リプリーズ

赤川凌我

第1話 リプリーズ

リプリーズ

「赤川?あー、あの同じことを何回もリプリーズしている統失患者ね」

「あの人、何考えているか分からないよね。しかも人を寄せ付けないような感じだし。女の子みたいな顔しているけどその意味でも何だかミステリアスで不気味だわ。そのスタイルも統失経験からの老獪さなのかも知れないけど」

「統失の患者は統計上では相当数いるみたいだね、彼もその一員みたいだけど。統失って昔は精神分裂病だなんて不安を勃発させるような言葉が使われていてその名称は障害者差別に図らずも加担しかねないって事で撤廃されたみたいだけど。古代から脈々と続く病気みたいよ」

「本当怖いね。めんどくさいし、あいつとは関わらない方が良いよ。関わるメリットもないし」

「うん、そうだね。そうする」

 僕はその一つがいの男女の会話を聞いた。僕は慄然とした、人の噂話が明確な方向性を持って、その白羽の矢が僕に立った事には肺腑を抉られるような感覚を覚えずにはいられなかった。僕だって万人に好かれようとは思っていない。ある程度こういった現実は想定していたものなのだが、それでも辛酸を舐めるような気分だ。頗る気分が悪い、人間の醜悪さを眼前に見たような気がして口から吐瀉物の奔流が流出しそうな心地を僕は懸命に抑える。

 僕は怠惰である。中々自分を変えようとする行動を取れない。それは臆病さから来ているものである。その原理原則として慣性のような心の力学も関わっているのだろう。しかしこれから僕は行動を起こして無理やりにでも自分自身を改革し、人生の主要道具を刷新していきたい。僕の15歳からの人生はまず間違いなく呻吟の日々であった。どうしようもない日常の瓦解を目の当たりにして僕は激甚の苦痛を一身に感じ始めた。苦痛時代は思春期青年期の過渡期に訪れる不可避的なものであるが、それでも僕のように明確な精神病になる人物はポピュラーな病気であれ、流石に6割などではない筈だ。無論厳密な診断を加えれば現在の人口当たり精神疾患者の占める人数にも少なからず変動が生じるであろうが。

 僕は社会の新参者である。これまで碌に仕事をしたことがなく、23歳で底辺大学を卒業してから就職したものの、その仕事も業務の深刻さと上司からのパワハラで昨日退職の旨を上司に伝えた。僕はパワハラ上司にとって自らのテリトリーを害し、自分のコンプレックスを刺激する闖入者であったのかもしれない。

 僕は少年時代、非常に天衣無縫な少年であった。あの頃の無限の可能性を心に宿し、際限のない夢を追いかける心境に僕は回帰したい。リプリーズだ。僕はあの頃の豊饒な心情を得る事が出来れば、たったそれのみで今後の人生が上手くいくだろうと確信を持っている。僕は退職して、今や色めきだっている。現在の僕の収入源は障害年金のみで親からの仕送りはあてに出来ない。それにしっかりと自立する雄姿を見せなければ僕の東京行きなど当然親から支援してもらえるはずもない。東京行きは現在では最低でも50万円いるらしい。天文学的な金額だ。僕はこれから赤貧に凌辱されるかも知れない。実際、金がないとどんな社会でも生活はできない。純然たる富の分配のある、慈悲深い国家であればそれも話が変わってくるが。成人も過ぎているのにあまりにも親に依存し続けていれば当然僕の自立の実現も遠のく。しかしあの前の職場、障害者への配慮を謳っていたものの、明確な配慮などはなく、むしろ冷酷無比で残虐非道な連中ばかりであった。僕はとうとう堪忍袋の緒が切れてしまって退職したが、あれは駄目だ。少なくとも僕の経験から言えばあれは単なる偽善だ。僕は今はしきりに自分の好きな音楽を聴いている。お気に入りは勿論、ブラックサバス、ビートルズ、ピンクフロイド。この三大バンドだけは一切の婉曲的な表現を廃絶し、ただただ絶句せずにはいられない。その素晴らしさを上手く言語に落とし込む事は出来ない。あまりにも芸術的に洗練され過ぎて、それを卑俗で野蛮な言語なるもので表現してしまうと、その表現者の愚劣さから期せずして三大バンドを貶める事しか出来なくなるからだ。ヴィトゲンシュタインも語りえぬものには沈黙しなければならないと言った。もっともこれは形而上学的な対象物ではないから完全にこのヴィトゲンシュタインの警句は誤用ではあるのだが。

