花の足跡
青仮シアン
花の足跡
水色の髪の少年は走っていた。家に居たくなくて、逃げたくて、誰もいないところに行きたくて、走り回っていた。
その結果、道に迷って、途方に暮れた。日も暮れた。どうしようかと、走ることを止め、とぼとぼと歩く。そんな水色の髪の少年、ヒナの前に家が現れた。まるでヒナを待っていたかのように。
助かった、と扉を叩いた。
「おや、珍しい。客人なんて久しぶりだなぁ」
扉を開けて出てきたその人は、小柄で。腰ほどまで水色の髪が伸びていて。こんなところに女の子が住んでいるのかと思ったが、声は予想よりも低く。男物の服を着ている。耳は長く、先が尖っていて。大きなピアスが揺れていた。まるで、悪魔か妖精みたいだった。
海を思わせる髪の毛が綺麗だった。
「こんな森の奥になんのご用かな?」
「あ、えっと……」
何か言わなくては、と思ったが、頭が真っ白になってしまった。
「あぁ、道に迷ってしまったんだね。恥ずかしいことじゃないよ。君以外にも、道に迷ってここを訪ねてきた人が何人もいたからね」
どうやら言い淀んだのは道に迷ったことが恥ずかったからだと思ったらしい。実際道には迷っているのでそこを理解してくれたのはありがたい。
「……はい。ちょっと家出中で……無我夢中に走ってたらこんなところに」
「そうか。じゃあ、よければうちでお茶でもどうかな?訪ねてくる人なんかいないからさ、話相手にでもなってよ」
そう言って俺の手を引いて家の中に入る。
「ほら、ここに座って。外は暑かった?」
「いや、暑くはなかった、です。寒くもなかったけど……」
「そうか。じゃあ飲み物はなんでもいいか。ちょっと待ってておくれ、今用意してくるから」
別にいいのに……でもまぁ、いただけるものはいただいておいた方がいいか。案内されたソファに座って家を見渡す。椅子。テーブルの大きさ。食器の数。広さ。あの人が一人で住むにしては、なんだか合わない気がする。最低でも二人くらいで暮らす分の物がある気がした。訪ねてくる人はいない、話相手になってよ、なんて言っていたし、一人暮らしかと思ったけど、誰かと一緒に暮らしているのかな。でも、一人暮らしじゃないなら、なんであんなこと言ったんだろ? ルームメイトは留学中とか?
なんて考えていると目の前のローテーブルにカップが置かれた。
「おまたせ」
「ありがとうございます」
「いえいえ。そうだ、アレルギーとかは無い? って聞き忘れちゃってたんだけれど……これ飲めるかな?」
カップの中を見る。白い色と甘い香り。
「これ……ホットミルク?」
「そう、正解。まだ寒い日もある時期だからね、よく飲むんだ。まぁ、夏でも飲むんだけどね」
……つまりこの人はホットミルクが好きなわけか。
ホットミルクは俺も好きだ。昔、母親がよく作ってくれた。
「それでね、これはちょっと特別。今日はお客さんがいるからね」
その人はスプーンを手に取りカップに突っ込んだ。スプーンをくるくる回すと少しずつ、色が変わってココアのような見た目になった。
「私特製のチョコホットミルクです。どうかな? これ、私が好きだから作ったんだけど。アレルギーとかあったら申し訳ない」
「いや、大丈夫です。むしろ甘いの大好きです」
「それはよかった。じゃ、ティータイム……は違うな。お菓子を持ってくるから、おやつタイムにしてしまおう。また待っててもらうけど、ごめんね」
「あ、いえ……」
先に口をつけるわけにもいかないよな……。くるくるとスプーン回す。ミルクの甘い香りにチョコの香りが混ざって、なんだか優しい気分になる。バタバタと足音が聞こえる。今度はさっきよりも早く戻ってきた。
「はいただいま。お菓子だよ」
ことり、とクッキーやチョコがたくさん入った器が置かれる。それはテレビで見たことがある可愛らしいパッケージに包まれていた。
「あ、これってもしかして」
「わかる? 東にある天使の小町というお店のお菓子だよ。古い知り合いがそこで働いていてね、貰ったんだ」
天使の小町と言えば美味しいと有名なスイーツショップだ。値段も質も高いから俺は一回も食べたことがない。こんなところで食べられるとは。古い知り合いが働いているなんてすごいな。
「でも、いいんですか? これ、結構高いものですよね? 貰ったものとはいえ……」
「甘いの好きだし、本当は独り占めしたいのだけれど、貰った量がとても多くて食べきれないんだ。だから気にしないで食べておくれ」
「そうですか……じゃあ、いただきます」
さくっと音がなる。クッキーの良い香り。とても美味しい。さすが天使が作ると言われているだけある。チョコホットミルクも美味しい。きっとこれに入っているチョコも天使の小町のものなんだろう。贅沢な使い方をしている。
「美味しいかい?」
「すごく美味しいです」
「それはよかった」
「色々ありがとうございます。……あの、名前って」
言い終わる前に、その人は、あ! と笑顔を浮かべる。よくぞ聞いてくれました、と顔に書いてある。
「自己紹介を忘れていたね。私はミヤ。妻につけてもらったんだけど、ミヤコワスレ、という花から名前をとってもらったんだ。元々名前がなくてね。悪魔の生まれだからさ」
耳が尖っているなんて悪魔か妖精のどっちかだろうと思ったけど、悪魔だったのか。
今の時代、数が少なくなった悪魔はみんな西の国で暮らしているものだと思った。俺たちの街、と言ってもここは山奥だけど、こんな近くに悪魔は住んでいるものなのか。悪魔はみんな人間から離れて西へ行ってしまったって街の年寄りから聞いた。
悪魔に会うのは初めてだった。
「ミヤさんは」
「ミヤでいい。それと敬語もなくていいよ」
「……ミヤは、なんでここに住んでるの? 悪魔は数が減っちゃったからみんな西でまとまって暮らしてるって聞いたけど」
「そうらしいね。でも私はここが好きだからなぁ」
俺が生まれるよりも、もっと前の時代は、今よりも悪魔はたくさんいて、人間とも普通に暮らしていた。だけど、寿命の違いとか、もっと数が多かった天使たちとの争いとか。色々あって、悪魔は段々と人から離れていってしまった。人間と悪魔は仲が良かったから、人間と悪魔の血が混じった者もいたらしい。当時は差別の対象にもなったらしいけど、今ではそれは珍しいことじゃなくなった。俺も家系を辿ると悪魔の血が入っているって母さんが言ってた。もう人間の血が濃すぎて、俺たちの世代に、悪魔の特徴は全くないらしいけど。
