1:血の色の刃
***
御魂遷しの儀は戸隠でも聞いた覚えがない。「秘匿儀式だ」と伊勢宮は告げ、わたしたちを白装束に着替えさせるよう命じた。夜も更けるが、おかげで灯された行燈の耀はこれ以上もない恐ろしさの役を務め、誘われた場所には、祭壇が出来ていた。
ともに白装束に着替えたわたしたちは、同時に息を呑んだと思う。その祭壇は、真新しいが、どうみても、海底の磐境にあったものと酷似していたからだ。高い祭壇は三つに分かれて置かれていた。三角形の距離感も既視感を憶える。
それぞれに見張りの禰宜(ねぎ)が三名立っている事実だけが違った。中央には、布をかぶせられた八咫鏡が置かれ、その右には、小さな注連縄を撒き散らした皿に玉串奉奠が、左には立派な剣台と同じく榊が置いてある。
「剣璽と言って、今までの御代交代は、複製品で行ってきたが、儀式については代々受け継いできたんだ。霧生紅葉、翡翠を皿へ。戸隠紗冥、剣を刀掛けへ」
「はい」ひたひたと裸足で歩く音が響く。紅葉が麻紐を外し、皿に置き、わたしも剣を刀掛けに戻した。最後に、伊勢宮と禰宜が数名で、八咫鏡の掛け布をはがす。
現れた八咫鏡は鏡とはとても思えない程、罅やくすみ、銅板の驚強さを醸し出していた。
「高天原の八百万の神々の手で、天の安河にて作られた一品だったそうだよ。川上の堅石(かたしは)を金敷にして、金山の鉄を用いて。酷い有様で、鏡の用途は失われているが」
伊勢宮が戸隠に持ってきた、複製品の類ではない。
「全ての世界の痛みを、教える役割を担っているんだ」
その姿を見た瞬間、紅葉が発狂の声を上げた。狂ったような声の中で、伊勢宮は祝詞を唱え始める。「紅葉!」頭を抱えた紅葉はそれでも、耐えていた。
「緒戦は、霧生紅葉か。――魂呼らいを、御魂遷しの儀を開始する。巫女の汝らには見えるだろうか、では、始めよう」
気づけば、伊勢宮は、最後の剣璽、剣の祭壇に移動していた。禰宜たちが剣を渡すと、難なく鞘から剣を引き抜き、神職に渡した。大きな刃にわたしの姿が映る。それは不思議な感覚だった。刀の刃を通し、わたしはわたしを見詰めていた。ふと気づくと、小さな揺れが、伊勢に襲い掛かっている。今度は、わたしだ。
「紅葉、わたし、震えている?」
「うん……」
目を宙に向けて、わたしは紅葉に語り掛けた。世界が、空気が、全部がわたしの肌をこすり、鋭い刃先で皮膚を削るような、そんな感覚は痛覚としてわたしに伝わる。空気が撓むと思った瞬間、わたしは世界を引きずり込んだ。
怒涛の如く還って来る記憶の中に、紅葉がいた。わたしは紅葉を追いつめて、階段に足を掛ける。怯えた紅葉を引きずり出して、剣で首を――。
京都の空は、東よりも、眩い瞬間があること、血の付いた剣を自らの足で血を落とし、天竜川で洗浄したこと……剣は壇ノ浦に沈み、ゆっくりと戸隠にたどり着いたのは、龍神の悪戯だったのだろうか。
――河伯たちが見える。
(わたしを拾わないで。二度と、出さないで)わたしはまた、紅葉の殺害に戻る。紅葉の首は、斬られた瞬間、空を飛び、遠くの石に齧りついた。
愛おしさを殺める手は真っ赤に染まっていた。
突如、世界に巨大な鏡面が現れて、大きな音を立てて、鏡の破片が飛び散った。美しくて、物悲しい。世界の終りのようなきらめきが、わたしの廻りに降り積もる。
『どうして、わたしは、出会う度に、きみを――』
ならば、この命はもう、剣の中に封じよう。いつか、きみと、幸せが赦される時までも。
――紗冥ちゃんは、出会う度、わたしをころすの。
――今度は殺されないだろうかと、いつも霧生紅葉は疑い、震えて生きているんだ。
――紅葉を、狩れ。紅葉狩りだ――
――鬼女紅葉を暗殺せよ――
――紗冥ちゃん、紅葉はいつでも、紗冥ちゃんしか欲しくないよ――……
「あ・ああぁああぁあああぁぁああぁぁぁあぁあああああああああ」
頭が痛い! 狂ったような記憶と過去に、胸が引き裂かれる! 世界が歪んで集約されて、念の力で破壊される。
耐えて来た怒りの衝動と、焦燥、それに悲哀が入り混じった声は、空気を震わせた。その鎌鼬は鋭くわたしの記憶を揺さぶり始めた。一気に還って来た記憶に、わたしの脳は、人の限界を超える勢いで反応する。一瞬で消える数々の過去は現在から遡り、砂に還った。