 ガウスは代数学の基本定理ですべての代数方程式は解けるというような事を証明した。それに続く、アーベルやガロアは群と言う概念を用い、代数方程式のシステマティックな構造に迫り、殊にガロアは五次以上の代数方程式には代数的な解の公式が存在しない事を証明した。これは正規部分群とも言うガロア群、のガロア群特有の拡大および縮小傾向、そしてその数の有限体的性質からガロア群の導入で代数方程式が溶けなければ代数方程式には解の公式が存在しない事が証明された。このガロア群はべき根であったり、ガロア理ゾルベントの有理式であったり、代数方程式の係数の四則演算であったりするのだが、その形式と、ガロア群との関係性により、解の公式の本質に迫ったガロアは主にこの理論を10代の内に発見発明していたと言う。そしてそのガロアの方程式論の証明に用いた群を使った理論は現代ではガロア理論、群論とも呼ばれ物理学や現代の代数学を記述するのに不可欠な存在となっている。しかしガロア理論の証明は代数方程式に代数的な解の公式がないという事であり、解自体はエルミートによる証明で楕円モジュラー関数などにより存在するし、ガウスの代数学の基本定理からもその事は言えるのである。ガロア理論を微分方程式に応用させたものは微分ガロア理論という。そしてそれを代数学に応用させたものをリー代数などと呼ぶ。

 僕は人間関係では不和になる事が多いし、しかも僕個人の易疲労性によって爆裂たる人間関係は長くは続かない。僕は統合失調症によって持久力を失ってしまった。誰かと競争において拮抗する事など僕には無縁の事のように思える。人生とは死に至る戦いである。僕の人生もその御多分に漏れない。しかしその仇敵なるものは僕の場合他人ではなく自分自身である。したがって現在の僕の関心は内に向いている事から僕は内向的な人間だと言えるのではないだろうか。僕の人生は内向的であれ、若さゆえかその色彩が怒涛の如く移り変わっていく。しかし僕はその事にも白けてしまっている。何が人生の素晴らしさだ。社会に通底する認識として人生とは基本的に苦のようなものであるらしい。これは仏教などの教えでサンスクリット語などで書かれているのだろうか。この哲学はまあ良いのだが、あたかもその思想を蔓延させようと盛大に声を上げて、民主主義的慣性を持ってして何も考えず、人生は苦であるとか、またその他の社会的認識を社会に定着させることに僕は甚だ嫌悪を感じる。したがってそれが常套手段のようにして行われている殺伐、荒涼とした現代日本にも僕は厭世的な見方をせずにはいられない。

 僕の就職は今や焦眉の問題である。何かしらの仕事か、何らかの付加される資金がなければ僕は食料でさえも枯渇して栄養失調で死んでしまう。僕は普通の人間に見られるきらいがあって、中々他者から精神障害者だと斟酌されない。確かに精神障害にはスティグマがあるのだが、しかし精神障害者でなければこの現在の窮状はあり得ない。僕はこれから僕の持病である統合失調症へのステレオタイプを根絶すべく、鋭意努力していかなければならない。そうでなければ惨劇は枚挙に暇がない程、繰り返される。

「本当に辞めて良いのですか?」

「はい」

「ならばすぐに退職手続きの書類を郵送します。そこに必要事項をしたためて、この職場に送ってください」

「これから僕は自分の未来に向かっての歩を辞めません。僕は更に前進し続けます。まずスキルアップと社会性を日進月歩に向上させるべく、そういった職業訓練のようなものにも参加しようと思っています」

「まあ就職にしろ、7月29日に辞める事が決まっていますから、別にそれを念頭に置けば社会活動を精励に行っても構いません」

「何事も一朝一夕には出来ない。僕は目先の利益に誘惑されて、とんだ請求ぶりを発揮し、就職してしまったのかもしれません。あなた柄はあのパワハラ上司の多面性、ペルソナの変転の冥利で彼を誤解しているようですが、僕は彼によって不当な扱いを受けました。それは内容ではなく、言い方です。彼の言動はいちいちが頭にきます」

