婚約覇気舞踏伝リーゼロッテ~その婚約破棄、受けて立ちます、悪役令嬢の名に賭けて!コンハキファイト、レディー…ゴー!!!~

くろねこどらごん

第1話

「リーゼロッテ、たった今を持って、私は君との婚約を破棄させてもらう!」


「ふんっ!!!」


 その宣言を耳にした瞬間、私、リーゼロッテ・カシュワはすぐに動いた。

 私を指さしながら婚約破棄を宣言したハイゼンエルヒ第一王子。

 彼の真っ直ぐ伸びた人差し指を掴み取り、逆方向へと素早く曲げる。

 途端、ペキッという、乾いた響きが周囲を包む。

 枯れ木を踏んだかのようなその音は、色とりどりの花が咲き乱れる麗らかな庭園に似つかわしくない、だけど私達の開戦の合図でもあった。


「ぐおおおおおっっっ!!!」


「油断大敵、ですわね王子。破棄を宣言した直後なら、なにをされるわけでもないとでも?」


 まったく、この人は昔からこうだ。

 反射的に折れた指を抑え、体を九の字に曲げる王子だったが、それは悪手である。

 何故なら、本来長身である彼の顔には私の手が届くことはないのだから。

 ハニーブロンドの綺麗な髪に、怜悧な美貌を携えた王族らしい気品溢れる彼の顔が、私の眼前に無防備にさらけ出された。


「っらぁ!!!」


 なら、攻撃あるのみ!私は王子の整った顔面に全力のハイキックを叩き込む!

 自ら弱点を晒すなど、弱肉強食を国是とするネオイセカイ王国を統べる者にあってはならぬことと知りなさい!


「婚約破棄を舐めんじゃねぇ!!!」


「ぐっほぉっ!!!」


 真紅のドレスを翻しながら放たれた私の渾身の蹴りは、見事王子の頬に直撃し、彼は血反吐を吐き散らしながらきりもみ回転で吹っ飛んでいく。


「惰弱…」


 無様すぎるその姿を見て、私は思わずそう吐き捨ててしまった。

 彼には油断があった。婚約破棄を申し出ながら、王子は私が即座に動かないとでも思ってたのだろう。


 だから反応出来なかった。

 だからああして、肢体を地面に叩きつけられ突っ伏している。

 だから彼は私に勝てないのだ。世界の覇権を狙うネオイセカイ王国第一王子という立場にありながら、婚約者のひとりも婚約破棄することの出来ない情けなさ。

 その現実を直視し、思わず奥歯を噛み砕きながら、私は未だ庭園の土と一体化し、動かぬ王子に吠えていた。


「立ちなさい王子!私を婚約破棄するのでしょう!宣言しておきながら、その姿のなんたる無様なことか!ネオイセカイの次期王たる者が、そのような情けない姿を晒し続けることが、どれほどの恥なのか!わからないとは言わせませんことよ!」


「…………!」


 普通の女性ならば、あるいは彼に優しい言葉をかけていたのかもしれない。

 だが、彼は王の子にして王を継ぐ者。そのような人間に、甘い言葉は不要だ。

 そして、王子もまた、それを望んでいなかった。

 私の叱責に彼は体をピクリと震わせると、一拍の時を置いて、手を地面に叩きつけ、ゆっくりと立ち上がる。


「そう、それでいい。立ち上がらない者に、王たる資格はないのですから」


 その姿を見て、私は頷いた。貴方はそうでなくてはいけないのだ。


「ハァ、ハァ…ふぅ、すまない。確かに、無様な姿を晒してしまった。君にもっとも見せたくなかったのだが、私が甘かったようだ」


 そう言いながら、彼は鼻から滴る鮮血を袖口で拭い取る。

 美しかった顔は泥と血に塗れ、もはや見る影もない。

 だが、瞳だけは爛々と輝いており、野生の肉食獣を連想させるほどにギラついていた。

 それを見て取り、私は思わず薄い笑みを浮かべてしまう。


(社交界に集うようなご令嬢方が今の彼を見たら、きっと卒倒するでしょうね)


