8  手取り足取り

 雷雅らいがを連れて来い――そう指示されたと言ったきり、動かないひなた、じれた雷雅が、

「行くんじゃないの?」

と訊けば、

「どこに行けばいいのか、決めてからだ」

と、パソコンの画面を覗き込みながらひなたが答える。そして時々、『いや、そっちじゃない、右だ、右!』と独り言を言う。


北川きたがわさまへ指示を出しておられるのです」

 マスターの説明によると、北川という人が率いるチームがターゲットの災厄魂さいやくこんを追っていて、ひなたはパソコンで位置を確認しながら追い詰めるべき場所へ誘導しているのだという。


「GPSみたいに? 災厄魂の場所が判るの?」

「あいにくGPSは使えません。が、お嬢さまは気配を察知する能力にけていらっしゃいます。災厄魂と狩人かりびとの位置を、地図を見て確認しているに過ぎません」


「司令塔?」

「そうですね、そんな感じです」


 パソコンとにらめっこしていたひなたが、ふぅ、と息を抜き、背凭せもたれに身を投げ出す。


「場所は決まった、あとは北川たちが追い詰めるのを待とう……少し時間がかかりそうだな」

「一般人に遭遇しないルートが見つかりましたか?」

マスターの優しい声がひなたに向けられる。


「わたしに手抜かりがあるものか。あとは北川の腕次第。山陰やまかげチームからも無傷で体力の残っている者を応援に行かせたから大丈夫だ」

「山陰様のお怪我は?」


「どうだろう……部下をかばって自分が7m落下したらしいから、相当だろうね」

「なるほど、山陰さまの影は部下を守っていて落下の衝撃の吸収までは手が回らなかったという事ですね」

 うん、とひなたが頷く。


「それよりチョコレートケーキ、アイスティーと――ライガも食っとけ。あとで体力を使うぞ」

「いや、今はお腹いっぱい」


まったく、よく食うお姉さんだ、と思った雷雅だ。だけど、ひなたが食べているのを見ると自分も食べたくなってしまった。するとマスターが、

「遠慮なさってはいけませんよ」

と、雷雅は何も言わないのにチョコレートケーキとアイスティーを出してくれた。


「ライガの影は素直だからなぁ」

と、横でひなたがクスリと笑う。また影か、と思った雷雅が少しだけ口を尖らせた。


「そう言えば、僕を助けてくれた時はひなたさんの影だけだったよね?」

 チョコレートケーキを口に運びながら雷雅が問うとひなたがフンと鼻を鳴らす。


「あの時は本当に小物だったからわたしの影だけでだった、キミさえいなければね」


「今度のはどれくらい大物なの?」

「あの時が子ネズミちゃんなら、今日のターゲットは手負いのアフリカゾウ。当初、山陰はヒグマ程度と見積もったが、それが違っていたことになる」


「予測に反することってよくあるんだ?」

「……」

ひなたが雷雅を横目で見た。


「おまえ、アフリカゾウとヒグマを見間違えるか? 明らかに大きさが違うのに?」

「それじゃ、普通は間違えない?」


「当り前だ――さっきマスターと話したが、が動き出しているかもしれない。ライガ、キミを連れて行くのはそれを見極めたいからだ」


 カウンターのほうから、プリンターの起動音が聞こえ、それが消えるとマスターが紙を一枚持ってきてひなたに渡す。目を通したひなたが、

「間違っても今ここで、声に出して読むなよ」

と、その紙を雷雅に渡す。


「これはの一族が使う呪文だ。ライガが唱えれば、それだけで作動する。だから今は声に出して読むな」

受け取った紙に書かれた文字は全部ひらがなで読みにくい。漢字を読めないと思ったのか? 黙読しながら、雷雅が問う。


「唱えると、どうなるの?」

「それはその時のお楽しみ。なに、心配はいらない。キミ自身には何の影響もない」


「本当に?」

「本当に。だが、読み間違えるな、読み違えればもちろん発動しないから、災厄魂に反撃されるかもしれない」


「危険、ってこと?」

 ひなたが雷雅の顔を見る。


「いや……キミはまだ覚醒していない。実のところ、キミが唱えたところで呪文が発動するかどうかは判っていない。もちろん発動しなかった時の対策を煌一こういちが考えていないはずはない」


 神妙な面持ちになった雷雅を見て、ニヤリとひなたが笑う。

「ライガ、キミはわたしが必ず守る。だから安心しケーキを食すがよい。それともなにか、こんな時間にチョコレートなんか食べたら興奮するんじゃないかと心配しているのか?」