悪魔も人も群れるのが好きってよく言っている人を見るけど、このヒトは、ミヤは違うらしい。この場所に何か思い入れがあるみたい。一人で過ごすには十分な何かが。
「ところで、君の名前は?」
「ヒナって言うんだけど……女の子っぽくない?」
「素敵だと思うけどなぁ。そんなこと言ったら、私の方が女の人っぽい名前じゃないかな?」
まぁ確かに、ミヤって名前は女の子っぽいけど……ってことは、ミヤは男の子? 最初見た時は女の子かと思ったけど、声や着ている服は男の子っぽい。
「やっぱり、ミヤって男の子?」
「人に合わせて言うならそうなるね。まぁ、悪魔にとって性別って、あまり気にする要素ではないのだけど、私は男。女性っぽい見た目なのは自覚している」
「そういう趣味?」
「そうともいうけど、違うかな」
違うのか。悪魔は不思議な力が使えるらしい。例えば、姿を自由に変えられるとか。だからそういう趣味かと思ったんだけど、違ったのか。
「俺はあんまり背は高くない方だけど、ミヤは俺よりも小さいね」
「そうだね。実は、妻と同じ身長なんだ。私が望んで同じ身長になったと言った方が正しいかな」
「悪魔は姿を自由に変えられるって本当なの?」
「あぁ。本当さ。でも、私はこの姿以外になる気はないよ」
目の前で何かに変身してくれるかも、と思ったが、どうやら見透かされていたらしい。
「私からも質問しても?」
あ……さっきから俺ばっかりが質問してしまっていた。悪魔と言うから物珍しさからついやってしまった。
「もちろん! というか俺ばっかり質問しててごめんなさい」
「気にしないでいいよ。おしゃべりは大好きさ。それで、さっき家出中だと聞いたけど、どうして家出なんかしてきたの?」
「あー……俺さ、病気持ちで。爺ちゃんも同じ病気持ってたから多分遺伝。たまに倒れたりとしちゃうんだけど、いつもは元気なの。なのに、最初に倒れてから母さんは外に出るな運動するなってうるさくて。最近はもっとうるさくて。それで喧嘩しちゃった。俺は、普通に、みんなと外でサッカーとかしたいだけなのに。近くに病院はあるんだけど、薬屋がないから、薬を貰うのもちょっと大変だし。病気なんか嫌で……病気って思いたくなくて。それで好き勝手してたら喧嘩になっちゃった」
「そうだったんだね。私の妻も、病気を持っていたからわかるよ」
「そうなの? その、ミヤの奥さんて今は……」
ミヤは目を伏せた。もしかしたら、よくないことを聞いてしまったかも。家の中を見る。二人分の物がたくさんあるけど、どれも中途半端に使われている。
「あぁ、妻は、眠っているよ」
それはつまり、亡くなっているということじゃないのか。
「……そっか。ごめん」
「どうして? 私は何も怒ってないよ」
「うん。悲しんでるように見える」
「……そうか」
ミヤの表情は穏やかで、何事もなかったかのようにミルクを飲んでいる。
ヒナもミルクに口をつけたが、もう温度は感じなかった。
「きっと、君は特別な子だ」
「え?」
ミヤはヒナに向かって言った。
ヒナはどういうことかわからなかった。自分のことを特別だ、なんて思ったことはなかった。
「どういうこと?」
ミヤはふっ、と笑った。
「少し、昔話をしようか」
◯
悪魔は全て悪い者であり、天使は全て善い者だと、誰もが思っていた。そんな考えが当たり前の時代があった。人間は善と悪を半分ずつ持っていて、ある意味、最高の者かもしれない。悪魔も、天使も、自分達と同じものを持ちながら違うものも持っている人間に近づいた。人間になりたいと思うものも少なくなかった。今の人間が、悪魔や天使に憧れるように。
だから、悪魔も天使も、よく人間の街に顔を出したり、そのまま住んでいたり、とにかく人間に近づこうとしていた。
とある悪魔には、親や兄弟と呼べる者はいなかった。
名前がなかった。
名前を探していた。
どんな名前がいいだろうか。名前は一生背負う物だから、かっこよさとか、語感のよさだけを重視するんじゃなく、自分が好きな物の名前からとろうと思った。フラフラとしているうちに人間の街に来てしまった。あまり人間に興味のなかった悪魔は街の外れへと進んでいった。
名前はまだ見つかりそうにない。
悪魔は金色の短い髪を揺らしながらフラフラとずっと進んでいった先に、あるものを見つけた。大きなりんごの木だ。悪魔が今まで見てきた物の中で一番大きかった。その悪魔は、悪魔の中でも背の高い方だが、自分なんかこの木に比べたらとてもちっぽけなものに思えた。この木からしたら、蟻と自分の区別もできないだろう。そう思うくらい大きく、威圧感があった。
りんごの木に近づくと、その影に隠れるようにしていた家を見つけた。
外には花壇があり、綺麗な花が所狭しと咲いていた。中には悪魔が人間の街に持ち込んだ花も咲いていた。これはすごいな。
本来、悪魔の街の花は悪魔が育てないと咲かない。同じように、人間の街の花は人間が育てないと咲かないと言われていた。けれど、ここにある花は悪魔の街も人間の街も関係ない、というふうに咲いていた。
悪魔はたくさん咲いている花の中の、一つの花に目を奪われた。地面に空が咲いている。そう思ってしまうような美しい水色の花。
ここに住んでいる者が育てたんだろうか。だとしたら、それはどんな者なんだろうか。
「褒めてくれてありがとう。こんな人よ」
と言った彼女は悪魔の後ろに立っていた。悪魔はとても驚いた。「ふふ。悪魔でも驚くことがあるのね」と彼女は笑った。うっかり声に出ていたみたいだ。
「……当たり前だろう。これで驚かないのは天使くらいだ。あいつらは感情がないからな」
「あら、そうなの? 私、天使には会ったことないのよね。悪魔に会ったのも今日が初めてだけど」
その人間は、自分の半分ほどの低い背で、花壇の花と同じ色の髪と瞳を持ち、茜色の服を着た、美しい人だった。
でも至って普通の人間だった。
人間だったが、なぜ人間には思えなかった。
先ほど、目を奪われた花のような人だった。
「ここは街からも離れているし、誰も来ないし、私はあまり外へ出ないから、悪魔にも天使にもあったことなかったのよ」
「ここにはあんた一人なのか?」
「あんた、じゃなくてコワ。ここには私一人で住んでいるわ。あなたは?」