 どこぞの侯爵や公爵家といった貴族連中の中には、王子に憧れを抱いている箱入りお嬢様も多いと聞く。

 ロクに話したこともないだろうに彼が高い人気を誇るのは、立ち振舞いや容姿によるところが大きいだろう。後は王子という肩書きだろうか。

 そういったものに惹かれるのは結構なことだが、生憎と私は違った。

 美しい容姿や品格、威厳と自信に満ちた立ち姿より、土に塗れ血を滴らせ、折れた指を抑え背を曲げながらも真っ直ぐに私を睨む彼の眼光にこそ、心臓が高鳴るのだ。


「戦意は衰えていないようですわね」


「無論だ。私は今日、君を婚約破棄するためにここに来た。その決意は今も些かも揺らいでないさ」


 そう言いながら、王子はポケットからハンカチーフを取り出すと、折れた人差し指へと巻きつけていた。


「その指でも問題ないと?」


「ああ。引く気はない。この怪我は私の油断の証だ。これを言い訳になどするつもりはないよ。むしろ戒めとして、気が引き締まるくらいだよ…もう、油断などはしない」


 グルグルと巻いたハンカチーフを、最後にギュッと音がするほど強く締めると、王子は軽く腕を振ってみせた。

 戦いに支障はないという、アピールのつもりなのだろう。その仕草が幼い子供のように思えてしまって、私は思わず笑ってしまった。


「フフッ…」


「なんだいリーゼロッテ。なにかおかしなところがあったかな?」


「いいえ。ふと、小さい頃のことを思い出してしまいまして…あの頃はよく私が王子に包帯を巻いて差し上げていましたよね」


 昔の王子は泣き虫で、いつも私の後を付いてくるような男の子だった。

 稽古が辛いとか痛いのは嫌だと泣きべそをかいては私のところにやってきて―その度に私は、彼のことを張り倒したものだ。


 ―訓練が辛い?なにを甘えたことを!?そんなことで、この国を導けると思っているのですか!!!貴方はこの国の王となる人間なのですよ!?


 ―うっ、ぐす…分かってるよリーゼ…でも僕は、君と一緒にいられたらそれでいいんだよ…別に強くなんてならなくたって…


 ―ならなおのことです。私と一緒にいたいというなら、私のことを婚約破棄し、正式な婚姻を結ばないとダメです。言っておきますが、私は手を抜くつもりはありませんからね


 ―そんなぁ…リーゼは僕と一緒にいたくないの?


 ―いたいですよ。でも、私は悪役令嬢を継ぐ者です。そんな私が、戦いに手を抜くことは許されない。王子が私といたいなら、私に勝ちなさい。そうでなければ…


 ―………僕、勝つよ。リーゼに絶対、勝ってみせる。勝って、絶対君と結婚するから!


 ―ふふっ、それでこそです。期待していますよ?さぁ、稽古に戻りましょう。ああ、その前に手当はしないといけませんね。ほらっ、手を出してくださいな


 ―う、うん。ありがとう、リーゼ…




「…ふふっ、本当に懐かしいですわね。あの頃の王子は、本当に泣き虫で、少し頼りない男の子でした」


 過去に思いを馳せていると、王子の声が耳に届く。


「そうだったね。私は弱かった、いつも君に頼ってばかりいた…でも、それは嫌だった。だから鍛えたんだ。もう泣かないために。そしてなにより…君と、結婚するために!!!!!」


 ゴウッ!!!!!


 途端、暴風が吹き荒れる。

 王子から発せられたオーラにより、大気がビリビリと震え、肌が波打つ。


「これは…王子、まさか…!?」


「そう、私はたどり着いたんだ…初代ネオイセカイ王が婚約破棄をするために至った境地…婚約覇気の境地へとね!!!」


 語る王子の威圧感が更に増す。

 この圧力…ハッタリじゃない!


「王子…よくぞここまで…」


「言っただろう?君に婚約破棄をするためにここにいると。もう油断は一切しない。私は今日、ここで君を超える!婚約破棄を成し遂げ、リーゼロッテ、君を手に入れるために、君に勝つ!勝ってみせる!!!」


