第19話 憂鬱
あの日を境に、僕が莉愛と関わることは無くなった。
代わりに、怜奈が僕の側にいるようになった。
はじめは、怜奈の登場に衝撃を受けていたクラスメイト達も、時間と共に慣れ始め、怜奈が休み時間の度に僕の元へやって来ても、誰も気にしないようになっていた。
サッカー部の部員達も、僕に何も言ってこなくなった。
はじまりは歪だったけど、平和な日常が新たに形成されていった。
それでも、僕は未だに莉愛の姿を見る度に、苦い気持ちになる。
まだ、僕は立ち直れていなかった。
期末テストを再来週に迎えたある日、怜奈の提案で、勉強会をすることになった。
場所は怜奈の家だ。
「お邪魔しまーす」
怜奈の家に来たのは、これで二回目だった。
部屋に入り、以前のように、小さな机の前に僕は座った。
すると、怜奈は僕の隣に座った。
「さて、問題です、新世くん」
「はい、なんでしょうか」
「年頃の男女二人が密室でやることと言ったら、なんだと思いますか?」
僕の右手を握り、耳元で囁いてくる。
そういえば、そういうことは、ここ最近ご無沙汰だった。
合コンの日のことだから……もう二週間近く前か。
「でも、余ってたっけ?」
「……何が?」
「何がって……」
「ああ、ゴムのことね。あの時は、どっかの誰かさんが頑張っていたから、もう余っていないのではないかしら?」
「いや、あの時、僕が疲れたって言ってもやめなかったのは、怜奈が……」
「気のせいじゃないかしら。私は、はじめてだったのよ? そんな余裕はなかったわ」
「よく言うよ……」
僕は苦笑いを浮かべる。
いつも、余裕の笑みを浮かべている怜奈が、その表情を崩したことはない。
予想外のことがあっても、冷静に対処する。
それが双葉怜奈という女性だと、僕は知った。
怜奈に対するイメージは、僕が怜奈と関わる前から抱いていたイメージとあまり変わらなかった。
いつも冷静で、大人びている女子生徒、まさしくその通りだった。
逆に、僕に過大評価な人物像を思い描いていた怜奈は、その落差に失望しているのではないか。
怜奈は僕のことを、他者を大切に想いやる生き方をする人物だと想い、恋をしたらしい。
でも僕は、怜奈が抱いていたイメージとは、全然違う人間だ。
僕は、自己保身の為に行動するだけの人間だ。
怜奈が恋をした僕と、現実の僕は全然違う。
そう考えると、この先振られるのではないかと、不安になる。
「そもそも、新世は私とそういうことがしたいのかしら?」
「え? でも、さっきのって、そういう意味なんじゃ……」
「私は、勉強をするつもりで家に招いたのだけれど、新世はケダモノだったのね」
怜奈はくすくすと笑みを浮かべる。
完全に誘導されていた。
「……勉強しよっか」
「そうね。まあ、そう落ち込まなくても、私に今度のテストで勝てたら、ご褒美をあげるわよ」
「……マジで?」
「マジよ」
「それならやる気が……いや、無理だな。怜奈に勝つなんて」
前回、怜奈に僕が勝てなかった理由は明白だ。
怜奈はほとんどの教科が満点だった。
僕が95点を取っても、一教科につき5点も差がつく。
それが積もり積もって、20点にも30点にも差ができるのだ。
おまけに、全教科の最高点が、怜奈の取った点数だ。
何かの教科で怜奈より高い点数を取って、その分で差を埋めるということすらできない。
「新世って、諦めが早いわよね」
「まあね」
「昔は諦めが悪い人だったって、あなたをよく知る人は言っていたけれど、何がきっかけで今みたいになったのかしら?」
「……」
「自分を持っている人だったとも、その人は言っていたわね。自分で何をするか決める意思があったと。でも、最近は、周りの意見に流されやすくなったって、言われていたわ」
「僕のことを、よく見てくれている人がいたんだね」
でも、それは単なる過大評価だ。
昔、僕が諦めが悪かったのは、現実が見えていなかっただけだ。
分不相応な夢を抱く少年は、空想や幻想をいつしか現実と照らし合わせて、自分には無理だと悟って諦める。
自分の主張を貫く尖った生き方をする人は、その生き方が通用しないと分かったら、途端に周りに同調した生き方をする。
それが社会で生きるということで、大人になるということだ。
もっとも、僕は莉愛との件で、未だに自分が子供だったということを思い知らされたわけだけど。
「誰から聞いたの?」
「小鳥遊さんからよ」
「小鳥遊さんっていうと……そらの方か」
そらとの付き合いは、中学からだ。
とはいえ、中学時代のそらは今みたいに部活に所属していなくて、後輩のそらと僕はほとんど関わりがなかった。
中三の時に一度だけ、そらがチンピラに絡まれてるのを僕が助けた際に、まともに話したぐらいで、僕が高校に上がってからの一年間は会ってすらいなかった。
そらが高校生になった今でこそ日常的に話すようになったけど、僕の昔を語れるほど、そらは僕と関わりがあるわけではないはずだ。
それなのに、そらが僕のことをそう評価していたと知って、少し驚いた。