「ええっ?」


「気にするなライガ、鼻血が出たって恥ずかしがるな。なんだったらわたしが――」

「食べます! 食べるから黙ってください!」


 ガツガツ食べ始めた雷雅をニヤニヤと見詰めるひなた、食べづらいから見ないで、と雷雅が言おうとする前に、まじめな顔に戻ったひなたが言う。


「ライガ、おまえ、足は速いか?」

「足って?」


かけけっこだよ――100m何秒?」

「あぁ……まぁ、早いほうかな。11秒を切るくらい」


「ふぅん、部活、何かやってる?」

「中学まではバドミントン」

「へぇ、強かったの?」

「強くはないけど、弱くもない――市の大会でベスト8ってところ」

「なかなかじゃないか。なんでやめた?」


 ケーキの最後のひとかけはちょっと大きすぎた。パクリといったものの、口がモゴモゴしてすぐには答えられない。わざとそうした雷雅だ。答えを考える時間稼ぎだ。

「なんででしょうね? 飽きちゃったのかな?」


 高校受験の少し前に母が離婚した。経済的なことを考えれば、部活なんかしていられないと思った。


 進学はやめて働いて母さんを助けたいと言う雷雅に『子どもがお金の心配をするもんじゃない』と母は言った。けれど私学の進学校は諦め、滑り止め程度に考えていた公立校にした雷雅だった。私学は入試すら受けなかったと後で知った母は泣いて怒ったが、雷雅はこれでよかったんだと思っている。


 入学した高校で、当たり前のようにバドミントン部に勧誘されたが雷雅はそれを断った。ほかの部にも入らなかった。どんな部活でも必ず金がかかると思った。


 離婚で縁が切れた継父は暴力亭主だったが、金だけはきちんと母に渡してくれたし、雷雅の教育に掛ける金を惜しんだこともなかった。酒さえ飲まなければ、優しいだったと思い出す。その継父と離婚した母は、慰謝料を受け取ることもなかった。経済的な余裕なんかないだろう。なるべく無駄な金を使わない、そう考えた雷雅だ。それに……僕は大人になっても酒なんか飲むものか、と雷雅は決意していた。


「お酒はね、飲み方さえ間違わなければいいモンだよ」

「あっ! また影に聞いたなっ!?」


「あんたの影がわたしの影に耳打ちするんだもん。ライガ、苦情を言う前に自分の影を教育しなよ」

「それができればとっくにしてるって!」


「それじゃあ、今度、影のしつけの仕方、教えてあげるよ」

「マジで?」


「うん、マジで。おネェさんが手取り足取り――」

「な、な、な――」


「なに言ってるんですか?」

「そう、それ」


「あ、真っ赤になった。ライガ、影も可愛いけど本体も可愛いね。おネエさん、モエちゃう」

「ひなた!」

「呼び捨て禁止」


「ひなたさん、揶揄からかわないで」

「あぁあ、今度は涙ぐんでるよ。ホント、揶揄いがいの……」

 急にひなたが黙り、瞳が左右に揺れた。


「ライガ、出かける時間だ――マスター、車のキーちょうだい」

雷雅は慌ててアイスティーを飲み干した――


 すっかり暗くなった街中を信号無視して車が走る。


「ひ、ひな、ひな――」

「黙ってないと舌 むよっ!」


ブレーキを踏むことなく交差点に突っ込み右折する。対向車の急ブレーキが立てる音、何台かの車が鳴らすクラクション、そんな音を後ろに聞いて、車はどんどん走っていく。


「ひ、ひなたさん、免許、持ってるんですかっ?」

「何かあれば煌一がもみ消す、心配ない」

持ってないのかよっ? 心の中で雷雅が悲鳴を上げる。


「なに、事故は起こさない、影がちゃんと回避する」

そういう問題ですかっ?


 ひなたが車を止めたのは、まだオープンしていないビルの駐車場入り口、躯体くたい工事はとっくに終わっているのだろう、ノロノロと開くゲートをイライラと待ちながらひなたが言う。


「10日後にオープンを控えたショッピングセンターだ。ビルの中じゃまだ設備の工事中だな。オープンに向けて徹夜作業、でも思った通り屋上に停めてある車はない、屋上にあるのは変電設備だけで、こちらは工事完了。ま、ゲートが動くってことは通電してるってことだ、あたりまえか。つまり屋上には誰も来ない、たぶん」


 たぶん、ですか。ひなたさん、結構いつも適当ですよね。そう思っても口に出せない雷雅だ。


「ここから入ると屋上まで駐車場は続いている。ビルのこちら側が全部駐車場って造りだ。それを一気に昇る。ライガ、グルグルだから酔うなよ。ここの屋上に災厄魂を追い詰めた―― 行くぞ!」


言い終わると同時にゲートが開き、急発進で走り始める車、なるほど、グルグルだ! てか、ひなたさん、どうして壁や停めてある車ににぶつからない? あ、影か、影がぶつかりそうな相手をどかしているんだ? 眩暈めまいがしそうな雷雅だ。


「ついたぞ、降りろ――おぃ、シートベルトを外さないと降りられないぞ」


 慌ててドアを開ける雷雅をひなたが笑う。それよりひなたさん、僕、もう気持ち悪くって、どうしよう? 


 シャツの胸ポケットに畳んでしまった呪文の紙の存在を確認しながら、雷雅は吐き気を抑えていた。

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