「それも貴重な意見として今後の職場に反映いたします」

僕はこのような会話を上司と退職の際にした。淡白な進め方であった。上司は主観を排し、しきりに事務的に対応していた。彼のその無機質性を僕は前途にて会得しなければならない。僕は社会の広大さを知った心持がする。人生は換骨奪胎、これからもそれを意識して、決して焦燥に駆られず、時期尚早な行為も取らず、ただ粘り強く生きていきたい。僕は余りにも純粋すぎる。もっと感覚を麻痺させなければ。しかしこれは全体主義やファシズムに至る重要な布石にも思える。社旗に流され、個性を排し、感覚を麻痺されたところで新たなドラッグが挿入され、悲劇は反芻される。その描写が僕には目に見えて感じ取れる。僕は歴史の泰斗でもなければ研究者ではないので、この事に関していささかも自信を持てないが、結局のところ、日本社会で適応する事はその社会に隷属し、その社会の悲運さえも同様に被る事なのではないかと僕は思う。とりもなおさず社会が個人の為に生きるのではなく、個人が社会の為に生きるという基本定理が如実に働いているのが日本である。まあ日本のみならずその傾向はある程度どの国にでも言える。しかしながら人権を蹂躙されても反発心を示さず、ただ鉄の忍耐と言って我慢し続けるのは強靭さではない。それは単に下等な動物性の顕現である。したがって日本人は未だ人間ではない。人非人である。強い人間は自分を矮小な存在だと感じ、日本人のようにただ隷属し、目立たないように生きたりはしない。白眼視されても、受けて立つ。これこそが強さである。

「凌我、なんか、またでっかくなってない?」親戚のおばさんが前の年末年始にそう僕に言った。「凌我、でかく見えるな。いいなあ、この家族はチビばっかやから」そう弟は僕に言った。「身長伸びたな。前会った時よりめっちゃ伸びてるわ」そう僕の友達は言った。僕は既に堂々たる体格を手に入れたのだ。自信を持って、前に進む。王様気取りでも良い。この世は玉石混合の渾然一体、多種多様な文化や人格を包摂するのが元来の社会という概念なのだ。僕は長身で女顔、これは歴然たる事実があるが故に認めなければ前に進めない。自己の否定はしたくない。少なくとも長身で女顔なのは悪い事ではなく良い子おtなのだから僕は易々と受け入れられる。長身は一般に男の憧れだし、女顔も圧力がなく異性からは親しみやすさを感じるだろう。外見的に僕はむしろアドバンテージを持っているのだ。その事を認識せずにどうやって前に進められるだろうか。僕の家族は情けないチビばかりである。その中で僕だけが巨人レベルの長身なので僕は優越感を感じている。もはや僕は身長計も怖くない。僕は間違いなく長身なのだから。

 さて、これから先はどうしようか。僕の理論の先駆性、革新性は極めて高い水準にあるので生前に僕が学問的な名声を得られる可能性もまた極めて低いかも知れない。僕は死に物狂いで数学や科学、哲学の研究に没頭したのは事実である。障害も抱えながらよく20歳からの3年間で22本の学術論文を書けたと思う。僕は自分を褒めたたえたい。前の職場の同僚も言っていたが、人の言う事、なす事を気にしていては駄目だ。誰も褒めてくれなくても自分で自分を褒めないといけない。日本人は自己愛が寸毫でも見られる人間をナルシストなどと言って揶揄するがそれは嫉妬である。才能のある人物や、容姿の優れている人物に嫉妬したり嫌悪感を抱くように、ナルシストだとレッテルを張ってしまって、如何にもそれが哀れな、矮小な人間の典型例だと定義しなければ精神が不安定になるのだ。それは言うまでもなくヒステリックな行為であり、大抵の人間はそれを内心で否定しながらやっているので尚更たちが悪いのである。

「赤川君のIQは普通だと思う。このジムモリソンってひととは違って」

無能で見る目のないスクールカウンセラーは僕にそう言った。しかし僕は20歳の頃のIQが信憑性のある海外のサイトで220だった。今ではもっとあると思う。僕はこれまで自分の知性を研磨してきた。今も僕の脳髄は絶賛発達中である。

