第34話 彼と彼女が2人で摘んだ赤い香辛料
この邸へ来た初日に、彼と一緒に採りに行くと約束した、赤い小さな香辛料。
秋になって、花が咲いたら一緒に探しに行く約束。
2人はその約束を、忘れていなかった。
「デルフィー、この小さな紫の花の雌しべが、あの香辛料なの。こんなちょっとしか採れないから、私だけの秘密なんだ。きっと、これから他のも咲いて来るはず。雌しべから花粉が出ちゃう前に採った方がいいから、毎日新しい花が咲かないか見に来ましょう」
「もちろんです。それにしても、その情報は、この国の植物に関する本には載っていなかったですよ。よくご存じですね」
「以前、西にある国から来た家庭教師が、こっそり教えてくれたの。だから、この国ではまだ、デルフィーと私だけの秘密の香辛料ね」
それを聞き、破顔して頷く彼。
アベリアが自分だけに教えてくれた秘密。
自分は、彼女にとって特別なんだと、無言で理解した。
紫色の小さな花の前。
2人でしゃがんで、パエーリャへ入れる香辛料を丁寧に摘んだ。
向かい合ってしゃがみこめば、互いの顔が近すぎた。
デルフィーは彼女の髪を撫で、そして、彼女の唇に口づけを落とした。
彼女はそれを素直に受け入れた。
彼は、大好きな彼女が夫の元へ戻る事を、悲しくもあり、受け入れるしかないと思っていた。
アベリアが王都へ経てば、自分が寂しくなるのは決まりきったこと。
デルフィーには、アベリアが侯爵夫人としての務めを果たしに行くのは、覆せない。
だからこそ、デルフィーはアベリアに意地悪をして困らせたかった。
自分の存在を伝える様に、深い深い、口づけに変えた。
デルフィーは意地悪をしたつもりだけど、それにも応えてくれる彼女。
アベリアは、夫を選ぶ決意をしていた。だから、デルフィーの口づけに戸惑うかと思ったけど、案外そうではなかった。
2人とも何も言わなくても、気持ちは今も同じだと、彼は思った。
聡明な彼女は、たとえ夫の前で破瓜を証明できなくても、己の考えにも及ばない方法で、上手くやるのかもしれない。きっとそうだと、自分の気持ちに言い聞かせたデルフィー。
アベリアが、これからも侯爵夫人でいてくれることに安堵する反面、主の妻である事が辛かった。
この日から2週間。毎朝、赤い香辛料を摘む、2人だけの秘密の時間を過ごした。
この幸せな時間を心から楽しんでいたアベリア。
だけど、彼は気づいていなかった。
嬉しい事がある度に彼女が作っていたパエーリャ。
彼が眩しいと感じたその料理は、2人が熱を交わしたあの日以降、食卓に並ぶことは無かったことを。
その事に、デルフィ―が気づいていれば、未来は変わっていたかもしれない。
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