 王子の瞳に迷いがない。

 本気だ。本気で彼は、私を手に入れようとしているのだ。


「嬉しいですわ、王子…婚約者として、そして女として。これほどまでに求められるこに、悦びを禁じえません。私の全てを貴方に差し出しても構わない。そう思えるほどに…」


「リーゼロッテ…!」


「ですが王子。ひとつ訂正しなければいけないことがあります」


 逞しく成長した王子を前に、女としての自分は震えるも、武闘家としての自分が立ちはだかる。


「王子は今、油断しないといいましたね。それは果たして、本当でしょうか。私にはとてもそうは思えないのですが」


「なんだと…?そんなことはない。私は一切油断など…」


「いいえ。していますよ。何故ならば、貴方は既に勝ったつもりでいるのですから。婚約覇気に目覚めたことで、心の底で自らの勝利を疑っていない自分がいる…違いますか?」


「うっ…それは…いや!君は私に揺さぶりをかけようとしているな?その手には乗らないぞ!」


 私の指摘に、一瞬虚を突かれた顔をするも、すぐさま立て直してくる王子。

 なるほど、精神面の未熟さもほぼ解消しているようだ。戦いを前に揺さぶられるようなことはないらしい。


「ゆさぶり、ですか」


「御託はもういいだろう!さぁ、始め…」


「違いますよ、王子。私は事実を口にしているまでです―婚約覇気に目覚めているのが、自分だけだと思っていたのですか?」


 言い終わると同時に、私は自らの覇気を開放した。


「…なに?」


「ハアアアアアアッッッ!!!!!」


 ドンッ!!!という大きな響きとともに、大地が轟き咆哮する!


「なっ…!?」


「これで条件は互角…いえ、私が婚約覇気に目覚めたのは5年は前のことですから、年季の差で少々私が有利かもしれませんね?それに貴方はまだ、『追放の極み』にしか目覚めていないようですし」


「『追放の極み』だと…?」


「ええ。婚約覇気の境地には、奥に三つの扉があるんです。最初の扉にあるのは、己の精神に生じた弱気を心の内から追放し、揺るぎないものとする『追放の極み』。先ほど王子が行っていましたが、どうやら意識して発動したわけではないようですね」


「…まだ私が踏み入れていない扉が他にふたつあると。そう言いたいのか」


 ふむ、動揺はしているようですが、それでも致命的な隙を生じるほどのものでもない。

 まだ使いこなせているわけではないようですが、どうやら『追放の極み』は王子に合っているようですね。

 分析をしつつ、話を続けることにする。


「はい。次の扉にあるのは、己の肉体から無駄な動きを断罪し、最適な動作を持って行動できるようになる『断罪の極み』。最初に王子の指をへし折ったのがそれです。そして、最後のひとつは…」


 言葉を溜めつつ、さらに気を…開放する!

 ドォンッ!!!と激しい轟音とともに、私の纏うオーラの質そのものが変化していく。


「これ、は…!?」


 驚愕に目を見開く王子だったが、これで私も条件は整った。

 全力を出せる…条件が!


「これが最後の扉…『追放』と『断罪』の先にある、婚約破棄を心から楽しむ精神の持ち主が到れる境地…『ざまぁの極み』です」


『ざまぁ』は純粋に婚約破棄を楽しめないと、たどり着くことが出来ない扉。

 私への愛に囚われている王子には、決して至ることが出来ない。

 そのことを本能的に悟ったのか、顔を歪める王子。

 だが、今更もう遅い。もはや戦いは避けられないのだ。


「覚悟を決めなさい、王子…貴方が望んだコンハキファイトでしょう?私達はもう、死合うのみ!!!」


「くっ…!リーゼ、これほどまで…だが、私は負けん!負けてなるものか!私は私の愛を証明する!必ず君に、勝ってみせるぅっ!」


「その意気や良し!それでこそ、この拳をぶつける価値があるというもの!」


 美しかった庭園は、勝負の舞台へと変貌を遂げていた。

 花は吹き飛び地面はひび割れ、周辺には岩が飛び散っている。

 覇気がぶつかり弾け合う中、ツカツカと場違いなヒールの音が庭園だった場所に響いた。


「ふっ、いい覇気ですわね。王子、それにお姉様。さすが悪役令嬢ベビー・フェイスの名を継ぐ者と言えばいいのかしら」


「貴女は…クリスティーナ。どうしてここに?」


 そこにいたのは、私の妹であるクリスティーナだ。

 腕組みをしながら仁王立ちする彼女を見て、何をしに来たのか訝しむが、その答えはすぐに彼女の口から知る事になる。


「そんなの決まっているでしょう?王妃の座を賭けたコンハキファイト。この国の未来、そして両者が雌雄を決するその結末。見届人が必要だと思いまして、こうして馳せ参じた次第ですわ、お姉様」


「ほう…」


 なるほど。確かにそうだ。

 我が妹ながら、なかなか気が利くことをしてくれる。

 かつては鼻っ柱が強く、ワガママ三昧で手を焼いたものだが、文字通り鼻を叩き折り、手を焼いて(物理)からはそれなりに聞き分けが良くなり、慕ってくれるようになったのでなりよりである。


「さぁ、お二人共、準備はよろしくて?」


「無論!」


「ええ、勿論でしてよ」


「ならば、名乗りを挙げなさいな。この戦いを彩るに相応しい、決意と意志を示すのです!」


 そんなこと…言われずとも!