 日本は食料自給率がその狭い国土から非常に少ないようだ。これは文化や学問においても似た様相を持ち、他国からの輸入がなければ国家ないし国民の危急存亡に関わる問題なのだ。たとえば学校という小社会で縦横無尽に行動を起こしてみてもそれは限定されたリソースの中での行動に相違なく全然しょぼいのが常である。これは日本人が中途半端に脱力し、弛緩しているからだ。この世界で生きるのは勇気が必要で、今現在臆病で非力で、何の勇気もない人間であってもそれは行動を絶え間なく起こしていく事で変わってくるのが自然の摂理、自明の理である。

 土曜日、僕は昨日の豪勢な食事を終えてベッドに仰臥していた。僕の生活の特筆すべき特徴は食生活の緩急の極端さにあるのかもしれない。金曜日以外の僕の食事は質素なものである。しかしそれも僕の内なる日本人が悦楽を感じていて、僕自身も特段精神的に不愉快でも肉体的に不健康でもない。僕はタンパク質を意識的に摂取するようにしている。僕の気宇は元々壮大であったが、統合失調症になってそれが病的なレベルにまで拡張された。これこそヒルベルト空間ならぬ赤川空間である。体調は必ずしも扁平ではなく、気分や体調の起伏も結構あった。しかし僕はそれも運命なのだと割り切っている。人間故人の力ではどうにも出来ない事柄も存在する。僕は不可知論者なのでそれが何であるかは敢えて定義しないが。そんなものは僕にとって愚弄である。知らないものがあるのが自然の面白い所なのだ。いかに人間が独善的に森羅万象の謎を解明したとしてもその先は独断で撤退する事がなければ終わりのないマラソンなのだ。僕は仏教を信奉しない。阿弥陀如来、大日如来、薬師如来、釈尊、阿修羅、全くナンセンスである。僕はそれよりもその裾野は狭量なものでも良いから自分の宗教を創造し、自分自身がその教祖となりたい。何やらこれはオウム真理教に次ぐ、剣呑な思想のように読者諸氏には思われるかも知れないが、実際独自の宗教のない人生などは無機質で虚無的なものであり、もう空虚な世界観にほとほと降参している僕は自分の宗教を創造しなければこれから先、例え無暗な猪突猛進でさえもなす力が生まれないのである。他にも力動の根源となるものはあるが、やはり人間の古来より伝統にのっとり、僕は自分の明文化されていない、形容しがたい、無名の宗教を担ぎ出すつもりである。

 僕は大学時代、ヘーゲルのドイツ観念論やカントの超越論的観念論、フロイトの精神分析学、ユングの心理学、デカルトのコギトなどを研究し、それを卒業論文にまとめた。その結果は悲惨なものであった。誰の賛同も得られる事がなく、僕自身の無知への説明を嫌忌する傾向からその説明自体も不親切不明瞭なものであった。僕は今までの自分の行動や業績を考えるとその天才性に破顔一笑せずにはいられない。これは自画自賛に見えるに違いないのだが、それでも僕にはこの事が最も確からしい、僕の人生の第一原理であるように思えた。

 「凌我は天才肌だよ。あんなにマルチに色々出来る奴は凄いわ」

「確かに俺たちとは明らかに違うよな。あの凌我がここまで傑出した存在になるとは、人生は小説よりも奇なりだな」

僕は自分の夢にこのような談話を聞いた。夢は無意識の現われである。僕は内心自分自身をそのように考えているのだろう。

 僕の父親は極めて小柄であるがどこか威厳のある人物である。僕は家族で彼の歴史的造形の深さによりピックアップされた観光地へと少年時代よく旅行に連れて行ってもらっていた。ゲゲゲの鬼太郎の妖怪たちの銅像が軒並み並んでいる鳥取県にも行った。何だか悪ふざけのような感じがしたのだが、中々楽しかった。それに鳥取砂丘や、神社仏閣、城などにも行った。東には愛知県の明治村まで、西は中国地方までであった。運転は常時僕の父親が行った。家族旅行は実に良い経験であった。僕は豊富な旅行経験から社会の資料集に載っているような観光地には当然の如く既視感があった。

