第2話 遥かな《西》に思いを馳せて

 《彩鯨アイア・バレーナ》号の甲板は、広い。夏の夜には、王家主催の舞踏会の会場にもなるほどだ。アンナリーザとティボルト、客人であるホーエンフロイデ公爵ディートハルトだけの席には、侍女や従者を含めてもあまりに広すぎる。よって、右舷うげん側の海を望む一角を幕で区切り、即席の客間に仕立てた。

 もちろん、他国の王族の接遇せつぐうに使うだけあって、贅を凝らしたタペストリーだ。陸の宮殿で、調度に気を配るのと同じこと。事実、ディートハルトはタペストリーをしげしげと眺め、そこに織り出された物語に見入っているようだった。


「珍しい意匠ですね。《東》の気配を感じます」


 フェルゼンラングの王宮には、東方由来の至宝を収めた一室もある。だからだろうか、ディートハルトはタペストリーの由来を見事に言い当てた。


「御目が高い。《東》と《南》から集まる産物を《北》に送るのがマルディバルですから。この《彩鯨》号は、大海に出ることこそありませんが、四方の海を旅した心地になっていただけるように心を尽くしております」


 兄のティボルトの外交用の顔は、あまりにも「よそ行き」で少しおかしかった。いつもなら絶対にしない澄ました顔で、にこやかな笑顔なんて浮かべて。マルディバルの国柄もあって、船乗りを相手にするときはもっと砕けた表情をするのも、妹だから知っているから。


「──ですので、お菓子は《南》のものを用意いたしましたの。棗椰子デーツ入りの砂糖菓子ハルヴァですわ。とても甘いので、お茶は濃く淹れております」


 ともあれ、「よそ行き」の表情を纏う必要があるのはアンナリーザも同じだった。飛び切りの笑顔を浮かべると、侍女に目線を送って茶菓を運ばせる。《彩鯨》号は厨房も備えているから、いつでも熱い茶や、時には料理を供することもできるのだ。海の幸だけでなく、諸国の美味や珍味をふんだんに使うことで、マルディバルの力を見せつけなければいけない。


「なるほど。確かに異国の味わいです。甘いものと香辛料を組み合わせるのですね」

「ええ。お気に召していただけると良いのですけれど」

「そうですね。祖国の王宮にも伝えたいものです」


 エルフリーデの記憶によると、フェルゼンラングの王侯貴族の好みはとても保守的だ。自身も、だから嫁ぎ先で苦労したのだと、の身になってみれば分かる。だからディートハルトの感想はほぼ間違いなく社交辞令なのだろうけれど、彼が社交辞令を言えるような器である、という情報はたぶん大事なものだろう。


 品定めされてるのを知ってか知らずか、それとも品定めしているのは彼のほうだと思っているのか──黒髪碧眼の王子様は、優雅に手を広げてみせた。マルディバルに集った産品の、遥かな故郷を手中に示そうとするかのように。


「文化も産物も、こうして広まり混ざっていくものなのでしょうね? 従来の三大陸に、晴れて《西》も加わるのなら──その時代を拓くことができるなら光栄ですね」


 そう、これまでの世界は《北》と《東》と《南》から成っていた。絹と香辛料をもたらす《東》と砂糖を産出する《南》に対して、長く《北》はそれらの富を追い求める立場だった。鉱石や織物や塩を携えて交易に臨み、あるいは時に戦いを挑んで勝ち取ることもあった。この数百年は、《北》の文化も進んだからやっと対等な交易になってきているかもしれない。

 《北》と《東》は大河と山脈が分かち、《南》との間には海峡が横たわっている。だからそれぞれの大陸は基本的にはそれぞれの大地で歴史を紡ぎ、河を抑えるフェルゼンラングや、海峡に面した湾を擁するマルディバルが戦争の矢面に立ったり交易で栄えたりしてきた。互いに、相手の大陸に領地を得ようとした歴史もあるけれど、自然の国境があるがために海や河や山を越えて占領地を恒久的に維持する野望は、今のところどの陣営も達成していない。


はイスラズールの資源を、無から湧いて来る戦費だとアテにしていらっしゃるようだったけれど?)