 私と王子は同時に目を合わせ…そして、吼える!!!


「我が名はリーゼロッテ・カシュワ!ネオイセカイ王国にその名が轟く武の名門、カシュワ家の長女にして、悪役令嬢の名を継ぐ者!我が技の前に、力など無意味!関節技こそ王者の技よぉっ!!!」


「私はネオイセカイ王国の第一王子にして王の座を頂く者!名をハイゼンエルヒ・クロウズ!我が指先に貫ける者なし!この手に全てを掴んでみせるぅっ!!!」


 我らの名乗りは轟き木霊し、波動に乗って祝砲と化す。

 天まで届かんとばかりに声を張り上げるのは、まるで子供の頃に還ったようで、思わず口角が緩んでいた。


「ハッ…」


「フッ…」


 それは王子も同じだったようだ。

 私達ふたりはまた目を合わせると、高らかに笑った。


「「フッ、ハハハハハハハハハハハハハハハハッッッッ!!!」」


 ああ、愛し合う者同士が心を通わせることの、なんと心地よきことか。

 この時間が永遠に続けば良いのにと、柄にもないことを思ってしまう。


「ふふっ、良き名乗りでしたよ、王子。それにお姉様も」


 ―――だけど、夢は必ず覚めるもの。


「ああ」


「ええ」


 目尻を擦り、浮かんでいた涙を払う。

 私達がいるのは現実であり、戦いは避けては通れぬ宿命にある。

 その事実を噛み締めながら、私達は構える。


「さぁお姉様達、準備はよろしくて?」


「うむ」


「ええ、それでは、いざ尋常に…」


 クリスティーナが腕を上げる。

 その声を聞きながら、私達もまた―――


「「勝負っ!!!!!」」


「「コンハキファイトォッ…レディ、ゴ―――ッッッ!!!!!」


 叫びが重なり、戦いのゴングが鳴るのだった。






「リーゼロッテェェェッッッ!!!!!」


「王子ぃぃぃぃっっっっ!!!!!」


 吼える。交錯する。拳が迫る。


「いくぞリーゼロッテ!時間はかけない!この一撃で決めてみせる!」


 先に動いたのは王子だった。

 右腕を引いた構えを見せながら、一直線に私に向かって突撃してくる。


「その構え…あれを出すつもりですわね…」


 右手から繰り出される指突擊。それこそが王子がもっとも得意とする技。

 戦場にて、多くの兵を屠ってきたと言われる一撃は、通称『プリンスフィンガー』と呼ばれ恐れている、王子の必殺技である。

 加えて今は、指先に覇気を集中させている。プリンスフィンガーを警戒し、右手の指を折っていたとはいえ、あれではもはや人差し指が使えぬことなど、大した意味はないだろう。他の四指の威力で十分お釣りがくる。

 ただしく必殺となるあれを顔面に喰らえば、いくら覇気でガードしているとはいえ、私でも大ダメージは避けれない。

 体格的には王子が有利だが、先ほど私が見せた覇気で彼は持久戦に持ち込まれれば自分が不利だと悟ったのだろう。

 故に、自身がもっとも信頼を置く一撃に全てを賭け、短期決戦を挑んできたということか。

 確かにそれは正解だ。咄嗟に判断を下した彼の決断力に拍手を送りたいくらい。

 だが、


(それこそが、私の狙いですわよ王子!)


 短期決着を望んでいたのは…こちらとて同じ!

