第3話 1/100 溶けない血
文字書きさんに100のお題 001:クレヨン
溶けない血
石につまずいて、水たまりに画用紙を落とした。澄んだ水たまりが濁って、白い埃が絵のなかの赤い太陽を覆いかくした。
小学校二年生の最後の登校日に、盗んだ絵をもって走っていた。引っ越しの前日の金曜日――子供のころのぼくは、それが世界の終わりだと思っていた。
卒業式のあとのお別れ会で、ぼくは卒業式で歌ったおなじ歌を贈られた。歌声と怒鳴り声のあいだで、彼はモノクロの背景に滲むように立っていた。
色のうすい肌と表情のない顔。泳がない魚のように教室のすみでじっとしている。眺めていたのは、熱帯魚の水槽に反射してゆれる天井の光だった。重なり合ったアメーバの輪郭のようにゆれている光の輪を、彼は猫のように首をかしげてじっと見上げていた。しゃべらない子供だった。
彼をみるといらいらした。いらいらしながらも、教室のなかで彼を捜した。そのときは知らなかった。いらいらの意味も、彼を捜すわけも。
彼がすわっていた木の床の体温や、彼がとおりぬけていった空き地のセイタカアワダチソウの森や、彼がまきあげたプールの飛沫を追いかけた。追いかける理由がわからなくて、彼にとどきさえすればわかる気がして、でも一度も彼に触れたことはなかった。磁石のN極とN極を合わせたときみたいに、はじきあうような気がしていた。
彼を追いかけたわけは、あまりにも人間らしくなかったからだろう。精巧につくられた人形を見れば、一瞬ほんものかと目を凝らす。彼を見るたびに、そんなとまどいが頭にこびりついてはなれなかった。
教室で、彼の机のうえにおかれた画用紙の束を目にした。一年分の絵をリボンで束ねたものだ。画用紙の束をめくってみる。
油くさいにおいと、太陽の明るい赤と。教室の壁に張り出された家族の絵には、いままで気づかなかった、いるはずのない存在が書かれていた。
太陽の赤が目を灼く。
画用紙の束から、その絵をひきちぎった。画用紙を丸めて荷物を手に取ると、ランドセルをせおって教室から飛び出した。
廊下を全力で走って、上履きをバッグへつっこんで人影もまばらな昇降口を出る。急いで走る足元に雨上がりの水滴がはねる。これはぼくの絵だ。ぼくの絵――心臓の鼓動のように、何度もくりかえした。
足の甲に堅い感触を感じた瞬間、宙を飛んでいた。
銀色の水しぶきが襲いかかる。空をきった画用紙が、水たまりにくねるように舞い落ちた。
手にくいこむ砂利の痛みで、転んだことにようやく気づく。あわてて水たまりに手をのばすと、白い煙をまきあげて画用紙が人差し指をはじいた。
蒸気機関車のようなはげしい息づかいにふりかえる。
胸元をおさえて荒い息をついていた彼が立っていた。
表情のない彼の瞳で白い画用紙の影が上下にゆれている。
絵をぬすまれて追いかけてきた、一度も興味を示したことのなかった彼が。
彼の瞳が、水たまりの絵を見てゆがんでいった。水たまりに叩きこまれた家族の残骸。ぼくがうしなった、大事な家族。
――かえせ。
ぼくが怒鳴ると、彼の身体がびくりと跳ね上がった。言葉の刃が、彼を引き裂いていく。
もう二度と会わなければ、このまま世界を終わらせることができたのに。
彼の絵だけをつれて。
――ぼくの父さんをかえせ!
いなくなった父を母が捜さないようになったのは、今年の正月に入ってからのことだった。
残業がつづいて家にかえらなくなった父を、母は夜な夜な捜しまわっていた。名前を言えば、相手に無言で電話を切られるほどに。正月休みにもかえってこなかった父を見て、母はようやく父が家を出ていったことに気づいたようだった。
ぼくはじきに父の居場所は聞いてはならないことだと気づいた。フルタイムのパートをはじめ、正社員に格上げされてから、母はひとりで生きていく決心を固めたようだった。
母ひとりでは家のローンを返せない。家を売って、母の実家がある山梨へかえることになった。
もう二度と、ここには戻ってこない。
彼は叩かれたようにぎゅっと目をつぶって身体を硬くした。
彼はしゃべらないのではなく、しゃべることができなかったのだ。
家族の絵には、三人の人間がかかれていた。赤いスカートの母親と、ふたりの父親。右端にかかれた男は、四角いメガネをかけていた。右の頬にふたつ、星のようなほくろがあった。
その絵に子供の姿はなかった。彼の家族は三人、数だけであれば合っている。ただ、いるはずのない人間がかかれていることにだれも気づかなかっただけだ。
彼の無言のメッセージに気づかなかっただけだ。
話すことのできない秘密をかかえて、彼は肩をふるわせて泣き出した。
はげしく顔をゆがめて、それでも声を出さなかった。
あわてて立ち上がると、アスファルトに押し付けられていたひざがヒリヒリと痛んだ。ぬれた白い靴下に、赤い血がぼんやりとにじんでいた。
とにかく絵を返そうと思った。水たまりからぬれて重くなった画用紙をひきあげる。母にこの絵を見せるつもりなんてなかった。ただ、世界の終わりの地へ、彼の絵だけをつれていきたかった。
二度と彼の背中を追いかけることができないのであれば。
あやまればいいのか責めればいいのかわからなくて、ぼくは重い腕で彼に画用紙をかえした。
彼は顔を上げなかった。にぎらされた画用紙を地面に叩きつけると、無言で絵を踏みにじった。
絵は雲のようにやぶけて、破片が水たまりに広がった。
水しぶきを跳ねちらかして、彼は絵をすべて水たまりのなかへ蹴り入れた。
そうしてなにも言わずに、ぬれた靴を鳴らして走り去っていった。
消えていく背中を追いかけることはできなかった。
ひとりの母親と、ふたりの父親。不自然すぎる環境のなかで、彼がなにを思って暮らしていたのかはわからない。天井にえがかれた水紋をみあげていた背中は、たぶん幸せではなかったと思う。彼のメッセージを受け止めきれなかったぼくは、水たまりに散ってしまった絵をみおろして立ち尽くしていた。
水たまりに赤い太陽の破片がしずんでいた。
消えてしまった父親も、世界を終わらせる母親も、彼の悲しみをどうすることもできなかったぼくも。
全部、水のなかに溶けて消えてしまえばいいと思った。
First Edition 2003.5.11 Last Update 2003.6.9
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