四章 幾つもの思いを帆に乗せて

第1話 刺激的な香りと刺激的な関係と(ティボルト視点)

 袋の中には、底から口まで良質の肉桂シナモンが詰まっていた。くるりと巻いた樹皮の形に欠けはなく、甘い香りもはっきりとしている。《東》から渡ったばかりの品に間違いがないのを確かめて、ティボルトは頷いた。と、役人が袋に封を施し、商人に証書を発行する。


「肉桂を五十袋、確かに。風と潮が吉報をもたらすのを待つように」

「恐れ入ります。波と星に祈って待ちます」


 交易の契約の際の決まり文句が交わされて、商人は恭しく証書を両手で受け取った。封印にも証書にも、マルディバルの紋章が施されている。交易の船団が無事に戻った暁には、証書に記載された品目と数量に従って配当金が支払われるのだ。


 肉桂の袋が運び去られると、代わって胡椒こしょうだか丁子クローブだかの袋が積み上げられる。マルディバルの王宮の一角に設けられた受付所には、イスラズールへの出荷を申し出る商人が列をなしていた。ティボルトが愛する妹アンナリーザが、港中の商会を回って協力を呼び掛けた成果が、出始めているのだ。


(積み荷のほうは順調、だな)


 袋を開けてみると、今度の香辛料は鮮やかな赤い色の番紅花サフランだった。これで、元となる花は青く、しかも布や食材を黄色に染めるのだから面白い。香辛料として取引されるのは乾燥させたしべだけという貴重品のため、この商人が積んだのは十袋だけだった。


 再び契約の言葉が交わされ、証書が発行された。次の商人を部屋に入れる前に、ティボルトは傍に控えた書記官に視線を向けた。


「そろそろ休憩にしよう。お疲れではないか?」

「いいえ、お気遣いには及びません。まだまだ大丈夫です」


 顔を上げた書記官は、日に灼けた肌に、室内でも目に眩しい銀色の髪をしていた。眼鏡の奥で瞬く目は新緑の翠──フェルゼンラングの貴族、ヴェルフェンツァーン侯爵子息ユリウスだ。交易の場に携わる機会は貴重だからと、手伝いを申し出ていたのだ。


(手伝いというか……出資者には逆らえないと、思っていたのだが)


 正直なところ、ティボルトは侮っていたのだ。フェルゼンラングの貴族など狩りや社交に精を出すだけではないのか、と。最初に出会ったのがディートハルト王子だったこともあるし。だが、共に働いてみるとユリウスは思いのほかにやりやすい相手だった。少なくとも余計なことはしないし言わないし、証書に紋章をすためのろうを溶いたり紙を取り替えたりと、雑用を文句も言わずにこなしてくれる。


 事務的なやり取りばかりでなく、今少し踏み込んだ話をしてみたい、と思い始めたところだった。ペンを握り続けて強張った手を振りつつ、ティボルトは笑ってみせる。


「私のための休憩でもある。こうも強烈な匂いばかりだと頭が痛くなりそうだ」


 料理や菓子に適量を少量だけ使うなら魅力的な香辛料も、大量かつ間近に、しかも立て続けに嗅がされると楽しむどころではない。甘味も香りもつけない、いっそ苦いだけの濃い茶で一度頭をすっきりさせたい、という割と切実な事情もあった。


 それに、何より。この貴公子もイスラズール行きの船に乗るのだ。ディートハルト王子だけでも心配なのに、愛らしい妹の周囲にまたも年ごろの男が増えるとは。牽制するのか、あるいは妹を託すのか──決めるためにも、やはりユリウスの人柄を知らねばなるまい。


 ティボルトから歩み寄る姿勢を見せたのが、ユリウスには意外だったのかもしれない。軽く首を傾げたのにつれて、眼鏡のレンズがちらりと輝く。だが、彼はすぐに口元を綻ばせて頷いた。


「はい、それは確かに。それではしばしの休憩とさせていただきましょうか」


      * * *


 香辛料の匂いが充満する仕事場は避けて、ふたりは別室に移動した。開け放った窓からは、初夏の爽やかな風が潮の香りを運び、強烈な芳香に痺れた嗅覚をほぐしてくれる。バターと砂糖と卵だけの素朴な焼き菓子が、今はかえってごちそうだった。


 ささやかな茶菓を囲みながらの席は、出席者が男ふたりだけでは華がないことこの上ない。それでも、ティボルトは知り合ったばかりの異国の貴公子の人柄を知ろうと試みた。


「──父君の逸話を知っている者がいた。何でも、頬に傷を負わせた虎を狩ってその毛皮を常に纏っているとか……?」

「ああ……それは嘘です。いや、虎狩りの経験があるのは本当ですが、傷は、《東》を旅した時に喧嘩に巻き込まれたものだと聞いています」

「なんと。フェルゼンラングの侯爵ともあろう方が」


 ……手始めに振った話題に思わぬ答えが返って来て、絶句することになってしまったのだが。目を瞠るティボルトを前に、ユリウスはどこか照れくさそうな笑みを浮かべた。


「年に数日しか咲かない花の開花時期に、立ち寄った村で諍いがあったとかで──それで、一方に加勢して強引に終わらせたそうです」

「待ってくれ、そのほうが話が大事おおごとになってはいないか?」

「そういう方で、そういう家なのです。……なので私も、純粋な好奇心と探求心から、先日の妹君へのご無礼を──」


 ヴェルフェンツァーン侯爵の逸話への驚嘆と、妹が乗った王家の馬車を止めた者がいると聞いた時の怒りと不安と。渦巻く感情は胸の裡に留めて、ティボルトは無難な相槌を打った。


