第3話 前世と今世の悲喜こもごも

 腰掛けたアンナリーザの周囲には、分厚い本が山と詰まれていた。革張りの本の表紙に肘をついて彼女を見下ろすのは、兄のティボルトだった。兄妹で共通する、煌めく陽光を思わせる金の髪が室内の明るさを一段上げてくれている。そして、悪戯っぽく妹を見つめる目の色も、やはりマルディバルの海の碧だった。


「イスラズールの情報なんて、必要か? 私も父上と同意見だ。断ってしまえよ」


 アンナリーザを取り囲む本は、すべてイスラズールに関するものだった。見合い相手の国のことを急に調べた妹のことを、ティボルトは色気づいたとでも思っているらしい。──というか、その振りで、国のために気を遣っていると考えたのかも。だから、わざと冗談めかして断るように勧めている気配もある。


 侍女に髪を結ってもらいながら、アンナリーザは苦笑した。フェルゼンラングの大使は、成人もしていない小娘の同席を快諾してくれた。大陸に覇を唱える大国の使者と会うのだから、見合い話の時と同じかそれ以上に着飾らなければならない。


「そうね、お兄様。私もそう思うんだけど」


 王女の結婚、国の同盟という一大事をごく軽く一蹴するティボルトは、アンナリーザの緊張を解そうとしてくれてもいるのだと思う。


(前世を思い出した、なんて言えないものね……)


 兄との会話の合間を縫って、侍女が小さな菓子をアンナリーザの口元に運んでくれた。外国からの貴賓と会う席では、特に女はろくに飲み食いができないから今のうちに、との気遣いだ。

 薔薇の形の型で焼いて、さらに淡い色に染めた糖衣で飾った焼き菓子だ。口に入れれば焦げたバターが香り高く、しゃりしゃりという糖衣の食感も楽しい。今に限らず、好きな時に好きな甘味を楽しむことができるのは、王女の身にはほんのささやかな贅沢だと、思っていたけれど──


(フェルゼンラングでは、こんなことはできなかった……イスラズールでは、こんな綺麗なお菓子はなかった……)


 見慣れたはずの自室を見渡して、アンナリーザは不思議な感慨に浸った。で使っていた、ほかのふたつの王宮を思い起こすと比べずにはいられなかった。


 フェルゼンラングの王宮は、由緒も伝統もあり過ぎて、堅苦しくて重苦しくて寒々しかった。マルディバルよりは北方に位置するから建物の堅牢さも当然だし、実際には四季を通じて快適に過ごすための工夫が随所に施されていたのだけれど。

 それでも、は寒かったし寂しかった。何人もの侍女や従者にかしずかれてはいても、彼ら彼女らは常に顔を伏せて黙って跪いていた。親兄弟と一ヶ月も会わないのもよくあることで、顔を合わせるとしても儀式や祝宴の場で、だったりした。こうして兄と一緒に菓子を摘まみながらのおしゃべりなんて、経験したことがあったかどうか。


 その点、イスラズールの王宮はもっと解放的でおおらかだった。何しろ、王とその愛人が人目も憚らずに手を取ったり抱き合ったりしていたから。──と、それはあの国の風習でも何でもないのは分かっているけれど。

 あの大地の支配者は、人間なんかではなかった。力強い太陽と、雨季には滝のように降り注ぐ驟雨スコール。それらが育む、信じられないほど大きくて色鮮やかな鳥や虫や花々の前には人間は非力で、嵐の際には王宮でさえ吹き倒されるのではないかと恐れたこともあった。つまりは技術者も材料も足りなくて、補強が十分でなかったということでもあって。諸々の不足は地の果てに来てしまった、という感慨をに突き付けたものだ。


「──アンナリーザ? どうした、思い詰めた顔をして……!」

「あ……お兄様、何でもないの……」


 は、追憶に浸り過ぎていたようだった。気付けば、兄のティボルトが、心配そうに彼女を覗き込んでいる。──なぜか、指先に菓子を摘まんで。


「もうひとつ、食べておくか? 腹が減っては、と言うだろう?」

「お兄様ったら……戦いではないし、そんなに食いしん坊ではありませんのに、私」


 抗議しながらも、アンナリーザは大人しく口を開いて、あーん、をした。同じ菓子のはずなのに、さっきよりもずっと甘く香ばしく、なぜか泣きたくなってしまう。


、幸せだわ)


 菓子を呑み込んだアンナリーザは、目をしばたたかせながら窓の外に視線を向けた。マルディバルの王宮は、嵐も荒波も寄せ付けない高台に建てられている。だからこの部屋からも、青く輝く水面がよく見えた。

 マルディバルは、小さいけれど豊かな国だ。さしたる領土を持たず人口も少ない代わりに、四方の土地から人と物を受け入れている。マルディバルで生まれた者より、他国から訪ねて来た者のほうが多いのでは、なんて言われることもあるくらいだから、言葉も食べ物も習慣も様々に混ざり合って活況を呈している。今も、開けた窓から潮風に乗って港の喧騒が聞こえてくるよう。


 父や兄の寛大さも優しさも、きっとこの国の気風に由来しているのだろう。前世とは違って──アンナリーザは愛され守られ、尊重されている。


(神様からのご褒美とでも、思えれば良かったけれど)


 あるいは、前世エルフリーデの苦悩に対する哀れみとか。でも、その割にはかつての実家や夫の姿が見え隠れするのが、不可解で怖かった。


 アンナリーザは、またも表情を曇らせてしまっていたのだろう。ティボルトは眉を寄せて菓子を摘まみ──今度は、自分の口に放り込んだ。甘いものでは妹の機嫌が取れないことを、察したのだろう。


「……それは、フェルゼンラングの用件はイスラズールに関することなのだろうが。お前には関係のないことだ。何の話にしろ、断るにしろ受けるにしろ、父上がお決めになることだ。それも、お前の悪いようには決してなさらない」

「ええ、お兄様。ありがとう。分かっているの」


 兄の気遣いに感謝しつつも、今のアンナリーザは曖昧に頷くことしかできない。ここ数日の憂い顔の理由は、はっきりと説明できるものではないのだから。


「イスラズールへの印象が悪くなる一方だな」


 彼女の煮え切らない態度が気に入らないのか、ティボルトは箔押しの「イスラズール」の綴りを苛立たしげに指先で弾いた。


「お前の結婚相手としてだけでなく、商売相手としても信用できないようだからな、イスラズール王は。見合い話なんて二の次だった、ということだろう?」


 そう、兄の言う通り。イスラズールからの突然の縁談の理由──その、少なくとも一端は、アンナリーザが集めさせた情報によって分かった、かもしれなかったのだ。

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