悪魔は何も言えなかった。
コワは長い水色の髪を揺らしながら、空のように笑った。
水色の瞳は真っ直ぐ悪魔を見つめる。
「俺は、まだ名前が無い。名前を探している最中なんだ」
「あら、そうなの? 悪魔って面白いのね。名前は親がつけるものじゃないのね?」
コワは不思議そうに首をかしげる。人間との違いが気になるのだろうか。
悪魔は目の前の人間に目を奪われる。この人を、もっと知りたい。そう思った。
「よければ、あんた……コワ、君に名前を貰いたい」
コワは心底驚いた、という顔をした。
それで良いのか、と言いたげな顔をしていた。よくよく考えれば当たり前の反応だ。ついさっき出会った悪魔に、名前をつけてくれ、なんて言われたことがある人間は彼女くらいだろう。
悪魔が最初に目を奪われた花は「ミヤコワスレ」という名前だと教えてもらった。彼女と同じ空の色の花。とても綺麗な青。
街で同じ形の花を見たけど、その花はこんなに空に近くなかった。もっと紫っぽい色だったはずだ。そう思う悪魔に、コワは教えてくれた。
「この花はね、本当は紫色なんだけど、私が育てたらこんな色になっちゃったの。土のせいか、気候が関係してるのか……」
コワはふふ、と柔らかく笑っていた。
まぁ、悪魔や天使がいる時代だったから。これくらいのこと、何もおかしくないだろう。
「俺は、この色が一番いいと思う。紫色のやつを見ても何も思わなかったけど、これは物凄く綺麗だなって思った」
コワは何かを考えているようだった。
「コワ?」
「……ねぇ、あなたの名前。ミヤ、っていうのはどう?」コワは続ける。「ミヤコワスレから、ミヤ。とても花を気に入ったみたいだったから。どうかしら?」
ミヤ。悪くない気分だ。
「いいね。ミヤ」
「気に入ったみたいね」
「うん。俺は、ミヤ」
悪魔――もうこの言い方をしなくていいかな。私は、ミヤという名前をつけてもらった。初めて誰かにものをもらった。生まれ変わった気分だったが、今の私はここから始まったわけではない。ころころ一人称を変えてきたが、この頃は自分のことを「俺」なんて呼んでいた。髪も金髪だったし。背だって彼女よりずっと高かった。
私は名前をもらった。だからもうそこにいる理由は無くなった。あとは家に帰るだけだが、そこに留まっても良い理由を求めた。どうやら、このときすでに私はコワに落ちていたようだ。
家が無いと言った私にコワは、「ならここにいればいい。ここにいて、私の話し相手になって」と言った。コワのことが知りたくて、もっと一緒にいたいなんて思っていた私は、コワと一緒に暮らし始めた。家が無かったのは本当だよ。
悪魔単純で素直だ。私もそうだ。私はたまたま出会って、名前をつけてくれただけの人を、好きになった。
悪魔は一途で、好きな相手と一生をともにしたいと願っている。恋人になったり、結婚したり。そうして思いが実れば本当に最期まで添い遂げる。そういう生き物だ。好きになってから、一緒に暮らすようになってから、毎日告白した。最初の方は驚いていた。慣れてくると「飽きもせずよくやるねぇ」とコワは笑うばかりだった。それでも、なかなか私の告白を受け入れてはくれなかった。
一年と少し経って、やっとコワは私の告白を受け入れてくれた。コワが折れたわけだが、決して彼女が情に流されたわけではない。きっかけがあったのだ。私の気持ちを受け入れてくれるきっかけが。
その日は、コワと私は街に出ていた。珍しいことだった。コワは内向的ではなかったが、街にはあまり行かなかった。月に一度行くか行かないかという頻度だった。生活は自給自足で成り立っている。足りない物は配達という手があった。だから、そもそも街に行く必要はあまりなかった。コワは「用事があるの」と私に言った。ついて行っても良いかと聞くと「おとなしくしてるならいいよ」言われたので、私が思う最大限の大人しさを出してコワの後ろを歩いた。なぜかコワには笑われた。
コワと暮らし始める前の私は人間の街に興味がなかった。一人で何度か訪れたことはあったが、楽しいなんて思えなかった。
だから、初めてコワと街に行ったとき、驚いた。コワが楽しそうに、ここの服屋は相変わらずおしゃれだとか、そこのパン屋さんからいい匂いがするとか、こっちには秘密のアクセサリーショップがあるとか、そんなことを話すから。コワがキラキラしてたから、私の見える世界もキラキラして。つまらないと思っていたものが、とても楽しいものに見えた。誰かに惚れるとはこういうことか、と思ったよ。
コワと街のいろんなお店を見て周った。コワは花屋に行って、家の花壇で見たことのない花に心を躍らせ。パン屋に行って、食べたことのないパンにうっとりし。アクセサリーショップでは、この世のものとは思えない輝きを持つ宝石に、目を輝かせた。白い花と、小さなパンを二つと、イヤリングを買った。あぁ、それと薬屋に行って、家の花壇に咲いていた花と薬を交換してもらっていたな。
それらを持って彼女は行く場所があるのだと言った。この街が目的地ではなかったのか、と思ったが私は大人しく彼女の後をついて行く。目的地は街が見下ろせるほど高い場所にあった。小さくなった家の先には海が見えて、ほのかに潮の香りがした。その場所にあったのはお墓だった。一つだけじゃない。いくつかの石が規則正しく並んでいて、花が備えられているものもあった。墓地というものか。私がもといたところは墓地はなかった。というより、悪魔は長命で、死ぬときも死体が残らないから「死んだ後、体を保管する」という概念がなかった。コワが持っていた本から、墓地というものを知っていたけれど、実際に訪れたのは初めてだった。この中にコワの知り合い……それか血の繋がった誰かがいるのだろうか。コワは花を抱え直す。
「僕が持とうか」と聞くと「大丈夫よ」と笑い、「そんなことより。二日前におすすめした本、もう読んだのね」と言った。確かに、コワに本を渡され、それをコワが寝ている間に読み切ってしまったけれど。
「どうして?」
「また一人称がかわってるよ。あの本の主人公は自分のことを僕って言っていたでしょう。すぐ影響されるんだから」
イヤリングがかちゃかちゃとコワの笑顔に合わせて音を立てる。私は影響されやすい性格のようで、読んだ本と同じ一人称を使ってしまう癖があった。前に「ミーはね」と話始めたら大爆笑されたのでそれからは気をつけようと思っていたけれど、治らなかったな。