 の父王の厳格な顔を思い浮かべながら、アンナリーザは思案する。

 イスラズールは、《西》を名乗るにはほかの三大陸よりもずっと小さい。それでも、巨大な金庫が突然降って湧いたようなものだ。だから王女を嫁がせたのだろうし、今も傀儡の王を仕立てようとして必死にその富を得ようとしている。──その割には、この二十年間何をやっていたのかを問い質したいけれど。


「我らとしても新たな交易路を得ることができるのは朗報です」

「貴国の助力にも惜しみない感謝を。フェルゼンラングは海には明るくないものですから」


 話は、いよいよ本題に入ろうとしているようだった。ティボルトの発言は、あくまでも交易を前提としていることに、ディートハルトは気付いているのかどうか。彼が明るくないのは、海だけでなく交易についても、だ。「船を出す」のはひと言で言えるほど簡単ではないことを、この王子様はたぶんまだ知らないはずだ。


エルフリーデわたしは、交易品でなくて貢ぎ物だったものね)


 生まれたばかりのイスラズールという国が、歴史ある大国の承認を得ているというお墨付きを与えるための。だからエルフリーデを送り届ける船団は、度外視で組まれただろうと、アンナリーザになってみれば思う。でも、マルディバルとしては、そこまでの投資はまだできない。


「魅力的な話なのは重々承知で──ただ、正直に申し上げて、どのように調整しようかと頭を悩ませているところです。イスラズールに船を出したいという船主が、なかなか見つからなさそうですので」


 ディートハルトの期待に満ちた眼差しに、ティボルトはやや温度差のある冷ややかな微笑で応えた。


「マルディバル王の命令でも? 船乗りというものは冒険を好むものだと思っていましたが」

「商人は何より安定と利益を好みますから」


 冒険者とは、イスラズールを最初に発見した人々のことだ。まあ、海賊や盗賊や指名手配犯も、それなりの割合で含まれてはいただろうけど。命よりも財宝よりも好奇心や功名心を追い求める彼らとは違って、商人とは利益の多寡と、それが得られる確率を冷静に見極めるものだ。結果として危険な賭けに出たと見えたとしても、きっと熟慮と計算のうえでのことだ。


「帰りの船蔵にイスラズールの黄金を詰め込みたいなら、相応の商品を持って行かなければならないはずでしょう? ですが、二十年近くも孤立している地で、何が必要とされているかは分からない。沈没の危険もあるというのに、行って帰ってくるだけの航海に船を出す愚か者はそういないでしょう」

「そういうものですか……」


 碧い目を瞬かせるディートハルトの顔には、そこまで考えていなかった、と書いてあるようだった。


(アルフレートよりも分かりやすくて、良かったわ)


 フェルゼンラングの今のところの目論見は、マルディバルがイスラズールに商館を作る動きに便乗してかの地に潜入しよう、というものだ。つまりは、マルディバルのことをイスラズールへのとしか考えていない。イスラズールと交易すれば儲かるのだろう、とふんわりと認識しているだけだから、実際に船を出すにあたっての費用や船主の信条はまったく想像していない。


(もう少し情報を吐き出してね?)


 ディートハルトが首を傾げたところで──アンナリーザは、ここぞとばかりに無邪気な声を上げた。


「どうしても、の時は持っていく品を考えたいと思っておりますの。マルディバルの王女ですもの、一度交易に携わってみたかったのですわ……!」


 浅はかなのは、百も承知。小娘の愚かな発言というものは、大体にして歴とした大人の男にたしなめたいと思わせるものだから。だから、ディートハルトの口も、軽くなってくれると良い。

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