河童便所
西川東
河童便所
「こんな暑い季節にぴったりで、要望通りの話が一つだけありますよ」
知人から「面白い男がいる」と紹介された、Iさんの体験。
Iさんの母の実家はⅭ地方の山奥にある。 辺りには山と川しかなく、ひとめみれば誰もが「田舎だ」というような土地だった。
人工物ばかりの都心部に住むIさんにとっては、夏の盆時、草と養豚場の匂いの広がるこの土地がたいへん新鮮で、毎年帰省するのが楽しみだった。祖父母は快く出迎えてくれるし、地元では体験できないような虫取り、山登り、そういったイベントに夢中になっていた。
ただ、一つだけ体験できないことがあった。川遊びである。
絶対に水辺に行ってはならない。そう、祖父母にきつく言い聞かされており、夏の暑さ真っ盛りのなかでも、帰省中は川に近づくことすら禁止されていたそうだ。
「お盆に海に入ってはならない」
これは全国的にも「お盆に帰ってきた霊に連れていかれる」という迷信や、科学的には「波の流れが激しくなったり、台風の発生しやすい時期なので・・・」といった話で有名である。
しかし、Iさんの実家には、上記の伝承とは別の話があった。
「ここら一帯、特に水辺には、河童がでるから水辺には近づくな」というものである。
Iさんが川遊びをしたいとぐずれば、必ず祖父母は口を酸っぱくして河童の話を持ち出し、彼をたしなめていたそうだ。
奇妙な風習はこれだけではない。
そこら一帯の家屋の軒先には、形は違えど、小さな池が必ずあった。
なんでも、河童がやってきても、家にあがることなくこの池に寄りついて帰っていくという話だ。
しかし、その池のせいで、虫がそこら中に飛び回っており、その淀んだ水面をみるたび、よけいに近所で流れている綺麗な川で遊びたくなった。と、Iさんは語っていた。
また、この池がある場所が大変な問題で、便所に向かうには、この池がみえる方の縁側を通らなければならない。
もちろん一度でもそこを通れば絶対に一か所は虫に刺される。
なにより、夜中に便所に向かうときの空気が違う。
薄暗い縁側にこれまた薄暗い便所、帰省先とはいえ慣れない山奥で過ごす闇夜、気味の悪い虫たちの羽音や気配。そんなものが相まって、夜分の便所はたいへん気味が悪かったそうだ。
それでも、他の楽しいことの方にばかり気を取られ、夜には便所に行かないよう注意するぐらいだった。
しかし、ある年の帰省中のこと。昼間にかき氷を食べすぎたIさんは、腹痛に苦しんでいた。いつまでたっても体調は良くならず、夜中に激しい腹痛に襲われた。
布団の中で漏らすわけにはいかず、嫌々ながら便所へと向かった。
わずかな明かりをたよって歩みを進める縁側は心細く、こんなときに限って余計なことを考えてしまう。河童を家に入れないために設置されたあの池。月明りに照らされたその水面。暗闇でなにもみえないが、河童とやらが戯れているのだろうか。
そんな妄想が尿意も刺激し、足が速くなっていく。漏らさないよう、必死に抑え込み、便所の前までようやくたどり着く。そして明かりもつけずにその戸を開いた。
そこには先客がいた。
先客といっても誰なのかはわからない。いや、人間だったのだろうか。
僅かな月明りに照らされるあの汚らしい和式便所。
その便器の中から真っ白な手が伸びていた。
暗がりの中から突き出たそれは、たしかに白い腕だった。
しかし、それが左右どちらの腕だったかを思い出せない。
というのも、その手に指が何本あったのか、それが思い出せない。
三本だったような、五本以上だったような。
思い出そうとするたびに、記憶の中のその手の指は、まるで忍者の影分身のように何重にも分身して、くっついて・・・を繰り返す。
ただその両端の指が、どちらも親指だった。それだけは、はっきりと覚えているという。
そんなものをみてパニックになったIさんは、大声をあげて便所を飛び出した。
祖父母がその悲鳴を聞きつけて飛び起きてきたので、思わずIさんは祖父に抱きついたそうだ。
汚い話だが、Iさんが漏らしたまま抱きついたので、二人とも汚れてしまった。
そして二人で風呂に入り、あたたかい湯に浸かったのだが、そのときのIさんは、湯のなかでも歯をカチカチと鳴らしながら震えていた。
そんな孫の様子をみて、祖父は「大丈夫や、大丈夫や・・・なんともない」などと、優しい言葉をかけてくれたという。
「子供だったということもあって、そのことはそれでお終い。ただし、夜中には絶対に便所に行かなくなったし、かき氷がしばらく苦手になった。もう二度と便所の中で手をみることはなかったし、次の日から普通に遊びまわっていましたね」
おもしろかったです。でも、いったい、それのどこが“河童の話”なのですか。
話し終わって注文したホットコーヒーをゆっくりと味わっているIさんに、わたしは思わず抱いていた疑問を口に出してしまった。
そんなぶしつけな質問に、Iさんはいたずらっぽい笑みを浮かべて答えてくれた。
「この出来事なんですが、大きくなってから気づいたことがありまして」
祖父と一緒に湯栓に浸かっていたときのこと。
ガタガタと震え、なにも言わずに恐怖している自分を、祖父は懸命になだめてくれた。
「大丈夫や、大丈夫や・・・」
「あれは“河童”やない」
「なんともない、なんともない、安心せえ・・・」
なにも話していないのに、なぜ、祖父は河童という存在を示唆したのか。
そして、「なんともない」といったのは本当だったのだろうか。
本当に河童がやってきたら、なにが起きるのか。
もしかすると、自分がみたのは、河童の右腕だったのではないか。
「だからこうなったんでしょう」
皮肉っぽい笑みを浮かべ、義手である右腕を遊ばせながら、Iさんはそう話してくれた。
河童便所 西川東 @tosen_nishimoto
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