そこに映るは苦い夢

おくとりょう

第1話 うつつを映す

 あぁ、どうして……。


 鏡に映る僕を見て、すぅっと気温が下がった気がした。今になって、それにようやく気がついた。


『可愛い僕はもういない』

 かすれた声で鏡が言った。


 それとも、とっくに気づいていたのか。あれは僕が見ていた夢だったのか。

 禅問答な自問では、もう誤魔化せないし笑えないN o g r a s s。せめてもの抵抗に、僕はそっと眼鏡を外すN o g l a s s e s

 ……なんて、ふざけて、とぼけたところで。ただ視界がボヤけるだけで、世界がふやけるわけじゃない。僕の心がどんなに冷たく湿っても……。


 そこはいつも通りの洗面所。

 大きな鏡に映るのは、我が家の見慣れた白い壁、隅に覗くは黒いドア。そして、半裸で立った可愛い僕。……あぁ、そのはずなのに。


『可愛い僕はもういない』


 半分、裸で鏡を見つめる。鏡の前に立った僕。

 可憐で儚い、かっての僕。姉さんと似た可愛い顔で、じっと見つめる困りまゆ。……何も変わらぬはずなのに。


 あぁ、どこに行ったの。可愛い僕。

 か弱く小さい勝手な僕。鏡の中にあるはずなのに。そこに映るは見知らぬ男。華奢きゃしゃなはずの小さな身体が、いつの間にかしてた。

 じんわり想いを馳せながら、自分の身体をそぉーっとなぞる。

 骨が透けそうな白い肌。あの艶やかな潤いはくすんだ闇の彼方に消えて、油脂の香りが鼻をくすぐる。その皮の下では、筋がうごめき、少しりきめば盛りあがる。

 折れそうだった骨は、今やギューギュー重々しくて、僕の身体を角張かくばらせる。


 ……花車きゃしゃな僕はもういない。蠢く肉と角張る骨がただたくましく、麗しい。それはきっと生命いのちの情熱。なのに、刻まれる脈が冷静で、僕はとても悔しかった。可憐な僕の声はしない。

 鏡の向こうの哀しい瞳。こっちを見ないで欲しいのに、彼は紛れもなく僕だった。


 可愛い僕はもういない。きっと霧の向こうに行ってしまった。


 鼻の奥が酸っぱくなって、頬がギュッと強張って、鏡の彼が微笑んだ。同情のように苦々にがにがしげに。駄菓子みたいに素朴な味で。

 だけど、それは僕の想いよりも甘くて軽くて。あまり辛くはなさそうで。


 ボヤけたそれ鏡像を上目で睨むと、自分の顔を両手で覆う。だって、きっと誰も助けてはくれないから。


 誰かに救いをいたくても、ここにいるのはだけ。どこに行ってもはひとりだけ。


 どうしようなく空を仰げば、そこは我が家の白い天井。幼い僕には高かった。でも、手を伸ばせば、もうすぐそこに。

 つまり、どこに行っても逃げられない。

 ふらっとよろめき触れる木のドア。軽い音のその陰には、ねて隠れた僕の思い出


『ドアに挟むよ!出ておいで』

 母の声が遠くで響いた。でも、あの柔らかく小さな五指は、色も香りもどこにもない。節くれだった武骨な虫が僕の頭をかきむしる。

 鏡の男はひとりで踊る。雨乞いみたいに身をよじらせて。


「――っ」


 ……ふと手のひらに刺激が走った。まだキメの残った僕の肌。口元あたりでひっかかる。

 それは朝、剃ったはずの剃り残し。鈍く光る顎髭あごひげがささくれのように主張した。悔しくなって、ぎゅっと引き抜く。数本抜けて、数本残った。

 抜けた跡は朱く腫れハレ、残った毛先がユラユラ揺れる。それは僕にささった光る杭。僕をここから逃がさない。たとえ夢の世界へ行きユキくもクモ……。


 堪らなくって、グッと剃刀を握りしめた。銀色の刃がチラッと光る。そこには小さく映る可愛い僕。


 側に並んだ化粧瓶が責めるように僕を睨む。それでも、僕は可愛くいたくて。身を削って、杭を落とす。後悔するのが分かっていても。ずっと僕のままでいたくて。

 ただその杭しか見えなくて。

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