第4話 奥田さん

 三月。


 子持ちの家族、と言うか世間的に言ってもっとも変動の多い時期だが、私にとってはたいした変化はない。一朗が四年生になり、萌が二年生になり、雄三とかなたが年長組になるぐらいだ。萌のためのランドセルを用意した去年や、雄三とかなたの保育園探しに奔走したおととしに比べれば平穏な三月である。


 むしろ、十月や十一月の方が個人的には大変だ。

 なぜか知らないが子どもたちの誕生日がこの時期に固まっており、そのプレゼントのために相当に節約しなければならない。子どもたちには、出来うる範囲で最大限の事をするのが親の役目という物だろう。親としては、子どもたちのためにある程度我慢をしなければならない。

「やっぱり、日本産は丈夫で長持ちだからね」

 それでも、必要な物は買わない訳にはいかない。

 夫婦二人で休みの日に服屋に行き、私たちのためにいろいろ何か探す事になった。夫に対しては金に糸目を付けないつもりでいたが、まずお前だろと言われたので私から探す事になり、私個人の気持ちに従ってなるべく底値に近い物ばかり選んだ。

 その度に夫の顔が歪み、テンションが下がって行くのがわかる。


「あのさ、他に何かないのか」

「何も」

 夫はそんな自分のファッションを、あまり評価してくれない。まあはた目から見てあまりかっこいい物でないのはわかっているが、親がぜいたくばかりして子どもにしわ寄せを強いるのはあまり感心できる話じゃないだろう。

「お前がそんなんだと俺が高いの買いにくいんだよ」

「じゃああなたが高いの買いやすいようにするからあなたが選んで」

「独身時代の時のようにさ」

「私は四児の、いや五児の母よ。その時とは全然違うんだから、今の私にふさわしい物を選んでちょうだい」


 独身時代とか夫は軽々しく言うが、私にはそんな物はない。


 大学二年生の時に合コンに参加して知り合った夫と一年半ほど交際し、そのまま同棲状態に突入して卒業直前に一朗を孕み、そしてそのまま籍を入れた。

 つまり、私に独身時代なんてない。女子大生だった時代の事を言うのならば、それはあくまでも女子大生時代であって独身時代じゃない。いったい夫はいつの頃を言っているのかわからなかったが、それでももっといい物を買うべきだと言っている事はわかるので素直にそうしようと思った、あくまで自分の立場を主張した上で。


 結局、一万円札が三枚入っていた財布の中身を千円札三枚にして帰って来たが、それでも夫の顔は晴れない。


「一番重要な物を選んでくれる辺り、さすがは私の旦那様よ」

「お前の感覚ってのはわかるよ、一体何年夫婦をやってると思ってるんだ」


 動きやすいジーンズ二本とスニーカー、合わせて一万円。夫が私に買ってくれたのはそれだけ。でも、私はまったく不満を感じない。

「どんなに良さそうなものを選んでもお前は結局首を横に振りそうだからな。その点ではどうもな」

 県庁舎に勤めるエリート公務員、ちょうどその道をたどろうとしていた公務員一年生。それが私や浅野さんたち女子大生の集う合コンに出て来たのは、やはり地位を得たから次は恋愛だという単純な流れなのかどうかは知らない。

 とにかく、その合コンをきっかけに知り合った私たちはあれよあれよという間に同棲し、そして社会人十一年目になっていた。その時一番人気だった浅野さんは未だに独身らしい、全く不思議な物だ。


 三十三歳と言う年齢が、世間的にどのような物なのかは難しい。私だって十月にはそうなるのだが、まだ実感はない。三十二歳と言う自分の年齢に対して、優越感もなければコンプレックスもない。ただ、結婚してほどなく十年になるという事実があるだけだ。

「ただいまー」

「あらお帰り」

「あらお義母さん、ご迷惑を」

 家のドアを開けると、義母が孫たちと遊んでくれていた。私が買い物を下ろして冷蔵庫を開け冷凍スパゲティを出そうとすると、義母は背中をつかんで私を座らせた。テーブルには、近所のコンビニで買って来たとおぼしきおにぎりが山のように並んでいる。

「ったく、あなたはすぐそういう事をするんだから」

「ああ申し訳ありません、きちんとゆでた上でパスタソースを」

「そうじゃなくてねえ。たまには楽しみなさいよ、たまには座ってるだけでいいじゃないの」

 義母が機嫌良さそうにしている物を、わざわざ崩しに行く必要もない。私はおとなしく席に着き、私に割り当てられたおかかと紅鮭のおにぎりをほおばった。

「ったくもううちの息子が」

「いや母さんさ、彼女はその」

「知ってますよ、あなたは本当にいい嫁を持ったわね。ああうちの人は近所の集まりで麻雀打ちながら何か食べるそうですから。私も始めようかしらね、あれボケないために効果的だそうですから」

 それで私が買い物の中身を話すと義母は夫を軽くにらみ、そして笑顔を作りながら自分の分のおにぎりをほおばった。そして私の先を行くかのように義父の予定をさらりと話した。若い嫁などよりずっと息子と夫の事などわかっているのだぞと言いたげな自信と貫禄に満ちた表情。いつか一朗たちが恋人を連れて来た時に、私はこんな風になれるのだろうか。私は少しだけ不安になりながらペットボトルのお茶をコップに空けて飲んだ。




 妹や夫、義母からは口酸っぱく言われているが、私だって一張羅ぐらい持っている。その一張羅を身にまとい、私はPTAに出掛ける。ありふれた年中行事だ。

「四月からどうなりますかしらね、まったく変な学校ですから」

「そんなに変な学校ですか」


 その日のPTAの会合は、奥田さんの第一声から始まった。


 私と同じ新四年生の子どもを持つ立場の、来季からPTA会長になる事がほぼ確定している奥田さん。私の一張羅よりずっと豪華そうな緑色の服を身にまといながらため息を吐き、紅茶をすすり終わった私が首をかしげると辺りを軽く見まわした。