話しながら墓地を歩いて、一番奥まできたところでコワは足を止めた。
「これは……君の知り合いのお墓?」
「私の、お父さんとお母さんよ」
「……お父さんとお母さん」
コワは出会ったときから一人だった。親は何をしているのか全く気にならなかったわけではないが、コワは自立しているから、ただの一人暮らしだと思っていた。コワが何も話さなかったから、私は聞こうとすら思っていなかった。
コワは土がつくのも気にせず、地面に膝をつけた。白い花と、小さなパン二つと、イヤリングを置いた。墓石の文字をしばらく見つめ、目を閉じ、手を合わせた。私は、何をすべきかわからなくて、ただ見ていた。
「……帰ろっか」
コワは目を開けてそう言った。
帰り道は少し色褪せて見えた。私はコワのことが知りたかった。帰ったらコワの親の話を聞きたい。聞いてもいいだろうか。そんなことを考えながら歩いていた。コワは何も話そうとしなかった。
何か起こるときは本当に突然で。そのときもそうだった。
近くで大きな音がした。
私はとにかく隣にいるコワを守ろうとした。
屈んでコワの頭を腕で覆う。コワは本当に小さくて、私が守らなきゃ、という文字が頭には浮かんでいたよ。必死だったさ。何せ、コワを愛していたからね。
さて、落ちをさっさと話してしまうが。大きな音というのは近くで建設していた建物の一部が落ちてきた音だった。私はそれからコワを守った。起きたことに驚いたのか、コワは少し放心状態のようで、コワの手を優しく握り、私は家路を急いだ。握った手は私よりも冷たくて、震えていた。
家について、ホットミルクを作った。コワはそれを飲むと落ち着いたようで、ほぅ、と息を吐いた。
「私の親はね、事故で死んだの」
コワはホットミルクを飲みながら、重い空気を纏った。私から聞いて良い話題ではないと思っていたが、コワから話してくれるとも思っていなかった。でも、いつかは話してほしいと思っていたことだったから私はそっとコワの手を握った。まだ、震えていた。
「今日みたいに、工事現場の近くを通って、物が上から落ちてきて、そのまま。トラウマってやつかな。さっき、結構大きい音がしたでしょ? 両親が死んじゃったときのこと思い出して、動けなかった。だから、守ってくれてありがとう。悪魔は優しいのね」
彼女は笑った。
私は彼女を抱きしめた。
だって、あんまりにも悲しそうに笑うから。
「コワ。私は君が好きだ。だから守った。僕は悪魔だ。悪魔は人間に興味がある。だから人間と恋人になる悪魔も最近じゃ少なくない」
私の腕におさまるコワ。私よりも小さい。私よりも脆い。
「けど、俺は、人間が好きなわけじゃない。僕は、人間と恋をしたかったわけじゃない。私が、愛したコワが、人間だっただけなんだ」
聡明な話し方に憧れていたのに、一人称はぐちゃぐちゃで。なんでだろうね、このとき私はとにかくコワに愛を伝えたくて仕方なかった。コワは私の腕の中で苦しそうに笑った。
「……一人称、また崩れてるよ。ふふ。あなたどれだけ私のことが好きなのよ。あはは」
やっと、楽しそうに笑ってくれた。
そして、この後に続いた言葉に私は思わずひっくり返ってしまったんだ。
「ミヤ。いいわ。恋人になってあげる。私のことがこんなに好きな悪魔を、放ってはおけないわ」
そして彼女は私に優しくキスをしてくれた。
◯
「それでコワとミヤは夫婦になったの?」
ミヤは空になったカップを机の上に置いた。
「そうだよ。だから私はこんな姿になったってわけ」
ヒナの頭に疑問符が浮かぶ。話では、昔は金髪で、今よりも髪が短かったんだな、ということしかわからなかった。
「昔と今で姿が違うのはわかったし、今の姿がコワにそっくりなのもわかったけど……」
「ふふ。悪魔はね、一途で、愛が深いんだ。だから愛した人の真似をするのさ。話し方も、姿も、何もかも」
真似をするだけで全く同じにはなれないんだけどね。とミヤは付け足して笑った。
「この髪も、気に入ってはいるけど、コワのとは色が全然違う」
「そうなの? 海みたいでとっても綺麗だと思うけど」
ヒナは心の底からそう思った。全てを包み込んでくれる海のような深い青。毛先にいくにつれて緑がかっていて本当に海のような色だった。
「別に汚い色だなって思っていないよ。さっきも言ったけど、気に入ってはいるんだ。でもね、コワの髪は、海じゃなくて空なんだ」
ミヤは窓の外を指さした。外はまだ明るくて、青い空が広がっていた。「ヒナの髪色の方がコワに近いかな。綺麗な色だ」そう言ってミヤは笑った。
ヒナは自分の髪を触る。あまり手入れをしていないからぱさついている。でも、綺麗な色と言われて悪い気はしなかった。
「綺麗だなんて、初めて言われたかも。俺の家はみんなこんな色だよ。古い先祖に悪魔がいるから、その悪魔の髪がこんな色だったんじゃないかって言われてる」
視界に入る髪の色は、光の加減によってはミヤと同じ色にも見えた。
「すべてを許してくれる空のような、優しい色だ。チャームポイントを聞かれたら髪の毛だと答えるといい」
そう笑いながらミヤは立ち上がり、ヒナの頭を撫でる。
「さて、そろそろ家に帰りなさい。家はどの辺りかな?送ってあげよう。住所を教えてくれないかな。手紙に書く住所だ」
「え……でも」
「君が生きている間にできることは精一杯やりなさい。お母さんと喧嘩するのも、笑い合うのも、今しかできないことだから」
ミヤはそう言ってヒナの頭を撫でる。
「……わかったよ」
でも、ミヤは何百年もこの森から出てないのに、俺が住所を言ってわかるのかな? とヒナは考える。
「えっと、シギョク街コシェ通り6丁目2番地の23でいいのかな……? 隣にトーマスのパン工房ってパン屋さんがあるよ。あと家の裏に大きなりんごの木がある。すっごく大きな木なんだよ」
「わかった。その辺りか。よし、行こう」
ミヤはそう言ってソファから立ちヒナの手を引く。何百年も森から出ていないって言ってたのにそんな簡単に外に出れるのか。なんて思いながらヒナは引かれるまま歩いた。
「送る、と言ってもここまでだけどね」
「え」
ガチャリ、とミヤは玄関の扉を開ける。家まで送ってくれるんじゃないのか、ヒナがそう言いかけたとき背中を押され外に出た。いや、追い出された?
