第5話 杏里
「お、おい、どうかしたのか?」
「うっさいばか!」
(なんとか誤魔化さなければなりません! お兄様に変態だと思われ、嫌われてしまったらあたしのこれまで積み上げてきたことが全て水泡に帰してしまいます)
杏里は内外両面で取り乱しており、手足や表情を忙しなく動かしている。こんな慌てようは後にも先にもかなり珍しいものになるだろう。
「あんたあたしがどうにかしたとか思ってるわけ? そんなわけないじゃん。兄貴と違ってあたしに隙なんて無いの。王子様気取りで安易に付け入ろうとしたらぶん殴るから」
他人の心の声が聞こえなかったら確実に心が折れるようなことを言ってくる杏里。当然本音が聞こえるオレにはそんな即興で思い付いたに過ぎない誤魔化しは通じず、妹にはそれがバレないように見える範囲ではあたふたしながらも、内面では穏やかな流水と重なるであろう不動の精神を保っていた。
(お兄様の前では動揺している姿は見せられない。常にクールで大人っぽく振る舞わないと)
「そうか、悪かった」
「ふんっ、わかればいいのよ」
(うーん、これは言い過ぎたかもしれません。軽はずみな行動でボロを出してお兄様に疑念を抱かせてしまったことから、少し反省が必要ですね。しかしながら学んだこともあります。転んだ達磨はただでは起きませんよ)
何やら心の中で意気込む彼女はトビウオのようにいきなり頭を天へ突き出すと、少し思案した後オレの前に仁王立ちをする。
「えっと……どうした」
「兄貴、流石にさっきは言い過ぎた。忘れてくれると嬉しい」
(秘技、ツンツンしまくる嫌な妹が実はわずかなデレを持っていたの術! 女子への耐性に乏しいお兄様には効果的なはずです!)
妹はオレを行き過ぎた罵倒で傷付けたと思っており、自分の可愛らしい容姿を余すところ無く利用した謝罪でオレのご機嫌取りに励んでいる。
多分妹のことを誤解していたこれまでだったら、こんな多少の変化なんて怒りで冷静さを欠いていたであろうオレには届かなかったから無駄に終わっていたに違いない。
無論、今のオレは妹の思考が読めるため、彼女の桃色に染まった意図をクリームパンでいう中心部の濃密なところまで把握できる。
「ふん、あんたなんかに頭を下げるのは癪だわ」
(どうかこの哀れな妹をお許しください)
杏里は腕を組み、頬を膨らませながらそっぽを向いている。オレを嫌っている演出だろうが、おそらくはこっちを直視することさえ躊躇ってしまう程、オレが好き過ぎて仕方がないのだ。
杏里の本当の気持ちを知っているからこそ、彼女がどんなに無理をして好意を隠そうとしているのか手に取るように分かる。
(本当は大好きなお兄様と一緒にご飯を食べられて幸せ。お兄様の声を聞いて、お兄様の匂いを感じて、お兄様に触って、舐めて、食べて……あぁ、あたしはもう死んでもいい。でも、できればお兄様と一つになりたい。でも、でも! 今は我慢。お兄様の心が完全にあたしのものになるまでは、耐え忍ぶ時。お兄様があたしを愛してくれる日が来るまでは……ぐふっ)
「お、おい、鼻血出てんぞ」
「あ、暑いからかしら。頭に血が上ったのね」
(はわわわ、妄想してたら鼻血が出てしまいました。このままではお兄様に変な女だと思われてしまうかも。とりあえず、ティッシュ、ティッシュ……)
杏里は胸ポケットに入れてあったティッシュで急いで鼻を押さえ、止血に努める。
しかし、興奮しすぎたのか中々出血は止まらず、慌てふためく彼女はハンカチを取り出すこともままならず、ついには服の袖で鼻を強く押さえつける始末である。
「大丈夫か?」
「だ、大丈夫だし! 兄貴は心配しすぎなの!」
手段を選ばない試行錯誤の末、ようやく止血に成功したものの、代償は大きかったと言わざるを得ない。杏里が後先考えずに使った裾は血で汚れ、彼女自身、安易な考えで実行して至った結末には納得していない様子であった。
「あ、やっちゃった」
予測し得なかったアクシデントに焦っていた彼女はようやく我に返ると、純白であったはずが、鮮血に染まり赤黒く爛れたセーラー服に驚き、自分の失態を自覚して表情を引き攣らせていた。
「どうしよ……」
「これ下手したらシミになるな」
「帰ったら即洗うわ」
(お兄様の前で恥を晒してしまいました。もう、杏里のばかばか)
オレの前では決して見せない可愛らしい態度を、彼女は本来誰の目にも留まることの無い心の声ではありのまま引き出している。
オレは可哀想な杏里を見兼ねて、あたふたして困っている彼女を落ち着かせようと頭を撫でる。今の表向き険悪な関係では想像もできないが、昔、裏表の無かった妹はこれをすると顔を蕩けさせ、喜んでいた。
高校生になった杏里は思春期からか、昔の甘えん坊な自分をひた隠しにしているに過ぎない。どう考えても思春期で済まない部分は多いが、この甘ったるい空気感に陶酔していたい今は、そこは考えないことにする。
杏里の髪質はサラリとしていて、指通りがよく、いつまでも触っていたくなる。少し癖毛気味だが、オレ的にはそれもまた可愛いと思う。
「ちょっと、何すんのよ」
(あぁ、やっぱりお兄様に頭を撫でられると安心する。もっとして欲しいです。はぁ……この湧き上がる気持ちを他の誰にも教えたくない。お兄様が他の女にこうするところを見たくもない、させたくもない。誰とも知らない不特定多数に向けた憎しみの感情が止まりません。えへへ、お兄様が優し過ぎるせいで、あたしはこんなにもおかしくなってしまいました。あたしをこうしてしまった責任、取ってくださいね)
「お、お前が落ち着きが無いからだろ? 鼻血出したんだから大人しくしてなさい」
杏里はうつむいたままオレに寄り掛かると、ギロっとオレを睨み付けながら憎まれ口を織り交ぜつつもオレの提案を承諾する。その時の彼女は頬を若干赤く染め、キツイ言い方も軟化していた。
「ふん、ちょっとくらくらするし、兄貴の言う通りにしといてあげる!」
(きゃーっ! お兄様の肩を借りられて、それだけで杏里昇天してしまいそうです! )
素直じゃないけど、本当は優しい妹のことが大好きだと気付いたオレは、その小さな体を抱き締めてやりたい衝動に駆られながらも、それを必死に抑え込む。
もし、そんなことをすれば杏里はきっと喜び過ぎて気絶してしまうだろう。
起き上がった後の妹がオレの好意に気付いて病んだ本性を出しても怖いし、ここはこっちも杏里に倣って必死に自我を押さえつけ、冷静を装うしかない。
「ほら、もうすぐ授業が始まるぞ」
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