 そして

「この中で、小学校の時のクラス替えが二年に一度だった方」

 と言いながら右手を高く上げ、それに過半数の保護者の皆さんが続いた。

 続いて一年に一度の方と言いながら奥田さんが手を引っ込めると、残る保護者の皆さんの大半の右手が上がった。

「まあ別段気にするような事も出ないんでしょうけどね、三年に一度ってのはどうにも流動性に欠くような気がして個人的にはどうもいただけないんですよね」

「ではその事を学校の方にもお訴えになればよろしいのでは」

「それで特別どうと言う事もありませんからね、かえって面倒くさいだけかもしれませんし」

 そのどうと言う事もないはずの話でこの場を始めたのはなぜだろう。

 このPTAの会長と言うのは、実に意味不明な代物だ。たいした権力がある訳でもなく、ただ持ち回りのように学期ごとに巡って来る。それは別にいいとしても、最初から私には回ってくる気配さえない。去年の二学期は私の右隣の家の鈴木さんが会長だったから三学期は私だろうと思っていたら、一軒飛ばされて左隣の佐藤さんに回って来た。この調子だと、多分永遠に回って来ない。

「でもクラス替えと言ってもしょせん学校が変わる訳じゃありませんし」

「そうですけどね、この四月から約半数が入れ替わる訳です。三年間も一緒だったのがクラスが変わるといろいろありますからね、ああ一部そうでない方もいますけど」

 今年でちょうど四十歳の奥田さんは私と高橋さんの顔を見ながら、気まずさとやるせなさが混ざったような顔をする。なるほど確かに、私の娘の萌と高橋さんの息子の道弘くんは新二年生として同じクラスのまんまだ。でも特段大騒ぎするような案件でもないはずだが、奥田さんの顔はずいぶんと青くなっていた。


「どうもいけませんね、最近ドタバタしてて」

「やっぱりこの時期はみんな、ねえ」

 私はそうでもありませんけど、とは言わなかった。私が幸運にも比較的平穏な三月を迎えられているだけで、みんなこの時期は相応にドタバタしている物だろう。子どもたちにとっては毎年が初体験であり、親たちの様に慣れる事など出来はしない。

 四年生になるのも二年生になるのも年長組になるのも、みんな生涯で一度っきりの経験だ。それに対し真摯に向き合うのは、親としての当然の行いだろう。そして、この子の事も。

「お話によれば最近五人目ができたとか」

 人目構わず、ついお腹をさすってみる。

 先ほど名前を出した鈴木さんがこの場にいないのは、一月に見た時に膨れていたお腹の関係だろう。私だって同じような理由でPTAに顔を出せない事が多かった。その事を考えると、やはり義母には感謝してもしきれない。この子も六年後にはこの小学校に入り、やはり私はPTAに向かう事になるのだろう。その時私は単純計算で三十八歳になる。

 それでも、今の奥田さんよりは年下だ。

「まあ、今日の議題なんですけど」

「子どもたちとスマートフォンですね」


 今回と言うより、今年度の課題と言ってもいい話だ。

 何せ年十二回のPTAの集まりの中で、その半分がスマートフォンがらみだった。そこから入りこんでくる様々な情報、その中には危険な物も多々ある。その危険性に気付かないまま触れてしまい人生をふいにする話もあるから保護者としても気を付けなければならない――――聞き飽きた話ではあるが、重要である事には変わりない。

「付き合い方ってのはどうさせてます」

「とりあえず中学生になるまではダメと断言しています」

「私は私の持っているのを使わせてますけど、一日三十分までと言う事に」

「私は一日じゃなく、一週間単位にさせてます。でもそのせいで日曜になるとずっとスマートフォンとにらめっこですから、悪いのかもしれませんけどね」

「でも平日はその分しっかりしているんでしょ」

 私は根本的にスマートフォン、いやそれ以前に携帯電話と言う物を持っていない。うちにある「電話」は、夫が持つスマートフォンと据え置き式の電話だけだ。別になくても不自由しないから、その理由もない。だいたい、一年単位で新しいのがどんどん出て来るのにどのタイミングで買えばいいのかとんとわからない。

 ちなみに夫が持っているのは四年前の物で、その前は夫の言う所のガラパゴス携帯だった。

「それぞれの家庭に対して向き合い方ってのはあると思いますよ」

「よく言いますけどね、やけどした子供は火を恐れるって」

「それとね、ああ目の見えない人は蛇を怖がらないとも」

 うまく使いこなせば非常に便利だが、使い道を誤った時の危険性は大きい。それはすべてに通じる話だろう。子どもたちの大好きなカレーやハンバーグは火を使わねば出来ないが、火の使い方を誤れば家一軒簡単に焼け焦げる。夏になれば水の事故により命を失う話は山とあるが、人間水なしでは生きられる物ではない。

「その点そちらさんはどうなんですか」

「私はそんな物持ってませんし子どもたちも関心がないので」

「それはいいですね。何せ危なっかしくて仕方がなくて。スマホから得られる情報には有益な物も多いですけど、暴力とか薬物とか有害な物もありますからね。あととりわけ性的な情報にも気を付けないといけませんね」


 とにかくこの議題になる度にとくに言う事もないのでこれまでと同じく沈黙を保っていた私は、話を振られるとこれまたこれまでの数回と同じ回答を繰り返した。

 違ったのは、その後に性的な情報と言う言葉がくっついて来たと言う事だけである。そしてそれに対してもこれと言った発言もないので口をつぐんだが、その私の様子を見た奥田さんは不思議と明るい顔をしていた。

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