押されたことでつまづきそうになりながらヒナが振り返ると、ミヤは笑っていた。
「じゃあ、気をつけてね。愛しい子よ」
「ちょっ……」
バタン、と扉がしまった。その扉には「トーマスのパン工房 OPEN」と書かれた札がかかっていた。
「え、あれ? ここ……」
何歩か後ずさる。確かに、ここから出てきた。けど、足元は森のように草が生い茂ってはいない。きれいな石が敷き詰められ、鋪装された道。周りは、森だったならば鳥や虫の声くらいしか聞こえないはずが、がやがやと人の声がする。もしかして……と振り返ると、やはり。見慣れた風景がそこにあった。
「ミヤ、すごい……! あの森の家の扉と、このパン屋さんの扉を繋いだんだ」
街を見たのは久しぶりかな。ヒナがもう来ないようにあんな返し方をしてしまったけど、きっと純粋な彼のことだ。「すごい! 扉を繋げるなんて!」と言ってくれるだろう。しかしあのあたりじゃ薬屋は繁盛しないのか。コワの言ったことを守れなかったバチでも当たったかな。後悔はしないが、ヒナには悪いことをしてしまった。まぁ医者に困っていないなら良かった。
「あぁ、そういえば、最初にコワと住んでた家はあの辺じゃなかったかな? コワ」
と、悪魔は一人笑うのだった。
◯
目を閉じると何故か最愛の人のことが浮かぶ。眠れないのに夢を見ているみたいだ。今日は特に。何か起こる前兆だったりするのだろうか。
窓の外は最愛の人を思わせるほどの青空だ。
「私を置いていかないでね?」
「もちろんだよ。悪魔は長生きだし丈夫だから。それに一途なんだ。君が死んでも離さないよ」
そんな会話が懐かしい。彼女は早くにいなくなってしまった両親をずっと想っていた。残されることの悲しみから逃げられなかったんだ。置いていかないでと言った彼女の気持ちが今は痛いほどわかる。私も置いていかないでほしかった。それでも生きてほしいと彼女に言われたから、思い出も悲しみも全て胸に抱いてここにいることにしたんだ。
悪魔は愛が深い。愛した人の姿形を真似てしまうほど。誰かがそう言っていた。
そんなのは嘘だ。悪魔は自由が売り。名前も姿も形も自分で決める。その結果、愛した人を真似た悪魔もいるってだけ。
私は、こうしないと忘れてしまう気がした。髪はどんな色だったか。背はどれくらいだったか。話し方はどうだったか。声はどうだったか。彼女の真似をしていないと、忘れてしまう。そんな気がしてならなかった。
私と彼女との違いを考えているときだけは、彼女をまだ忘れていないんだ、と安心できる。
コワと恋人になって初めて過ごした夜は、とても心地が良かった。それまでは眠る必要がなかったから、夜は散歩に出たり、暖炉の前で本を読んでいた。その時間も嫌いじゃなかったけど、一人の夜は二人の昼に比べて、少しだけ寂しかった。
だから二人ですごした夜は特別に感じられた。
色んな話をして、いつの間にか眠ってしまったコワの寝顔を眺めていた。気づけば日は昇り、それを鳥が知らせていた。
「もう朝か」
まだ眠っているコワが、起きたときに喜んでくれるかと思って朝食を作ってあげた。トーストと目玉焼きに、サラダ、コワの好きなホットミルク。
「うん、美味しそう」
テーブルに並んだ朝食を見て、お腹が鳴りそうになる。私がうっかり全部食べてしまう前にコワを起こそうと寝室に行くと、そこにコワはいなかった。
「コワー? いないな。トイレかな?」
ベッドにはコワの姿はなかった。私が朝食を作っている間に起きていたのか。トイレなら覗くわけにも行かないし、大人しくテーブルで待っていようか。そんなのんきなことを考えていたら、トイレから大きな物音がして、肩が跳ねた。
「コワ……?」
何かあったのかとトイレに行くと、コワは床に倒れていた。
「コワ!」
床に倒れているコワ。床で寝ているわけじゃない。荒くなる自分の息と、弱々しいコワの息。このときはかなり焦った。こんなことは初めてだったから。
「コワ。コワ。どうしたの? ねぇ、コワ」
肩を抱いて起こすと少しだけ目蓋が揺れた。動く肩を見て、ちゃんと息ができていることがわかって、とても安心した。でも酷く顔色が悪くて、医者に連れて行かないと、私の方が不安で死んでしまいそうだった。
「う……ミヤ?」
「コワ! ミヤだよ。ここにいるよ。コワ、大丈夫? 今医者に連れて行くから」
「……大丈夫よ。そこの引き出しに、薬があるから、それをとってくれる? 薬を飲めば大丈夫だから」
コワが指さした引き出しを開けると、小さな紙袋があって、その中にあった薬をコワに飲ませた。
「コワ、大丈夫?」
「ありがとう。もう大丈夫よ」
大丈夫だと言われても心配でコワの顔を見つめてしまう。そんな私にコワは微笑んだ。
「ふふ、あなたの顔色の方がすごいわよ。ね、ご飯作ってくれたんでしょ? いい匂いがする」
「うん……でもコワもう少し寝ていなよ。私は心配だよ」
「じゃあ、リビングまで連れてって。ソファでゆっくりご飯を食べるわ。せっかくミヤが作ってくれたのに、冷めきってから食べるなんて嫌」
「……はぁ。わかったよ」
さっきまで倒れていた人間を歩かせるわけにもいかない。家の中とはいえ、また倒れてしまうかもしれない。そう思った私はコワを抱えた。恥ずかしいのかジタバタされて、落としたらどうするのかと思った。絶対に落とさなかったけど。
「ちょっと! 自分で歩けるよ?」
「だーめ。私が心配で倒れちゃう」
ジタバタするコワを抱えてリビングへ行く。朝から心配させたんだから、これくらいは許してほしかった。長命の悪魔だけど、寿命が縮まったんだから。
ソファに優しくコワを降ろしてソファ用のテーブルに朝食を置く。
「美味しそう……いただきます。……とても美味しいわ。あなた料理できたのね」
「君の真似をしただけさ」
美味しい美味しいと、少しずつ食べてくれるコワ。
決して早くはないが、安定したペースで食べ進めるコワみて、やっと安心できた。だんだん顔色も良くなって、食べ終わるころにはいつものコワだった。それでも、不安の芽はそのままだ。
「ミヤ。私の両親の話はしたわね? もう一つ、大事な話があるの」
食器を片づける私を見ながらコワは言った。
「わかった。……片付け終わったらでいいかな?」
