ガールズ・カルテット!+俺

岩井喬

第1話【第一章】

【第一章】


 ずどどどどどどど……。

 という凄まじい轟音を立てて、一人の女子高生が爆走していた。廊下に散らばった生徒たちを気迫で押し退け、階段を上り、目的地へと最短距離で向かっていく。


 問題は、彼女の右手が俺の左手をがっちりホールドしている、ということだった。


「うわわわわわわわっ!」

「皆の者、引け引けぇい! 霞坂高校合唱部、新入部員のお通りでぇい!」

「ちょ、ちょっと! 俺をどこに連れてくんですか!?」

「ま、そんな細けえ話は後だ! 集合場所に着いたら、部長が教えてくれっから! たぶん!」


 たぶん、ってどういうことだよ。

 とにかく、俺を引っ張るこの先輩を止めることは諦めた方がいいらしい。


 息を切らすこともなく、先輩は三階の空き教室の扉を勢いよく引き開けた。


「たのもぉーーーっ!」

「だはっ、はあ、はあ、はあ……」


 俺はどうにか呼吸を整え、教室内を覗き込む。そこには、さらに二人の女子の先輩がいた。


「あら、朔実さん! 早速一人連れてきてくれて……って男の子!?」

「どうっすか、部長! 大物ですぜ!」


 人を鮪や鰹のように言わないでもらいたい。


 部長と呼ばれた先輩の隣でぐったりしていたもう一人の先輩も、のっそりと顔だけ上げて俺を見た。


「あー、そうかあ。今年からウチの高校も共学になったんだよねー」

「ちょっと美幸先輩! 先輩も喜んだらどうっすか? 待望の新人っすよ? 野郎っすよ? これで混声合唱もできるってもんじゃないっすか!」

「そだねー。あ、少年くん、飴ちゃん食べる?」

「は、はあ」


 俺は餌付けされるミニチュアダックスフンドのごとく、のそのそと教室に歩み入った。

 事は五分ほど前にさかのぼる。


         ※


「雨、か」


 俺、春山茂樹は、県立霞坂高等学校の一階で、ざあざあと降りしきる春雨を眺めていた。俺と同じように、多くの新入生が濃い雨雲を見上げている。

 窓を打つ雨粒の勢いは衰えを知らず、皆の歩みを停滞させていた。


 携帯で迎えを頼む者、友達の傘に入れてもらう者、バスの運行表を確認する者。

 いろいろではあるが、入学式の翌日からこんな雨に見舞われるいわれはないだろう。雨男が実在するわけじゃあるまいし。


「いやー、降るねえ。ひどい雨だ」


 俺の隣にやってきたのは、同じく新入生の夏海涼介だった。眼鏡の長身でインテリ系に見えるし、事実頭もキレるのだが、実際は中学時代からの生粋のサッカー部員である。

 今日の部活動紹介(という名の新入部員勧誘合戦)でも、既にステージに上がって巧みな足捌きを披露していた。自分自身も新入生だというのに、ご苦労なことだ。


「やっぱり涼介は高校でもサッカー一筋なんだね」

「まあね。今しかできないことを、たくさんやっておきたくてさ」


 きっとモテるんだろうなあ、彼は。ルックスの良さもあるし、一方で欠点らしい欠点がない。明日の彼の下駄箱は、早くも恋愛相談窓口ポストと化しているかもしれない。


 俺は大きく溜息をついた。


「どうしたんだい、茂樹? まだ昨日のこと引き摺ってるの?」

「まあね。こうして話せるのも、涼介くらいのもんだからさ」


 昨日の入学式後のホームルーム。案の定、いや、悪い予感が的中したというべきか、自己紹介大会が催された。


 皆、友達作りに必死だった。

 無難に名前と出身中学校だけを述べる者。やりたい部活などを一言付け加える者。あからさまにオタクっぷりを露呈してしまっている者。いろんな連中がいた。


 いや、『連中』というのは失礼か。

 ここ、霞坂高校は、今年から共学になったばかり。当然女子の割合の方が圧倒的に高い。『連中』なんて言葉は、もっとオツムの弱い一部の男子たちに向かって使う言葉だ。


