第5話 2/100 13
文字書きさんに100のお題 002:階段
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――年貢の納め時だと、江戸時代じゃあるまいし。
結納のあとで、スーツ姿のまま行ったバーでマスターに笑われた。あんたならスマートに逃げると思ってたんだけどねえ、まさかほんとにやるとはね。
家を出て、東京で暮らせば親の追及を逃れられると思った俺が甘かった。俺が三十になった誕生日に、母親は勝手に俺を結婚相談所に登録していた。俺が数十枚の写真と釣書を見もせずに断ると、母親は、相談所の人に申し訳ないから、ひとりだけでもいいから会ってくれと電話口で泣いた。
『ドナドナ』の売られていく子牛のような気分で、指定された都内のホテルへ行った。借り物の、ぐしゃぐしゃのシャツと穴のあいたジーンズを穿いていくと、相手はなぜかほっとしたような顔をした。
――気難しい人だって聞いてたんですけど、そうじゃないんですね。
遊んでいなさそうな、面長な白い顔に丸いメガネをかけた地味な女だった。如才ない営業マンの仮面をかぶった俺の写真から勝手に想像を膨らませていたらしい。ふだんの俺はこんな崩れた服装はしない。合わないジーンズが気持ち悪くてしょうがなかった。その後もその子とつきあうことにしたのは、これ以上母親に釣書を持ち込まれないようにするためだった。
――バーの見合いだったら楽なのに。
午後三時、俺のほかにはだれもいない店内では、長く尾をひく西日がカウンターの合板を反射していた。俺はウイスキーの氷をガラガラとふった。マスターの見合いファイルには、パートナーをさがす男たちのデータがぎっしりと詰まっている。
――決まった子を見つけておけばよかったのに。
マスターはくせのあるロン毛を背後でまとめながら、皮肉げな笑みをみせた。十代のころから二十年近くこの店で働いてきたマスターは、俺と同年代のくせにかなり年上に見える。
三年前、三十になる寸前に、俺は長いあいだつきあっていた男と別れた。相手は十二歳年がはなれた、神経質そうな顔をしていたが性格は磊落なサラリーマンだった。小学生の娘と息子がいた。その男も性癖を隠して結婚したゲイだった。
身体の関係とわりきっていた男と別れたのは些細なきっかけだった。
男のシステム手帳からテーマパークの海賊船に乗っている家族写真を見つけた。「父親」におさまりかえっている男の顔をみて、すうっと心が冷えた。
恋の終わりなんてこんなものかと思った。
マスターは煙草に火をつけると、顔をしかめてまずそうに吸いはじめた。渋い顔のままで、
――今からでも断れないの?
と聞く。
――ガキを置いて? 無理だよ。
――あんた女にも早撃ちだったのねえ。
苦いウイスキーが喉を爛れさせる。
――診断書、偽造されたんじゃないの。
相手の父親は私立の大学の教授だった。診断書はその大学病院の医師が出したものだった。女が思いつめた顔で差し出したそれを、俺はホテルのティールームのテーブルに広げた。これがドラマだったら俺はどんな役を演じればいいのだろう。誠意たっぷりに頭を下げるか、不審げな顔で診断書をはじき返すか。『ほんとに僕の子供?』。傷ついた男の金気を帯びた声音で。
実家の両親は怒り狂っていた。いままで浮いた噂ひとつなかった一人息子が、いきなり相手を孕ませたのだから、両親はショックだったにちがいない。
――あなたは今まで何をしてきたの?
電話口で聞いた母親に、男と寝ていましたと言えたらどんなに爽快だろう。三十人までは数えていましたが、と。
あのときの母親の怒りが仕組まれたものだとは思えなかった。が、結婚する気配のない俺がその気になったことだけは、母親もこっそりと喜んでいるようだった。
生まれてからずっと、俺は一生結婚することはないだろうと思っていた。ひとりで生きて、ひとりで死んでいくのだろうと。義務感で寝た女の腹から転がり出てきた子供。西日に透けるウイスキーの反射光が、テーブルで動いた。
つきあっていた男が自分の子供の話をしたことがある。別れる直前の夏、デパートの屋上のビアホールでジョッキを空けていたときのことだ。
――やっぱり娘より男の子のほうがかわいいねえ。娘はやたら口が回るわ、うるさいわで喧嘩ばっかり。
あんたにそっくりだよ、と俺が言うと、男は一瞬、ビールの酔いが醒めたような顔をした。
――おれはあんなにうるさくないぞ。キンキン耳元で怒鳴り散らすから、たまらんよ。
しわを寄せた鼻の頭をかいて、男は笑った。照れ隠しをするときのくせだった。
夜眠るまえにその顔を思い出すと、なつかしいような哀しいような気分になる。
その顔を思い出すのも嫌になれば、俺は別のパートナーをさがす気になれただろうか。
義務感でつきあった女ではなく。
ウイスキーのグラスをあけてバーを出た。幹線道路沿いのイチョウ並木が金色に光っている。
駅の方向へ歩いていく。近所に小学校でもあるのか、黄色い帽子をかぶった下校中の子供たちとすれちがう。障害物をよけるように黄色い頭のあいだを縫いながら歩いた。
子供のまえで「父親」をしている男は、写真のなかで惚けたような顔をしていた。自分にこんな顔をみせることはないだろうと思った瞬間に、自分はいったい何になりたいのだろうと疑問が湧いた。
「父親」に? それとも「父親」の「子供」に?
何者にもなれず、何者にもならないことが、自分のプライドだと思っていたのに?
歩道橋の階段をのぼりながら、俺は自分を追い詰める気配を感じていた。
絞首台の階段は十三段あるという。「父親」をしていた男は、社内の上司の紹介を断れなかったという理由で絞首台に吊られた。吊られた男のふやけた幸せと、ひとりで生きていくと肩肘を張っていた俺と。
疲れたんだろう、と男が耳元で笑う。
歩道橋の階段を上りきると、通路をふさぐようにして黄色い帽子をかぶった小学生たちが並んで歩いてきた。集団下校をしているらしい。
頭のうしろに気配を感じた。早くこうすればよかった、と俺の声が耳元で聞こえる。
磔のように腕を上げると、身をかがめた。
俺は力いっぱい踏み切ると、歩道橋のうえからバック転をした。
階段から転がり落ちても頭を打ってもなすがまま。
視界が線になって駆け抜ける。
気がつくと、俺は十段ほど下の階段にぴったりと足をそろえて着地していた。
足からジン、と痺れが這い上がる。
歩道橋の上から、子供たちがはじけるような歓声をあげた。
First Edition 2003.6.10 Last Update 2003.6.10
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