「もちろん」
片付けも終わり、二杯目のホットミルクを作りコワの前に置いた。
「ありがとう。あなたホットミルク作るの上手くなったわね」
「ミルクを温めて砂糖を君が好きな量だけ入れて混ぜるだけだろう。簡単だよ」
私はソファに身を沈めながら言った。私好みに作るのが上手って話よ、と彼女は笑った。君のために何回作ってきたと思っているんだ。どれだけ私が君を好きだと。
「それだけ私は君が好きってことだよ。それで、大事な話って……」
「まぁ、賢いあなたなら察しているかもしれないけど、ちょっと病気があるのよ。遺伝のね」
「そうか……それは、今朝のように、たまに倒れてしまうほど酷いものなの?」
「……私の母は、この病気を持っていたわ。きっと事故で死ななくても、そのうち病気で死んでいた」
「そんなことは言わないでくれ。コワ」
そんな悲しい顔で言わないでほしかった。
このときの私は、コワの全てを受け入れる覚悟はあったが、コワをを失う覚悟はまだなかった。
「そんな顔しないでミヤ」
「コワ……私はどんな顔をしている?」
「悲しそうな顔。私はここにいるわよ。何も、明日すぐに死んだりしないわ」
「……君の表情が移ったんだよ」
コワの頬に触れると、朝食を食べたからか、少し温かかった。その頬は健康そのものに見えた。でも倒れていたときの、血の気のない顔が忘れられなかった。
「あの薬は、街の薬屋で?」
「えぇ。薬の材料は花壇にある花よ。前に体調を崩したときにその花を紅茶に入れて飲んでみたら意外と効いたみたいで。それを薬屋さんに頼んだらその花を元に薬を作ってくれるようになったの」
「そうだったのか……いつも街に行ったときに薬屋に寄っていたのはそれだったんだね」
前に聞いたときは頭痛薬だと言われ、それで納得してしまっていた。
「私は、コワがしんどいのに、今日まで気づかなかったんだな……早く気づけなくてごめん」
「私が隠していたからね。あなたが気づかなかったのも無理ないわ。いつもあなたに気づかれないように朝早く薬を飲んでいたの」
「毎日?」
「毎日」
ずっと一緒にいて、散々好きだ好きだと言っていたのに。私はコワの何を見ていたのか。
「私は、ずっと一緒にいたのに、それに気づけなかったことが悔しい。コワが一番大事なのに、コワの一番大変なことに気づけなかった。コワのことがもっと知りたい。コワにもっと頼られる悪魔になりたい。私はコワの全てを愛し、受け入れ、向き合い、寄り添おう。それを、この世の全てのものに誓おう」
「ふふ。相変わらず熱烈ね」
「コワ……私は本気だよ」
「今更疑わないわ。ありがとうミヤ。愛しているわ」
コワは私にキスをして、この話は終わった。ずるいじゃないか。そんなことをされたら、何も言えなくなる。
悪魔にとって、人間の一生なんて瞬きをしている間に終わってしまうものだ。長くても短くても、悪魔からすれば大した差はない。それでも、コワの命がたとえ他の人間よりも短い命だったとしても、私はその一瞬を大切にしようと誓った。
それからしばらくして、私は以前にも増してコワと一緒にいるようになったし、コワは私に全てをさらけ出してくれるようになった。病気は悪くもならなかったが、良くもならなかった。
コワのお腹の膨らみが目立つようになったころ、いつ子供が生まれてもおかしくないからと、しばらく街で寝泊まりをすることになった。泊まる場所の手配や出産の手伝いはいつもお世話になっている薬屋がやってくれるとコワは言っていた。
そのときの私は人間を信用しすぎていた。コワは信用できる人間だった。信頼していた。でも、コワ以外の人間を信用するべきではなかった。薬屋にほとんどを任せることになったとき、私は私にできることは全てやると言った。何もできなくても、ずっとそばにいると。ただ、その薬屋に問題があった。コワが幼いころからの知り合いらしく、コワは薬屋を信用していた。私はあまり話したことはなかった。薬を受け取りに行くとき、私はいつも店の外で待っていた。店の中に入ると、薬屋は良い顔をしなかったからだ。どうやら薬屋は悪魔が苦手なようだった。そういう人間もいるだろうと、思っていた。
悪魔が苦手な薬屋は、出産のときは手伝うが、私には来ないでほしいとコワに話したらしい。コワは心底悩んでいた。私は、街では薬屋は医者のような立ち位置だったし、私がいない方が無事に産まれるならと、コワを送り出した。
それは間違いだった。送り出してから一週間後、コワは酷い顔をして、一人で帰ってきた。ただいま、とか細い声で言うコワを抱きしめながら、赤ちゃんは? と聞いた。コワは、わからない、と言って口を閉ざしてしまった。今すぐにでも薬屋のもとへ行きたかったが、コワを一人にはできなかった。いつかのように抱きかかえ、ソファにおろす。何も言わないコワを抱きしめ、頭を撫でる。しばらくして一言、ごめんねと言いながら眠ってしまった。額にキスをして、起こさないようにベッドに運ぶ。何があったのか。私の見ていないところで何が起こってしまったのか。こんなことになるなら意地でも着いてくべきだったと酷く後悔した。このまま起きなかったらどうしようかと思うくらい酷い顔色でコワは眠っていた。初めて目の前でコワが倒れていたときが頭に浮かぶ。コワの手を握る。いつもより冷たかったけど、まだ少しだけ温もりがあった。私は手を離すことができなかった。また握ったときにもっと冷たくなっていたら。そう思うと、手を離すことができなくなった。
コワが目覚めたのは次の日だった。
「手、ずっと握っていてくれたの?」
目が覚めたコワはそう言って笑った。笑ったけど、その顔は悲しみに満ちていた。
「コワ……」
「ミヤ。ごめんなさい……赤ちゃんと一緒に帰ってこれなくて」
コワは俯いた。何があったのか、まだ聞いていないけど、コワが謝ることは一つもないはずだ。
「コワ。……何があったの? 話せないなら、それでもいい。また赤ちゃんはできるよ。コワが悪いことなんて一つもないよ」
だから謝らないで、とコワを抱きしめる。
「ミヤ。どうか人間を嫌いならないで」
「なんのこと?」
頭の中に最悪が浮かんだ。一人で帰ってきたコワ。もしかして赤ちゃんは、私のことを、私との子を、悪魔の子をよく思わなかった薬屋に殺されてしまったんじゃないかと思った。
