第3話 夢と現実、向き不向き

「ひいいい……あああああ!」


 夕刻の店内にそんな悲鳴が響いたのはそれからまもなくしてからのこと。一体なにごと、と小野寺さんと一瞬顔を見合わせてから慌ててお客様にぺこりと一礼した。


 そう、つまり売り場は平和だった。悲鳴はどうやら厨房からのようで。


「またか! タケコ!」


「しゅみましぇええんんん……」


 途端にぽわん、と乳成分の甘い香りが漂って店内の空調設備によってすぐさまかき消される。接客中だったお客様をお見送りしてからちらりと厨房を覗いてみた。


 パティシエール(女性菓子職人)のタケコさんがひとりでせっせとコンロ周りを掃除していた。


 覗く私に気がつくと泣きそうな……いや、泣いた後の顔でくしゃりと笑う。


「またやっちった」


「あら……」


 生クリームというものは鍋で火にかけて放置してしまうと沸騰して派手に吹きこぼれてしまうのだそう。もちろんタケコさんだってそんなことは熟知しているんだけど、なんせパティシエールという仕事は忙しい! つい目を離してしまったようで。まあ、シェフが「またか」と言う通り、彼女にはこれがよくあってしまうわけなのだけど。


 タケコさんはこれでも三年目パティシエールさん。とっても頑張り屋さんなんだけど、とってもおっちょこちょいなのが仕事の上では致命的なんだとか。休憩時間がよく一緒になるから、私が高校生の頃からお姉さんのように仲良くしてもらっている。というかよく相談相手になっていた。そう、私が、彼女の相談相手。


 ──私も販売員になろうかな……。


 項垂れた所からそう見上げられましても、なんと答えていいものやら悩ましい。


 ──せっかく夢叶えたんだから、がんばってくださいよ。


 こんな月並みな励まししか言えないですよ。


 ──こんなに大変なんて聞いてないよ。

 ──販売員も大変ですよ?

 ──あんみつちゃん。それを言っちゃおしまいよ。


 行ったことないけど、休憩室は居酒屋さんみたいになるわけです。



「あの人辞めればいいのに」


 出た。辛辣しんらつ野郎め。


「なんてこと言うんですか。小野寺さんだって厨房入ったら失敗や悩むことだってたくさん出てきますよ」


「それに耐えられる奴だけが生き残れるんだよ」


 言いながら結ぶラッピングのリボンは完璧に美しい。魔法の手だな、こりゃ。


「小野寺さんは耐えられる自信、あるんですか」


 夢と、現実。やりたい気持ちと、自身の体力、気力。向き不向き。つづける、ただそれだけのことがいかに難しいかということを、このお店で私は学んだ。


「ま、こんな『おあずけ』くらわされたら、厨房なかのことはなんでも耐えられる気はしてるけどねぇ」


 実際やってみなくちゃわかんないっしょ。それはそう、その通りだ。


「小野寺さんこそ、売り場じゃなくて厨房やらせてくれるお店に転職しようとか考えないんですか」


 厨房を羨ましげに眺める小野寺さんの姿は珍しくない。実際ゆうこさんがシェフに五月の連休明けから小野寺さんを厨房に入れてもいいのでは、と提案していたのを私は陰でこっそり聞いていた。


 でもシェフは首を縦には振らなかったんだ。シェフはさっきの通り、小野寺さんの「不完全」な部分が自身でわかるまでは厨房には頑として入れないつもりなんだそう。


「考えたけど……やめた。意地っぱりなんだよな、こう見えて」


 いつものスカした顔とは少し違った。挑むような、楽しむような、だけどどこか苦いような、そんな顔。


 彼も、悩んで苦しんでいるんだ。『夢』と向き合っているから。


 私は、どうなんだろう。


 私の夢は、ゆうこさんのようなプロのヴァンドゥーズになること。そのために日々努力しているつもりだし、今日みたいな嫌な勤務だって決して逃げ出したりしない。


 でも、それで?


 それでどうする?


 そうやってただ年月を重ねるだけで、立派なヴァンドゥーズになれるのだろうか。




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