 姿勢を低く構えると、私も王子に向かって駆け出していく。


「なっ!?」


 私の行動が予想外だったのか、驚きの声を上げる王子だったが、足を止めることなく向かってくるのは流石といったところだろうか。

 だが、私の顔を正面から捉えるつもりだった思惑が外れたことで、彼の意識は無意識のうちに迎撃に切り替わってしまったのだろう。

 王子の腕がやや前へと突き出され、低姿勢を保つ私を上から押さえ込むために、自然と下を向く形になる。


 それを見て、私は内心ほくそ笑む。王子との間にあった距離はほぼなくなっており、もはや体勢を整える時間はない。

 案の定、先に仕掛けてきたのは王子だった。王子の指先が黄金色に発光し、輝きを増していく。


「くっ!受けろっ!我が愛の一撃をッッッ!必殺!プリンスッ!フィンガァァァッッッ!!!!!」


 繰り出された王子の一撃は、まさに必殺だった。

 速度。タイミング。威力。そのどれもが完璧で、まともに喰らえば戦闘不能になることは間違いない。


 だからこそ―それを逆に受ければひとたまりもないだろう


「ハァッ!」


 私は眼前に迫ったプリンスフィンガーを、鼻先で躱した。

 そのまま流れるように、王子の側面へとステップする。

 その際、伸ばしていた長髪がバッサリと持っていかれるが、それを惜しむ暇などない。

 今私の目に映るのは、彼の逞しく鍛え上げられた豪腕のみ。

 技を放った直後の彼の腕は真っ直ぐに伸ばされており―あまりにも、無防備だ。

 私は王子の右腕に自分の腕を絡みつける。


関節技サブミッションこそ、王者の技と知りなさい!!!」


 そのまま全体重をかけ、王子の腕を九の字へと強引にへし折った。


「フンッ!!!!」


 ベキリという音が大きく響く。

 同時に、私は自身の勝利を確信した。

 これこそが、私の狙い。まさに読み通り。

 真っ直ぐに伸ばされた彼の腕は、私の顔を狙っているのは明白だった。

 分かっているなら回避などいくらでもできる。勝利のためならば、自慢だった髪を捧げるのも厭わなかった。

 後はこのまま首を絞めるなり、戦闘不能へと持ち込めばいい―そう考えた直後、


「まだだぁぁぁっっっ!!!」


「なっ!?」


 王子が咆哮し、左手を私に向かって突き出してきたのだ。

 その指先は、黄金色に輝いている。


(左手の…プリンスフィンガー!?)


 完全なる予想外。右腕を折ったことで、戦意を削いだと思っていたのに…彼は諦めてなどいなかったのだ。

 どうやら私は、彼の覚悟を侮っていたらしい。王子の言葉に嘘はなかった。本当に彼は、勝利の覚悟を持って私に挑んできていたのだ。


(…負けましたわ、王子。貴方の勝ちです)