「なるほど」


 あまつさえ、目の前の青年とディートハルト王子は、アンナリーザの私室に、それも夜に招かれたのだとか。それを聞いて父母は妹を叱ったし、彼も苦言を呈さずにはいられなかった。ただ──何につけても悪びれない王子とは違って、ユリウスは一応弁解しようとしているようだ、とは心に留めた。


(事実、彼の申し出には助かってもいる……)


 多少、腹立たしくもあるが、商人たちが腰を上げたのはヴェルフェンツァーン侯爵家からの出資が明らかになったからでもある。イスラズールの耳目を憚って、フェルゼンラングそのものの関与は公にはできないから。好事家で名高い侯爵家ならそれくらいするだろう、という評判は、マルディバルの商人たちにも知れ渡っていたのだ。侯爵──と、実はフェルゼンラングも、なのだが──が船を出してくれるのなら、品物を交易に供するだけならば、心理的にも金銭的にも負担は大幅に減じられる。


「独断でいらしたはずなのに、ラクセンバッハ侯爵やディートハルト殿下と邂逅なさったのはさぞ驚かれただろう」

「ええ……陛下のご意思は、何も存じませんでしたもので」


 少々後ろめたそうにしながら、ユリウスはティボルトの探りをかわした。祖国がイスラズールで何を企んでいるのかは知らされていない、と。マルディバル入りした当初はともかく、今もそうだとは信じ難いが──


(臣下としての立場もあるのだろうな)


 すまなそうな顔を見せるだけ誠意がある、とティボルトは判断した。王をげ替えるなどという陰謀に、妹や祖国が巻き込まれるのは心外極まりないのだが、少なくとも今回の交易で何もかもが済むという訳ではないはずだ。


(フェルゼンラングが送り込むのは、王子とせいぜい数人の従者だけだし……)


 北の大国フェルゼンラングと、新興の小大陸イスラズールと。陰謀が成るまでには何度かの船の往復が必要だろうし、ならばアンナリーザがとにかくも今回の旅から無事に帰ればそれだけで良い。その成功率を少しでも高めるのに、ユリウスは力になってくれそうだった。


「貴殿も父君の血を引いていらっしゃるのだろう? 船旅をしたことは?」

「《東》にも《南》にも足を踏み入れたことはあります。未開の地を切り拓いた、とまではいえませんが、それなりに不便な場所にも」

「心強いことだ」


 ユリウスは、ティボルトの意図を正確に汲み取ってくれた。だからイスラズールへの航路でも足手まといにはならない、と。さらに彼は翠の目に強い決意を浮かべて宣言してくれる。


「妹君のことは、必ずお守りします。……ラクセンバッハ侯爵も、ディートハルト殿下も、同じお気持ちのはずです」

「心強いことだ」


 ユリウスの言葉の後半は、心から信じる気にはなれなかったが。それもまた伝わったのだろう、異国の貴公子は悲しげに悔しげに目を伏せ──レンズを光らせながら、顔を上げた。


「フェルゼンラングを疑われるのもごもっとも。私も、何もかもは知らないのです。本当に。でも──気になる情報はお伝え出来ます。すでにお聞き及びかもしれませんが、誠意の証になれば」

「イスラズールについて、ということか? 諸国の商人の間で噂になっていることでも?」

「はい」


 ユリウスはその情報とやらを伝える機会を窺っていたのではないか、と感じてティボルトは眉を寄せた。交易の手伝いは、ヴェルフェンツァーン侯爵家に特有の好奇心だけが理由ではなく、マルディバルの王子である彼と話す機会でもあったのでは、と。

 その直感を裏付けるように、ユリウスは言い淀む気配もなく滑らかに告げる。


「西方の海、イスラズールの周辺に、海賊船が出没するということです」

「略奪する船もないのに? いや、そもそもどこの船がそれを見たというのだ?」


 海賊行為というのは、襲われる相手があって初めて成立するものだ。賊だとてかすみを食って生きている訳ではないのだから、標的がいない航路には自然、海賊もいないということになる。季節や風向き、潮の流れという意味での安全と、海賊が出没しづらいという意味での安全と、どの交易船も常に天秤をかけて時期や航路を選んでいるものだ。


 ティボルトの疑問は当然承知していたようで、ユリウスは淀みなく説明を加えた。


「港や島がある訳ではない、西の海に消える船や、その逆があるのだそうです。なので、追われた海賊船が補修や、ほとぼりを冷ますために洋上に逃げているとか、小さな島でも不法者の間に知られているのではないか、と」

「ふむ。あり得ないことではない、か……?」


 海はあまりに広く、まして外洋の詳細な海図は三大陸のどの国も所有していないだろう。作成する意味がないのだから。海賊だけが口伝えに知る小島の存在があったとしても、大陸の諸国が捜査の手を及ぼすことはできない。


「そういう事情で潜んでいる船ならば、積極的に襲撃してくるとも限りませんが。ただ、救援も期待できない外洋でのことですから」

「確かに留意すべきだな。情報に感謝する……ほかに知る者がないか当たってみよう」

「そのようにお願いいたします」

「ああ」


 船に積むべき武装を頭の中で検討しながら、ティボルトは残った茶を飲み干した。

 休憩のはずが、肉体はともかく心はさほど休まらなかったかもしれないが。ユリウスが割と好感が持てる青年だと知れたのは収穫、なのだろう。

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