五号室

もり ひろ

五号室

 これは僕が山奥にあるペンションで、住み込みで働いていた時のことです。

 大学三回生の夏休みに、国内で有数の避暑地として知られる土地で、いわゆる「リゾートバイト」をしていました。


 僕が働いているペンションは、普段はオーナー夫妻が二人で切り盛りして何十年と続いて来た老舗です。旦那さんはお客さんの送迎や山仕事を、奥さんは厨房を担当していました。そんな二人だけでは手が回らない繁忙期だけ、住み込みのアルバイトを雇っていました。


 とはいえ、ペンションの客室は一号室から四号室の四部屋で、定員満杯まで入ってもせいぜい二十名程度です。

 特別、サービスが良いという宿ではありません。人里から遠く離れており、まさしく「辺鄙な場所」にあります。ただ、夕飯の美味しさに定評があって人気があり、多くのお客さんで賑わっていました。


 ここで提供される料理の材料は旦那さんが調達しており、それを奥さんが調理する地産地消をウリにしています。時には山で珍しい山菜を採ってきたり、清流で川魚を釣って来たりと、都会では目にすることのない食材が並ぶ厨房は、見ていて楽しさがありました。


 それと、旦那さんが調達する肉。普段、スーパーでは見ない赤々した肉について

「なんの肉ですか」

と聞くと、奥さんは

「都会では絶対に食べられない特別なお肉、美味しいのよ」

と笑っていました。

 きっと、最近よく聞く「ジビエ」のようなものでしょう。

 僕もまかないでそれらを口にしていましたが、人気の理由が一口食べただけでわかりました。大げさではなく、「こんなの、初めて食べた」と思ったほどです。

 この肉を使った料理が特に人気で、リピーターのお客さんも多くいると教えてもらいました。


 とても穏やかな土地で、朝晩は涼しくて過ごしやすく、セミの声や川のせせらぎに心が癒されます。ちょうど、気持ちが不安定だったこともあり、大自然に治癒されていく心地良さを感じていました。

 そんな住み込み生活の終わりを翌日に控えた夕飯時のことです。

 居心地の良いこのペンションでの暮らしももう終わりだと思うと、寂しい気持ちが込み上げていました。


 僕は配膳をしている旦那さんに声をかけました。

「来年の夏も、ここで働いていいですか?」

 僕の言葉に、旦那さんは

「毎年、みんなそう言ってくれるんだけどねえ」

 と、少し影のある表情をしたのが、少し引っ掛かりました。


 きっと、旦那さんは疲れていたのだろう、とその時は思うことにしました。

 仕方がないことです。

 ちょうど、お盆連休の最後の夜でお客さんが多く、旦那さんも普段はほとんどやらない厨房仕事を手伝っていました。


 僕もせっせと宿泊客の夕飯の給仕をしていましたが、突然催した尿意に負けてしまいました。

「すみません、五号室行ってきます」

「はいよ、早めに戻ってきてくれ」

 この「五号室」とはこのペンションでの隠語で「トイレ」を指し、実際には存在しない部屋です。お客さんに「トイレ」という言葉を聞かれないように生まれた隠語だと教えてくれました。


 僕は、忙しい時分での催しに、申し訳ない気持ちになり、少しでも早く仕事に戻るべく小走りでトイレへ向かいました。

 トイレは四つの客室が並ぶ長い廊下の突き当りにあります。

 四つの客室を通り過ぎてトイレに入る寸前のところで、違和感が生まれました。

 はて。


 いま、僕が通り過ぎた客室は、五部屋なかったか。


 ゆっくり、ゆっくりと戻り、最後に通り過ぎたその部屋の扉を確認します。


「五号室……」


 その扉には、他の部屋と同様に、木のプレートで『五号室』と記されていました。

 脇や額がじんわりと汗ばむのがわかりました。握っていた手のひらもべたべたとしています。

 どれだけ目を凝らしても、見間違いなんかではなく、確かに目の前に五号室が現れたのです。

 今まで、そこはただの壁だったはずなのに。


 僕の中の巨大な恐怖心と、小さな好奇心がせめぎ合いをします。嫌な予感しかないのです。開けてしまえば、見てしまえば、入ってしまえば、きっと戻って来れないような、そんな気配さえも感じられました。


 それなのに。


 それなのに、僕の左手はそのドアノブに手をかけ、音が立たないようにゆっくりと回し、そして扉を押し開けたのです。

 扉が開くにつれ見えてきた室内は、ただの真っ暗で、何も見えません。満月だというのに、月明かり一つ窓から差すこともなく、闇に落ちています。


 廊下はじっとりと暑いのに、部屋から流れ出て来る空気はとても冷たく、なんだか重く感じました。冷気が足元からじわじわと全身の汗を凍えるほどに冷やしていきます。

 目が慣れるまでじっと立ち尽くし、室内を伺います。

 ようやく目が慣れた頃に、うっすらと室内が見えてきました。


 いくつものナニカが吊るされている様子が見え、そして、


「来年の夏もここで働いてくれるかい?」


 突然、背後から声をかけられました。


 振り返ると、そこには旦那さんが、いつもの柔和な笑顔で立っています。

 僕は返事もしっかりできないまま、駆けだそうとしました。ここにいちゃいけない、ここに来ちゃいけないと、頭の中で警鐘が鳴ります。

 ところが、旦那さんの纏う雰囲気とは裏腹に素早く力強い手のひらが僕の腕を掴みました。


「離して、離してっ!」


「来年もここで働いてよ」


 僕は四肢の全てで抵抗しました。旦那さんの指が、僕の手首に食い込んできます。掴まれた手首から先がじんわりと痺れていても、失禁をしても、僕は抵抗をしました。

 身体をねじって、噛みついて、旦那さんの顔面を殴って、そうしてようやく力が緩んだ瞬間に僕は逃げ出しました。

 長い長い廊下を駆け、靴も履かずに玄関から飛び出します。

 背後からは旦那さんと奥さんの怒号が聞こえていました。


 それから僕は、街灯のない山道を無我夢中で駆け、麓のコンビニへ駆け込んで朝を待ちました。追手が来ないことに安心して帰宅しても、恐怖で寝れない日々が続き、十年経った今もまだ追われているような恐怖を感じています。


 あの日、僕が見たものをここで書くことはできません。口にすることも憚られ、口にすることでまた追われるのではないかという不安に襲われるからです。

 もちろん、ご自身の目で確かめることもおすすめできません。

 あれを目にして、生きて帰ったのはきっと僕だけでしょう。

 今でもあのペンションは経営しているようです。

 得体の知れない、あの美味しいお肉を提供しながら。

 

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