 私は目を閉じ、己の敗北を受け入れた。

 彼の覚悟は私のそれを上回っていたのだ。ならば、下手な抵抗をするのは無粋というものだろう。

 あの一撃を受ければ顔に大きな傷を負うだろうが、それは代々の王妃が経てきたことだ。

 むしろ勲章と言えるだろう。誇らしさを持って、彼の強さを民へと知らしめることができるに違いない。

 近づく彼の覇気を感じながら、そんな未来へと想いを馳せていたのだが、


「………?」


 痛みが、こない。

 彼の指先の気配は、私の顔を横切ると、何故か頭の後ろへと突き抜けていた。

 途端、私は激昂する。


「王子、何故―――!」


 侮辱されたと思った。

 私は己の敗北を受け入れたというのに、彼は必勝の一撃を外したのだ。

 勿論わざとに違いない。だから目を開け、抗議しようと思ったのだが―何故か王子の顔が、すぐそこにあった。


「おう…」


「愛してる、リーゼロッテ」


 通り過ぎていた左手が、私の後頭部へと添えられる。

 そしてそのまま引き寄せられ、王子の端正な顔との距離が近づき―彼の唇と重なっていた。







「シャアッ!」


「ッラ――――――!!!」


 チーン


 なお、反射的に蹴り上げてしまい、王子はぶっ倒れてしまったのですけども。




 ……………………


 …………


 ……




「う、ううん…」


「目が覚めましたか、王子?」


 王家の未来を賭けたコンハキファイトから僅かな時間が経ち、私たちは未だ庭園にいた。

 美しかった庭園は吹き飛び、剥き出しになった地面の上で、私は横たえた王子の頭を自分の膝に乗せ、彼の目覚めを待っていたところだった。


「リーゼロッテ…」


「はい。おはようございます、王子」


「ああ…そうか、私は、負けたのだな…」


 目を覚ました王子は私の顔を見上げた後、直前の記憶を思い出したのか、ゆっくりと瞼を閉じた。


「いえ、負けたのは私のほうです。あのまま王子がプリンスフィンガーを私の顔面にぶち込んでいれば、私は確実に敗北していたでしょう。結果は逆になっていたはずです」


「負けは負けだよ。言い訳はしない。私は君に攻撃することが出来なかった…」


 噛み締めるように呟く王子だったが、その言葉からは悔しさを感じられなかった。

 むしろ、攻撃出来なかったことに対する安堵の気持ちが滲んでいるように思う。

 その姿を見て、気になっていた疑問を、私は王子にぶつけていた。


「…何故、私に攻撃しなかったのです」


 そうすれば私は彼が望んでいた通り、王子と結婚することになっていたというのに。

 私の問いかけに、王子は僅かに苦笑し、


「しなかったんじゃない。出来なかったんだ」


「どうしてですか。王子は私を愛していたのではないのですか?」


「ああ。私は、君を誰よりも愛している。どうしても私は、君のことが欲しかった…でも分かってしまったんだ。私は、君を傷つけたくないのだと。私は君を倒せる男ではなく、守れる男になりたかったんだ…」


 なのに、どうして君を傷つけることが出来ようか。

 彼は真っ直ぐ私を見上げながら、そう言った。

 その瞳に迷いはなかった。どこまでも綺麗で真っ直ぐな、幼い頃の王子の瞳そのままだった。


「…馬鹿な人ですね」


「ああ。私は馬鹿だ。最初から勝てない勝負だったんだ。私はとっくの昔に君に負けていた。せっかく鍛えた腕だったが、これじゃあ意味がなかったな。もっと早くに、気付くべきだったんだ」


 そう言って折れていない左腕を、彼は掲げた。

 王子の口調は、どこまでも穏やかだった。

 いっそ清々しさすらある。だが同時に、諦めの色も滲んでいた。


「リーゼロッテ、聞いてくれ」


「はい」


「私はもう君に、婚約破棄を…コンハキファイトを挑むことはできない。勝つことのできない戦いを挑んでも、無意味だからだ」


「はい」


「だから君は…リーゼロッテは、新しい相手を見つけてくれ。君に相応しい男を見つけるんだ。私は、君に相応しい男には…」


 そこまで言って、王子は言葉を噤んだ。

 そして目を閉じる。最後の一言を告げる悲しみを、耐えるように。

 それを見て、私は思わずため息をついていた。


「…本当に馬鹿な人ですね」


「……すまない。私は…」


「ねぇ、王子」


 続けようとする王子の言葉を遮る。

 その先を言わせるつもりはなかった。彼は負けたと言っていたが、それは違う。


「私の負けです」


「え?」


「何度も言わせないで下さいな。私の負けだと言っているんです。このコンハキファイトは、貴方の勝利です。ねぇ、そうでしょうクリスティーナ?」


 私が問いを投げかけたのは、我が妹にしてコンハキファイトの見届け人、クリスティーナ。

 私達を未だ見守っていた彼女は、穏やかな笑みをこちらに向けると、


「ええ。この勝負は王子の勝ちです。私は確かにこの見届けましたよ。お姉様の髪もこんなに短くなってしまいましたからね。髪は女の命ともいいますし、それを奪われた時点でお姉様の負け…という方便も、まぁ立つでしょう。つまり、王子の勝ちでなんら問題はないわけです。お幸せに、ふたりとも」


「なっ…なにを言っているんだ!私は…」


「王子は勝ちましたよ。私は負けたんです…貴方の愛の強さに、ね」


 そう言って、私は彼の髪を優しく撫でた。

 …本当に馬鹿な人だ。ここまで言わないと分からないなんて、本当に馬鹿な人。

 だけど、そんな馬鹿な人にここまで愛されているという喜びが、胸に溢れてしまうのだから、私もまた、馬鹿な女なのだろう。


「わ、私は…」


「あら、女が負けたと言っているのに、王子は責任をとってくださらないのですか?それとも、王子は私が他の男の方に嫁いでもよいと?」


「!?い、いや、そんなことがあるものか!リーゼは私だけの人だ!他の男になど絶対に渡さない!」


「ふふっ、ならよろしいではありませんか」


 こんなことを真っ直ぐに言われて、つい顔を赤らめてしまうくらいには、ね。


「ですが、王子。ひとつ約束してください…私を生涯、守ってくださる男になると」


「…ああ!勿論だとも!私は必ず、君を守る男になってみせる!ネオイセカイ王国第一王子、ハイゼンエルヒの名に賭けて!」


 そう叫びながら左腕を天に掲げる王子の姿は、覇気に満ち溢れていた。

 この方となら、きっと上手くやっていけるだろうと、そう確信できるくらい。


「本当に負けましたわ、王子。悪役令嬢の名も、貴方には形無しですわね」


 私は思わず笑みを浮かべ、そう呟いてしまうのだった。

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