高専の教師は怒気鋭く僕を叱咤し、のみならず僕を学生の手前で屈辱の瞬間を味あわせた。当時の僕は最早暴力性などが既に消えうせていたし、彼にあからさまに反抗する事も出来なかった。僕は彼に頭部を殴打されて、脳が揺れた気がした。小柄な体躯とは言え、あれ程の衝撃は相当渾身の力で殴打しない限りあり得ないだろう。彼は僕に「おいお前なめとんのか」と言った。僕は咄嗟に「もうホームルームが終わったのかと」と言った。僕は咎められた後も活字の世界に没入しなければ周囲に学生がいる状態で号泣してしまう所だった。僕は自分の醜態を抑制する名目でまた本を読んだ。本をホームルーム中に読んでいた事でぞっとする程冷酷で陰湿な仕打ちを受けたにも関わらずだ。「後で俺の部屋に来い」彼は去り際に僕にそう言った。僕は二つ返事で了解した素振りを見せたのだが僕はあのような不当な暴行や屈辱を僕に与えた教師を殺害したくてたまらなかったし、第一仮に僕が反省しているとしても僕は彼の名前も部屋も知らない。当然僕が彼の部屋に行く訳がなかった。

僕は高専では実は2年生に仮進級していたようだが、工学に関して僕は何らの情熱も感じていなかった。実際精神的な危機に相対して僕は勉強どころではなかった。また僕は迫害やいじめを受けていた。これは僕の人生において前代未聞の冷遇ぶりであった。そしてその年の8月に僕は統合失調症を発症した。僕は高専をカスどもの掃き溜めのようなものだと感じていた。肥溜めのような場所だと確信して疑わなかった。実際僕の統合失調症を更に発現し、僕の人生の質を顕著に低下させたのも高専のせいだった。僕自身の責任では断じてない。僕は悪くないのである。少年の僕ではなく責任は学校や社会などの方にある。

「僕、統合失調症だから彼女出来なくて」

「いや、君は大丈夫さ。普通にイケメンやし」

このように褒められた事も僕にはあった。

「凌我さんもてるでしょ。背高いしかっこいいし」

「いやいや、精神病だとそんなの意味ないよ」

「そんなことないけど」

畢竟僕は自分の失敗や行動しない理由に自分の統合失調症を隠れ蓑にしているだけだったのだ。統合失調症でも円満な夫婦生活や仲睦まじい恋愛場面を謳歌している人間もかなりの数いる。おそらく僕は不細工やチビではないのだろう、これまでの膨大な経験からもそう言える。しかし僕の迫害やいじめなどから生じた根暗さが僕の前途洋々、意気揚々の恋愛を妨害しているのである。僕は気にしすぎた。過去の事も反復しすぎている。そろそろ前を向いて行動していかないといけいない。確かにつらい、理不尽な経験もある。しかし世の中それ程悪い連中ばかりではない。トラウマが尾を引いて生活に影響を及ぼすのは自明の事であるし、僕自身を加害した連中もいた。しかしそんな僕を応援してくれている人も現に存在している。それは両親であったり祖父母であったり友達であったり。僕は孤独ではない、しかし寂寞感が拭えないのでいつしか自分自身が孤独だと思い込むようになっているのである。なんて馬鹿げた話だろう。

日本のネガティブな論調はこのようにも解釈できる。日本が衰退したという印象を庶民に与えて。未来に向けて新しく挑戦する意欲を殺し、外国に対する盲目的な賛美の意識を植え付けて、都合の良いように洗脳し支配しようとしている。これは筋の通った主張であるように僕には思える。

僕の論文は読まれても現代としては革新的過ぎたため、誰にも理解されなかった。しかし僕が無我夢中で学問研究をしていた事は議論の余地がない。僕は周囲の大学生が無為徒食に生きたり、就職活動や遊びに耽溺していくのを脇目に見て、ただ自分自身の道を闊歩して行っていた。僕は大学四年の頃には既に現存の哲学の大部分を踏襲した上で卒論を書いたつもりだ。しかしそれもやはり天才の仕事を理解する事が凡人には分からないのか、教授陣からも学生陣からも全く理解されなかった。もし僕に勇猛さや獰猛さと言ったものが皆無ならばそういった艱難辛苦を受けて自殺していた事だろう。今では僕は周囲の無理解をきっかけに自殺するというのは勿体ない気もするが。

