある。ただ──空になった手を見下ろす彼の表情は、少し寂しそうだったかもしれない。


「私が再びマルディバルの地を踏むことはありません。いや、まだ分からないので、恐らく……もしかしたら、ですが。書面での求婚が無礼なのは承知していますから、せめて、まずはアンナリーザ様のご了承をいただきたかったのです」

「……どういうことですの」


 王族同士の結婚は普通は使節を立てて申し込むものだ、という常識をディートハルトが備えていたことに少し驚きながら、アンナリーザは声を低めた。彼が、呑気に書面で申し込めば良い、と思っていたならまだマシだったかもしれない。それなら、大国の王子様のおおらかな傲慢さに呆れるだけで澄んだだろうから。でも、こんな言い方をされては不穏なものを感じずにはいられない。


「そうですね──」


 ディートハルトが呟いたきり、少しの間、沈黙が降りた。船の外壁を激しく叩く、波と風の音。食堂のほうから聞こえる、密やかな歓談の声。フェルゼンラングの従者たちは、少しは回復したのだろうか。海と空と人が奏でる音を聞きながら黙っていると、絶海に孤立した船の中で、さらに隔絶した空間に閉じ込められているようだった。


(ディートハルト様が言い淀むなんてことがあるの……?)


 気になることを漏らしたディートハルトは、目線を上げては下げたり、唇を開いては閉じたりしている。いつもは、思ったことを躊躇いなくそのまま口にしているとしか思えない言動なのに。いきなり求婚されて、色良い返事ができなくて──それでふたりきりになるのは気まずいことこの上ないのに。それでも話の重大さゆえに、アンナリーザから席を立つこともできなかった。


 ディートハルトが言葉を発したのは、さすがにそろそろ促したほうが良いか、とアンナリーザ機を窺い始めたころだった。


「──私は、イスラズールに骨を埋めることになると思います。父からはそう命じられましたし、ラクセンバッハ侯爵も承知しております」

「ディートハルト様……!?」


 そして一度口を開くと、彼の言葉は滑らかだった。ひと息に言い切るのだと、沈黙のうちに決意を固めていたかのように。でも、アンナリーザのほうは言われたことを受け止める覚悟なんて全然できていなかった。思わず腰を浮かせて小さく叫んだ彼女に、ディートハルトは困ったように微笑んだ。そんなに驚くのが意外なのだろうか。だとしたら、この方はやはり、今ひとつよく分かっていないのではないか、と思ってしまう。何ごとも──自身の将来のことでさえ。


 アンナリーザが眉を顰めたのを、どのように理解したのだろうか。ディートハルトは宥めるような手ぶりをした。大したことではないから落ち着いて、とでも言いたげに。


「ええと……一度や二度くらいは帰国できるのかもしれませんが。ですが、それも一時だけでしょうし、昨日の嵐を味わうと、船旅は二度とご免だ、という気分ですね」


 人の感情の機微に疎いらしいこの方のことだから、自分の発言の何かしらがアンナリーザを怒らせたと思ったのかもしれない。


(怒っている……ええ、私は確かに怒っている、けど……!)


 相手を責めていると取られないように、アンナリーザはできるだけ静かな声で問いかけた。


「……フェルゼンラングがイスラズールで何をしようとしているか──少しは聞いております。その計画のために身命を賭せと、フェルゼンラング王はそのように命じた、ということですか……!?」

「はい」


 でも、ディートハルトにあっさりと頷かれると、髪の毛が逆立つような激しい怒りがお腹の底から駆けあがった。


! フェルゼンラングは、また王族を異国に捨てるの……!?)


 アンナリーザが怒るのは、前世の祖国と前世の兄に対して、だった。エルフリーデと違って男だからとか成人しているからとかは言い訳にはならないだろう。気候も文化も違う異国で一生を終えろ、家族や友人にも二度と会うなという命令が、いかに残酷なものなのか、あの人たちは知らないのだ。


(この方は、だからあの時あんなことを……!)


 《彩鯨アイア・バレーナ》号での夜会で、ディートハルトがふと、遠い眼差しをしたことをアンナリーザは思い出していた。身分を明かして出席する機会はないかもしれないと、呟きながら。彼は、マルディバルの何もかもに最初で最後、のつもりで接していたのだろうか。


「そんな──ひどい命令です。父君だろうとフェルゼンラング王だろうと、従う必要はないと、思います……!」

「ええ、まあ、喜んで拝命したとは言えないのですが。でも、身に余る栄誉ですから」

「栄誉だなんて……!」


 父王の信任を受けたことが、なのか。祖国のために働けるから、なのか。王族には果たすべき義務があるのも、アンナリーザエルフリーデはよくよく承知している。でも、ディートハルトがふわふわと、へらへらと笑っているのが信じられなかった。心の奥底には不満も不安もあるはずだと、身を乗り出して彼に詰め寄ろうとしたのだけれど──


「求婚するからには、貴女には誠実にすべてをお伝えします。父の──フェルゼンラング王の命令は、より正確には私にイスラズールの王位に就け、というものです」


 例によってさらりとあっさりと、ディートハルトが告げた言葉がアンナリーザを耳と──それに、胸を貫いた。彼女が絶句した隙に、ディートハルトは再び手を握ってくる。その手を額に押し戴いて、彼は祈るように囁いた。


「私は、貴女にイスラズール王妃になっていただきたいのです」

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