気づけば、わたしは滂沱の涙を流していた。何かが、語り掛ける。それはとても伊勢宮の声にも、自分の声にも似ていた。もう、いいじゃないか。負けても。――もう、還ってもいいじゃないか、散々苦しんだんだ、もう、許されてもいいじゃないか……と。
還りたい、穏やかだった、どこかへ。本来の、姿に戻りたい。
高貴な椅子に座りながらも、その時のわたしも願っていた。そもそもの三種の神器は……たったひとりの寵愛する姫のために、作られたものだと云ふ――
なのに、その剣で、わたしは愛する姫を刺し殺す。憎しみに駆られるままに。そうしていつも魂を自ら切って来た。
「わかった……わたしが、紅葉を狩れと言ったんだ……ごめん、あんたを泣かせ続けて」
紅葉をもう一度抱きしめた。どうして、こんなに愛らしい子に、わたしは殺意を向けねばならないのだろう。全てを憎み、恨み慣れた魂など、捨ててしまいたい。でも、そうしたら。
――紅葉は永遠に、わたしを探して彷徨うだろうから――……
「これ以上、ひとりぼっちにはさせない」
それは小さく確かな、わたしの覚醒だった。
――そうだ、わたしは、この子を独りにはさせてはいけない。たったひとり。ただ、わたしに逢うことだけを目指し、自我を保っている強さに憧れていた。
だから、言えるだろう。愛してるが故に、歪んでしまった罪を認めるから。
だから、神様。
紅葉の頬を包み込んだ。ここが、わたしの終着点だと言ってもいい。
「ごめん、紅葉、ごめん……あんたをずっと、愛してるんだ、あたしも……気が無くなるほど前から」
「さくら、ちゃ……っ……」
抱き着いた紅葉の両目からは涙が溢れた。怒涛の勢いでの涙は頬を伝わり、嗚咽になった。
まるでここまでの歴史の次元に響き渡るような嗚咽だった。誰もがそらを見上げ、わたしたちを慮っているであろう。そんな予感もあった。
紅葉は嗚咽を響かせ終えると、静かに目をつぶり、嬉し涙をただ、流していた。長い苦しみが終わるというような言葉も発していたような気がするが、よく憶えてはいない。
「戸隠紗冥」気づけば、伊勢宮が剣を手にやって来ていた。鈍い色の剣と鞘に、わたしはごくりと唾を飲み込む。
「さあ、抜刀を。きみの魂は、この剣の中に在った。何者かが、おまえの神魂を神璽に封じ込めたんだ。刀は、魂だ。魂の器で、剣には神魂が宿り、霧生紅葉の勾玉には、想いが宿り、鏡には、過去が封じられていた。とてつもない恨みと、輪廻を憎む力が縛り付けていたんだ」
「でも、その剣は」
「もう大丈夫だ。きっと、抜ける。本来の貴方の魂は還っただろう」
わたしはおそるおそる剣の柄に手を掛けた。
――紅葉を狩れと言ったのは、わたしだった。過去に、紅葉を殺した剣。わたしは鞘を持ち、柄を掴んで水平に構えた。ゆっくりと柄を鞘から離すように引き抜いて行く。剣は、鈍色をしていた。黒くこびりついたまま、呪詛のように絡みついている。
「い、やだ……」いやだ、信じたくない。
“紅葉狩りだ!”残酷な神話の男の声がする。
『わたしたち、結婚するんだよね? 嘘つき』
脳のもう一つの目の奥がカッ、と開くと言えばよいだろうか。紅葉狩りの声に、紅葉の言葉が立ち向かっている。
振り切らなければ。魂は、わたしのものだ。わたしが、自分で手を伸ばして!
――取り返す!
「う、ああああああああああああああ」剣を引き抜くと、血の色の刃に、かつての紅葉が視えた。血は、永遠にその人を血色に映す作用がある。網膜に、焼き付いた。
(多分……何か、特別な想いがあったのだろう、それは続いていた何かがそうさせたのか)
史実では、何も記されなかった「鬼女紅葉」と「平維茂」の巡り、古代の「鬼女紅葉」と「神武天皇」が重なり、その先は私たちの魂に問うしかない。
“いつか、わたしたちが元の姿に戻れることを信じよう。二人で、国を創ろう――”
憎悪と、愛憎は似ている。愛と憎しみはいつしか神と鬼のように、相克を起こした。捻じ曲げるは、簡単なのかも知れない。誰かが、わたしたちの愛を捻じ曲げ、恨みと輪廻をめちゃくちゃにしたんだ――。
「紗冥ちゃん!」紅葉の泣き声に、わたしは何も言えず、そのまま白い世界に、とうとう堕ちた。「頑張ったのね、えらいわ」面を外した熊野の声が聞こえた気がした。
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