僕は少年時代、統合失調症を発症するまでの爛漫さと根拠のない自身に横溢した頃の再現をしたい。したがって僕の今後のスタンスはリプリーズ(再現)なのだ。実力を身に着けた身に着けた今なら昔以上の栄華を極める事が僕には出来るように思われる。これも根源は少年時代と同様、明確な根拠のなさにある。僕は自然に帰る。坂口安吾が堕落論で示したように、ポールマッカートニーがゲットバックで示したように。僕の天才は時代が追い付いていないだけで必ず花開く。ほとんど妄信にも似たこの思いが僕の内部で現在起こっている事なのである。

僕は高専時代に少しばかり掌編小説を書いていた5つばかりだが。その中で僕は自分との問答を自分の傷を癒すかの如くメモ帳に一心不乱で書いていた記憶がある。僕はあの頃からラインのタイムラインなどで情報発信を開始していた。高校時代の僕の同級生は僕と大学時代に再会した時、僕の事を大天才だと言っていた。まあ僕を過小評価する連中が僕の中では大多数のように思っていたが、一部の人間にはそのように思われていたという事は恐悦至極である。無論その言葉が虚妄である可能性も否めないのだが。もはやこの独白において、また他の僕の小説において僕自身の記述を糾弾したり、侮蔑したりするのは無益の沙汰のように思える。僕は第一過半数の読み手である健常者とは違う。良くも悪くもだ。連中と僕ははなから同じ土俵に立っていない。ボクシングでは体重によってヘヴィー級だとかライト級だとか分かれている。ボディビルでもそうだ。それらと同じような話なのである。この世は複雑怪奇に見えるものだが僕の言葉はどちらかと言うと邪気のない、単純明快なものであるように思える。

再現しなければ、今の僕なりの要素をふんだんに織り交ぜて、自分自身の僥倖だったあの日を僕は再現しなければならない。成人には成人の華があるのかも知れない。しかし初心に帰る事も重要である。いかに周囲の顰蹙を買おうと、周囲に詰られようと、周囲に妨害されようと僕は自分のリプリーズを強行突破するつもりだ。全速前進だ。

統合失調症の症状は芸術的である。狂気染みた現実世界の変容、崩れ行く自我、失調する知と情と意。これは劇的である。そしてそれによってまともな人生が送れなくなるのはまさに悲劇的である。僕の場合早熟で高機能だったので決定的な破滅に向かった訳ではないが、それでもこの病気に苦しめられた。それにより趣味もなくなり、意欲もなくなった。今こうして自分の事を発信しているのは殆ど奇跡的なものである。

少年時代の僕と今の僕とは精神的な内容が乖離している。したがって少年時代のあの気合に満ちた頃のようになるには一筋縄ではいかない。自分の無限性を開放するのが良い。自分に限界を課さず、ただ獅子奮迅に生きていけば良い。神々に照覧させるような心持で生きる事がこの僕の人生に醍醐味をもたらす定石なのだと僕は勝手に思っている。世の中には悪辣な連中が存在している。僕にだけ当たりが強い連中がいるのは僕が見るからに優しそうで大人しそうだからだ。僕は一矢報いなければならない。これまでの迫害やいじめ、不当な形式に対して表現し、主張すべきところは声高に主張して、自分の踏みにじられた尊厳に相応しい対価を勝ち取らなければならない。その為に必要なのがリプリーズであり、もっと言えば自身の際限のない無限性を元に行動を矢継ぎ早に起こしていくことなのである。

現在は金曜日、仕事のない金曜日である。テレビでは面白味のない番組が放映されている。今日の九時からは金曜ロードショーがある。アニメ映画だ。僕はあまり変態的な、萌え系やら夢想系、異世界転生系のアニメより、金曜ロードショーで放映されるようなある種国民的なアニメが好きである。しかしながらオタクという水準ではない。僕はアニメに欣喜雀躍としたあの頃の感慨を、選出したアニメの視聴により間接的に奪取したいのである。

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リプリーズ 赤川凌我 @ryogam85

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