「私たちの赤ちゃんは生きてるわ」
「……じゃあ、人間を嫌いにならないでって……」
ならなぜ、コワは一人で帰ってきたんだ。
「私たちの子は一体どこへ……?」
「……薬屋が、どこかへ。どこかの家の養子にしたと。赤ちゃんを産んですぐは、私が動けないのをいいことに、勝手に。どうして……あの人は両親が死ぬ前から面倒を見てくれて、一人になったあとも、仲良く、して、くれてたのに……」
「そんな……」
今すぐ薬屋を問いただしてやりたかった。もう二度と、何もできないようにしてやりたかった。でも、それはコワは望んでいない。コワは、赤ちゃんを勝手に奪われた悲しみと、裏切られたショックで何も考えられなくなっていた。もしこのとき私がコワを置いて家を飛び出し、薬屋の元へ行ってしまったら。コワを一人にしてしまったら。コワは壊れてしまうかもしれないんじゃないかと思った。
「ねぇコワ。ここを離れよう。引っ越しするんだ。ここに何もかも置いてってさ。誰もいないところで暮らそう」
「……それがいいかもね。でも、しばらく、何もできそうにないわ」
「コワは一人じゃない。私がいる。だからコワが何もできないときは私がなんでもやるよ」
私はコワにキスをした。こんなことでコワの傷は癒えない。私の怒りも消えない。けれど、今の私にできることといったらこれくらいしかなかった。
新しい家で、新しい街で、また一から始めた。家の場所はまた街から遠いところだった。花壇を作って花や野菜を植えて、育てて。たまに散歩に出て、歩いたり、空を飛んだり。少しでも嫌な記憶がなくなればいいなと思った。新しい街には悪魔好きの人間もいて、コワとも私とも仲良くしてくれた。腕の良い医者もいて、コワの病気を気にしてくれていた。私は人を信用することが少し怖くなってしまったが、コワが「あの人はあの人。あの人だけが悪い人間というわけじゃないけど、あの人以外の人間も悪い人とは限らないわ」そう言うから、私も新しい街の人々に心を少しだけ開こうと思えた。悪くない暮らしだった。コワにも笑顔が戻ってきた。
問題はコワの病気がどんどん悪くなっていったことだ。引っ越してからは明るく振る舞おうとしていたが、心には傷が残ったままだった。それが病気の悪化に繋がったのかもしれない。散歩に行ってもすぐに息切れしてしまったり、薬を飲んでも倒れてしまうことが増えた。ベッドで一日を過ごすことも増えてきた。体調が良い日は外に出たがったから、そのときは私がコワを抱えて一緒にお出かけをした。
「コワ、おはよう」
その日はとても空が綺麗な日だった。雲ひとつない、コワを思わせる空。コワを抱えて日向ぼっこでもしようかな。
「おはよう。ミヤ」
「うん。おはよう」
目を覚ましたコワの額にキスを落とす。気持ちの良い朝だった。
「ミヤ、今日はいろんなことがしたいわ」
「君が望むならそうしよう。でも無理はしないでね」
「わかってるわ」
コワはたまに出かけたがったが、その日は特にいろんなところに行きたがった。街へ行って、いろんな人と話して、いろんな物を買った。家に帰ってきたのは日が落ちる少し前だった。私はコワの様子がおかしいことに気がついていた。出かけたいと言って外に出ても、昼過ぎにはそろそろ帰ろうと言うのに、その日は私が「そろそろ帰る?」と聞くばかりだった。移動するときは私が抱えてコワを運ぶようにしていたけど、ずっとそうしていたわけではない。コワはできるだけ自分の足で歩きたいと思っていたから、たまにおろして、長く歩いたら抱えて、の繰り返しだった。私としてはずっと抱えていたかったけど、コワの意思を優先することにした。それに、疲れたら素直に言ってくれるからそれを許していたのに。
コワの様子がおかしいことに気がついたところで、私にできることは、そばにいることくらいだ。コワは感じていたんだろう。今日が最後だと。
「コワ、ごめんね」
「どうしたのミヤ」
ベッドに横になりながら、コワは今日買ったピアスを嬉しそうに見ていた。
「私には君の病気を治す力はない。悪魔であることをこんなにも後悔したのは初めてだ」
怪我や病気を治す力は天使が持っているものだった。悪魔は反対に、怪我や病気を負わせる力が強かった。天使は嫌いだったけど、このときばかりは天使だったら良かったのに、と強く思った。
「私が好きになったのは悪魔のミヤよ」
「わかってる。それでも……」
「ミヤ、こっちへ」
ベッドに入った私をコワは抱きしめた。いや、抱きしめたのは私だったか。
コワは買ったピアスを私に差し出した。
「これは、あなたにと思って買ったの」
最初で最後の贈り物だった。ほのかに光る、ランタンのようなピアス。
「ありがとうコワ。大切にするよ」
「ミヤ、ありがとね」
「コワは何も気にしないで。さ、明日も散歩に行く? それとも家でゆっくりしようか。今日は疲れただろう?」
また明日をコワと迎えたかった。きっと明日も良い朝が来ると思いたかった。
「ミヤ、子供のこと、ごめんなさい。でも、私の夫になった人が、あなたのように優しい人で良かった」
「どうか気にしないで、私の愛しい人よ。私たちの子はきっとどこかで幸せに暮らしているよ」
「そうね……きっと。そうあってほしいわ」
このときまで私もコワも子供の話はしなかったけど、きっとコワはずっと気にしていたのだろう。コワは悪くないから、辛いだけなら、子供のことは何も考えないでほしかった。コワの傷は癒なかった。それはつまり、私の怒りも消えないということだ。
「あーあ。あなたを残していくのがとっても不安だわ。だってあなた、私のこと大好きじゃない。一人で大丈夫?」
「大丈夫だよ。生き方は君に教えてもらった」
大丈夫じゃないかもしれないけど、コワを心配させるわけにはいかないからね。
「ふふ。そう。なら、良かった。ところで、私は天国行けるのかしら? 昔に読んだ本だと、悪魔と結婚すると地獄に行くらしいわね。あなたのおかげで行くなら、地獄も悪い気はしないけど」
「……私が君を食べてしまったら、君は地獄に行くことになる。魂も、体も、全部ね。でも私は食べる気はないよ。君のことを本当に愛しているから、綺麗なままで、君は天国へ行くんだ。そこで何十年か過ごして、いつか私たちの子供が年老いた姿でやってくるのを待つんだ」