「何がきっかけで、今みたいになったのかは、大体想像がつくけれど……」
「怜奈はなんでもお見通しだな」
「私がお見通しなのは、新世のことだけよ」
怜奈はそう言うと、僕に優しく頬擦りをした。
……僕の人生観が大きく変わったのは、あの夏からだ。
僕はあの夏以降、自分で選択することを放棄した。
自分で判断することを放棄した。
自分がした選択で、後悔したくなくなったからだ。
僕はあの日、ひよりちゃんを見殺しにする選択をした。
そして、すぐにその判断を後悔した。
僕が救助することを躊躇しなければ、ひよりちゃんの体に麻痺が残ることはなかった。
水中で死ぬかもしれないという、耐え難い恐怖を感じることはなかった。
そう思ったからだ。
「僕はさ、怖いんだよ。自分で決めた選択が、取り返しのつかないことになるかもしれないと思うと」
「そうやって、誰かに自分の人生の選択を委ねていると、また後悔するわよ」
「また……って?」
「椎名さんのこと、まだ後悔しているんでしょう?」
「……」
今となっては、莉愛と別れたのは正しいと思っている。
あの日、怜奈に、近い将来僕たちは別れることになっていたと言われた。
価値観の違いや認識の違い、信頼関係の綻び、それらが積もり積もったら、確かに僕たちは近いうちに別れていただろう。
だけど、それは何も、莉愛だけのせいじゃない。
僕は、莉愛に判断を委ねている節があった。
自分から、莉愛にこうしてほしいとか、そういった要求をしたことはなかった。
僕が莉愛の行動を縛らないので、莉愛は自分の判断で動くようになった。
要するに、莉愛の自分勝手な性格が増長したのは、僕のせいでもあるのだ。
そして、怜奈との関係だって、あの夜に僕が拒まず、流された結果だ。
自分が選択せずに、怜奈に言われるがままに決めた結果だ。
僕がいろんな場面で、自分で選択することから逃げた結果が重なって、最終的には莉愛と別れて怜奈と付き合うことになった。
でも、もし僕が、莉愛とちゃんと話していたら。
自分がされて嫌なことを、莉愛に伝えていれば。
自分の意見を莉愛に伝える姿勢を見せていたら。
結果は、全然違ったのかもしれない。
そう考えると、僕は後悔せずにはいられなかった。
僕は、浮気現場を目撃した時、莉愛と別れるという選択をした。
浮気をした莉愛は、自分の選択を任せられる相手じゃないと思ったからだ。
あの時、随分と久しぶりに、自分で選択したと思った。
しかし、その判断が正しかったのかどうか、問われるとわからない。
あの時、莉愛と話し合うことを拒否する選択をせずに、話し合っていたら?
莉愛と話し合い、意識や考え方のすり合わせをして、改善していれば?
結末は、どうなっていたんだろう。
それに、結局は莉愛との話し合いだって、怜奈に任せっきりだった。
僕が莉愛と話をつけないといけなかったはずなのに、自分の意見を言うのが怖かった。
あの夏、ひよりちゃんを助けようとした翔を自分の意見で止めてしまったように、自分の意見で結果が変わるのを恐れた。
自分の選択で結末を決めるのが、怖かった。
莉愛に未練がある訳じゃない。
ただ、自分が随所随所で選択していれば、結末が変わっていたのではないかと、仮定の話を考えてしまう。
「私はね、新世がしたいことなら、どんなことでもしてあげるつもりよ。今だって、別に新世がエッチなことをしたいなら、気分が乗らなくてもしてあげるわ。でも、それだとダメなのよね」
お互いが節度なく、好きなことをし合うだけの仲だと、きっと関係は長く続かない。
相手の許可を取ることが億劫になって、莉愛との間に起こったような行き違いが起こる。
「私は新世のことを心の底から愛しているから、何でもしてあげたいと思う。けれど、新世が私の行いを否定しないのは、その方が楽だからなのよね」
「……楽、か。そうだね、そうかもしれない……」
僕は楽になりたいだけなのかもしれない。
自分が選択しなければ、自分の責任にはならない。
自分の判断でなければ、自分の責任にはならない。
自分が後悔することにはならない。
そう思っていたのに、結局、心のどこかで後悔している。
「新世、人間誰しも、常に正しくあり続けることなんて不可能なのよ。間違いだらけの選択をする人だっている。あなたは一度の間違いで、これからの人生全ての選択を、誰かに委ねるつもり?」
僕が勉強して、医者になるという選択も、ある意味誰かに委ねている結果だ。
僕が本当に、自分の意思でやりたいと思っているからしているわけじゃない。
「私はね、今後は新世にちゃんと自分で決めてほしいのよ。私との関係だって、新世が私のことを嫌いになったら、ちゃんと自分から別れを告げられるようになってほしい」
「……別れないよ、絶対に」
「どうなるかは、わからないわよ? 未来に、絶対なんてないのだから」
そう言った怜奈の顔は、寂しそうだった。
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