第45話 のあさんと一緒

 オレはのあさんの柔らかい感触が残る左の頬を手で押さえ、照れ隠しのために教科書を顔の前に構えた。彼女は少し申し訳なさそうな様子で謝罪するが、オレは別に怒っているわけじゃない。

 むしろ、のあさんの甘い吐息と唇の辺りを優しく這う潤んだ舌を見て、身体が火照っていた。


「英二くん、後で図書館に行こっ」


 のあさんはさり気無く約束を取り付けた後、笑顔を見せて教室を出ていく。オレはそんな彼女の後ろ姿を眺めながら、授業終わりの時間は頭を暖かくしていた。

 放課後、流れるままに彼女が誘ってくれた図書室に向かう。

 ヤンデレとは二人きりになるのは危険だが、のあさんは例外で、時々二人だけの時間を作った方が病み具合を緩和しやすくなる。のあさんの情緒の不安性は折り紙付きであり、放っておくと病みまくりそうで怖い。

 彼女は実際、オレと二人きりになった時は喜びに溢れ、心のバケツが刹那に空になり、その反動で狂気という水が溢れる。それをオレは定期的に汲み取り、溜めることで彼女の精神状態を保っている。

 そんな彼女と一緒に居るだけで幸せになれるし、一緒に居なければきっと不幸になってしまう。だから、オレは彼女との時間を大切にしている。彼女という風船を割らないよう、慎重に接していく。


「英二くんの分からないところ、全部教えるね」


 彼女と二人で廊下を歩いていると、しきりに視線が集まってくる。普段空気でしかないオレがこうやって目立つなんて、あまりに場違いであり、投げ付けられる視線の槍の渦中にいるなんて恥ずかしくて死にそうになる。

 しかし、隣にいるのは校内一の美少女であり、誰もが羨むほどの美形だ。こんな美女と歩いていれば嫌でも目立ってしまうだろう。


(みんな、わたしたちのこと見てる。ふふっ、いい気分。わたしのことを何も分かってない奴らとわたしたち、身分の差がはっきりと区別できて楽しいや)


 のあさんは過去のことでオレ以外の世界中の人間を見下している。てっきり普通の人間みたいになりたいみたいな、この手の人にありがちな優しい願望を抱いていると思いきや、オレ以外を見下すのは優越感に浸れるため好きらしい。自分に与えられたギフトに対して、彼女は歪んだ愛を育んでいた。


「あの人、モデルみたいな美人よね」

「本当だ。綺麗……」

「声かけてみよっかな」

「えー、無理だよ。見た目からして絶対高嶺の花じゃん」

「じゃあさ、隣の冴えない男子に聞いてみる?」

「え? なんで?」

「なんか、そういう感じしない?」

「うわぁ、ないない。あれのあさんのおこぼれに預かってるだけだって。田中英二、あいつ最近のあさんに優しくされて天狗になってるんだよ。ちょっと前にも調子乗ったこと口走ってたし」

「マジで!? キモすぎでしょ」

「のあさんも可哀想に……。あんな男に好かれちゃって……」


 オレたちは周囲の雑音を聞き流しながら図書室に向かっていた。その間、オレはずっと周囲からの軽蔑の眼差しを浴びている。そんな重たく、水中に長時間放り込まれたような息苦しさを味わっているオレに、彼女は助け舟を出してきた。


「英二くんを悪く言うの止めてくれないかな」


 彼女の凍てつく一言に、周りは一瞬にして静まり返る。オレも助けてもらったはずなのに、余波を浴びてしまうとただ黙って俯いているだけだった。


「だって、そうでしょ。英二くんは誰よりも優しくて、気配りができて、勉強を教えてくれて、困っている時には必ず駆けつけてくれる。そんな人を悪く言わないで欲しいな」

(英二くんのことを何も分かってない蛆虫どもが、偉そうに)


 のあさんは表でこそ、オレの悪口を言っていた女子たちを穏便に諭そうとしているが、裏では蛆虫と、汚い言葉を平気で使い、徹底的に敵と認識した彼女たちを貶めている。


「の、のあさんが言うなら……」

「ごめんなさい……」


 のあさんに諭された女子たちは自分たちの非を綺麗なまでにあっさりと認め、謝罪する。


(英二くんの優しさが分からないなんて、やっぱりこいつらバカだ)


 彼女は心の中で毒を吐きながらも、オレの手を握ってきた。その手は小さくて柔らかくて、温かくて、まるでオレにだけ優しい、彼女の内面を表しているようだ。

 オレは彼女の手を握り返し、のあさんに自分の好意をアピールする。それだけでのあさんはオレのことを信頼してくれ、嬉しそうな笑みを浮かべてくれた。

 図書室に着くと、のあさんは早速オレの勉強を見てくれていた。

 彼女は成績優秀であり、信頼も厚い、絵に描いたような優等生だ。彼女の教え方は分かりやすく、馬鹿なオレでも教わったことをスポンジのように吸収していく。


「ここの計算式はこうやって解くといいよ。この解き方だと、次の式が導き出せるから、後は応用問題と同じ要領で解けばいいよ」

「なるほど」

「英二くんはやればできる良い子だね! みんな何故か君のことを侮っているけど、本当は凄く賢くて優しい男の子なんだよ!」

「ありがとう。のあさんの教え方が上手だからだよ」

「えへへっ、嬉しい。英二くんに褒められると、わたし、幸せになっちゃう」


 のあさんは頬を赤らめて、満面の笑みでオレのことを見つめてくる。彼女の笑顔を見ると、オレまで幸せな気分になれる。

 のあさんの病的なまでの愛の深さには驚かされるが、彼女がこうなったのは、全てオレの責任だ。

 オレがある意味、彼女をここまで追い込んでしまったのだ。

 彼女が幼い頃、家族に虐待を受けていて病んだのを、無理にオレが腐った糸で繋ぎ止めているのが今の状態と言えるだろう。

 のあさんはオレの隣に座り、じっくりと一字一句を見逃さないようにノートを読んでは、オレの間違いを優しく丁寧に指摘し、解説してくれる。


「さすが英二くん、ちゃんと理解してる。じゃあ、次はこの問題をやってみようか」 


 彼女はそう言って、オレに数学の問題集を手渡してきた。


「分かった」


 オレはのあさんに言われた通りに問題を解いていくが、なかなか思うように進まない。


「うん、合ってる。頑張ってるね。よしよし」


 のあさんはオレの横に座って頭を撫でてくれる。


「じゃあ、次はこの公式を使って解いてみて」

「分かった」


 オレは彼女に指示された通りの公式を使い、先程と同じように問題を解いていった。


「正解。英二くんは本当に頭が良いんだから」

「そんなことないって」

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