「もし私たちの子供が地獄に行ったらどうするのよ?」
「そのときはそのときだよ」
「はぁ、わかったわ。あなたがそう言うなら、天国に行ってあげる」
「……コワ。一つだけ、お願いしても?」
「どんなお願いかしら?」
「君の血を少しだけくれないか? 血だけなら、君は地獄に行かなくてすむから。少しでいいんだ」
私のお願いに、コワは少しびっくりしたようだった。こんなことを言ったのは最初で最後だったから。
「いいわよ。いくらでもどうぞ」
コワが眠った後でいただこうと思っていた私に、コワは首を差し出してきたので、少し驚いてしまったんだ。
「なんで君がノリノリなんだい。怖くないの? 君が眠ってからと、思っていたんだけれど……」
「怖くなんてないわ。それより、眠っている間に、の方が嫌だわ」
「ふふ。君らしいなぁ。それじゃあ、いただくよ」
彼女の負担になるかもしれないから、眠ってからにしようと思っていたのに。彼女の首に口を近づけ、なるべく痛くならないように歯を立てた。ほんの少しだけ彼女の血を飲んで、口を離す。彼女の負担になるかもしれないから、眠っからにしようと思っていたのに。
「はぁ……ミヤ少しだけでいいの? もっと持っていったっていいのよ」
「いや、これで十分だよ」
コワの血を飲んだ私は、体の形を変化させた。高かった背は縮み、金髪で短かった髪は伸びて、青色に。
「……びっくり。私みたいね」
「いやかな?」
「いいえ。どんなあなたも素敵だわ。髪の毛の色、気に入ったわ。似てるけど、私とは違う色」
「全く同じにはなれないんだけれど、君がそう言うなら悪くはないかな」
「本当に素敵。海のような色」
「悪魔は、人間の血を飲むと、その人間そっくりの姿になれるんだ。全く同じにはなれないけれど、君を忘れないために、君の姿を借りたかった」
「ふふ。悪魔らしいわね。眠る前に良いものを見れて良かったわ」
「……それは良かった」
「……そろそろ眠くなってきたわ」
「……私はここにいるよ。ずっといるから。安心して眠っていいよ」
「ミヤ。あなたに出会えて良かったわ。次に目が覚めたとき、またあなたに出会えますように」
「私も君と一緒にいられて良かった。次に君が目覚めたとき、私はきっとそばにいるよ」
最後にキスをして、コワは目を閉じた。ベッドの中で、コワの手をずっと握っていた。眠るコワの顔からだんだん表情がなくなって。手からは温もりがなくなって。日が昇って、また沈んでも、コワが起きることはなかった。
コワお墓を作って次にしたことは薬屋の元に行くことだった。確かめなければいけないことがあった。コワのためにも、私のためにも。
「久しぶり。覚えてる?」
「いらっしゃいま……コワ? じゃないね……もしかして」
「コワの旦那だよ」
「何をしにきた? ……殺しにでもきたのかい?」
嫌っていた悪魔を目の前に、薬屋は案外冷静そうだった。
「一つだけ聞きにきた。私たちの子供はどうした」
私の言葉に、薬屋は場所を変えようと言って、私を店の裏に連れ出した。
「養子に出したと、あの子には伝えたはずだ。それは君にも伝わっているだろう」
「信用できない」
「というか、なぜ今ごろそんなことを聞きに来たんだ。今更子供は返せないぞ」
「わかっているさ。ただ、本当に養子に出したのか確認しにきただけだ。安心しろ。殺す気はない。コワはきっとそれを望んでないから」
「……本当だ。コワに誓って言う」
「そう言って殺したわけじゃないんだな?」
「ふざけるな!」
薬屋は叫んだ。叫びたいのはこちらの方だった。目の前の相手に、コワは奪われたようなものなのだ。ただ、コワが望んでいないだろう。
「お前が! 悪魔ごときが人間と夫婦になんておかしいんだよ! 何年コワを見守ってきたと思ってる。地獄に行ったらどうする。コワの親に顔向けできない。子供だって、悪魔が父親なんてかわいそうだ。殺してやりたかった。でも半分はコワの血が流れてる。だから殺しはしなかった。その代わりに、悪魔の血が流れてることは伏せてう養子に出した」
私が父親だからいけなかったのか。悪魔だからいけなかったのか。
「お前らみたいで、嘘つきで、最低で、クズなモノ、いない方が良かったんだよ」
「……わかったもういい」
許せることじゃなかったが、子供を養子に出したこと、殺してはいないことを信じることにした。信じるしかなかった。
「コワのためにあなたを信じる。でも許しはしない」
「なんだ。やっぱり殺すのか? 悪魔は嘘つきだからな」
「殺しはしない。けど、私から一言、言わせてもらう」
怪訝な顔をした薬屋に向かって私は言った。
「薬屋に、不幸おおからんことを。それじゃ。私は帰るよ」
何か言いたげな薬屋を置いて私は立ち去った。きっとコワのことが気になったのだろう。私はコワが死んだことは言わなかった。結局、怒りは消えなかった。コワには少し申し訳ないと、罪悪感が湧いた。けれど、私はこうしないとどうにかなってしまいそうだった。いつかバチが当たるかもしれない。それでも良かった。結局、私は悪魔なわけだから。
コワのいない時間はゆっくりにも感じたし、とても早くも感じた。手入れができなかった花は枯れてしまった。コワが死んでから何百年か経って、近くに天使が引っ越してきた。私は天使というものが苦手だったが、その天使がやたら私にちょっかいをかけてくるものだから、次第に仲良くなっていった。退屈な日々を埋めてくれたので、それなりに感謝はしている。今は東の方でお菓子屋やっているらしい。たまに大量のお菓子が家に届く。
コワと二人で食べられたなら、とたまに考えてしまう。
コンコンコンコン。何かを叩く音にハッとする。随分と思いふけっていたようだ。音は家の扉からのようだ。誰かやってきたみたいだけど、こんなところに用があるのなんて森の中で迷ってしまった人くらいだ。昔はこの辺りにあった街も、長い歴史となりその姿はなくなってしまったからね。
さぁて、こんなところに迷い込んでしまったのは、どこの誰かな?
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