 そんな、圧倒的女子多数の環境に喜び勇んで踏み入るアホもいるのかもしれない。

 その一方で俺はといえば、早速深い後悔の念に没していた。


 俺には致命的なコンプレックスがある。とにかく、声が低いのだ。

 小柄でありながら声が低いというのは、身体の構造としては珍しい。それはそうだ、低い声ほど胸部で響きを増幅させる必要性があるのだから。だからこそ、高身長の人間の方が低音を出しやすい。


 そのはずだったのに、やっぱり俺の声はかなり低い部類だった。


 昨日のホームルームでは、俺は一言も喋らなかった。気分が悪いと担任教諭に耳打ちして、途中から教室を抜け出したのだ。


 これが悪いことだとは自覚している。仮病を使ったことではなく、こうして自分のコンプレックスから逃げ続けるということが。

 しかし、俺はドン引きされるのが怖いのだ。事実、中学時代の自己紹介大会では、あまりの声の低さに全員の視線を集めてしまうという現象に陥った。


 正直、怖かった。

 え? アイツどうしてあんなに声が低いの? ――そんなふうに思われることが。意外だと考えられることが。挙句、異物だと認識されることが。


 そんな俺に対して、涼介は善良少年の鑑みたいなやつだった。誰に対しても優しく親切で、文武両道を達成している。皆から好かれる、ザ・人気者。

 

 もし彼が小学校時代からの幼馴染でなかったら、俺は酷く彼を妬んでいたかもしれない。


「あの頃からなんだよな、声が低いっていじられだして……」

「気にするなよ、茂樹。世の中いろんな人がいる。この高校だって、新しいスタートを切ったばかりなんだ。お互い助け合っていこうぜ」

「ああ、ごめん涼介、気を遣わせたね」

「水臭いこと言うなよ。じゃ、僕は勧誘活動の手伝いあるから、お先」

「分かった。また明日」


 涼介は颯爽と廊下を闊歩し、体育館側の渡り廊下へと消えた。


「はあ……」


 俺が再び溜息をついた、その時だった。


「あ、あのっ!」

「ん?」


 俺はゆっくりと首を巡らせた。そこには、俺と同じく新入生のバッジを付けた女子生徒が立っていた。軽く茶色味がかった肩までの髪に、セーラー服を着用している。いや、セーラー服に着られている、と言った方が正しいか。


 表情は窺えない。何故なら彼女は俯いて、飴玉のたくさん入ったボトルを俺に差し出していたからだ。


 この期に及んで、どうやら声をかけられたのは俺らしい、という認識がようやく頭の中に構築された。

 かと言って、今の状況で声を発する気にはなれない。繰り返すようだが、俺の地声の低さは悩みの種なのだ。易々と、どうしたんですか? などと尋ねられるわけがない。


 しかし、ここで予想外の出来事があった。


「あの、よかったら飴玉、どうぞ……」


 そう言いながら、女子生徒はゆっくり顔を上げた。

 まん丸の瞳に、小さめの鼻と口。緊張からか、微かに頬が火照っている。


 正直に言う。俺の好みどストライクだった。

 しかし、こんな出会いがあっていいものだろうか。目の前の女子を可愛らしいと思ってしまう自分がいることに、俺は我ながら混乱した。


 しかしなあ。このままお互い見つめ合って黙っている、というのに適した環境ではないだろう、ここは。周囲の目もあるし。

 そもそも、この女子生徒が何者なのかが分からない。飴を頂戴したら、この気まずさも晴れるだろうか?

 いや、この飴を貰うことで、何か厄介事に巻き込まれやしないだろうか?


 つい、と女子生徒が目を上げた。どきり、と肋骨を押し上げる俺の心臓。一目惚れなんてもの、信じてはいなかった。しかしもしそれが実在するとしたら、まさにこの瞬間――。


「おっ! よくやった、愛川!」

「あっ、廣坂先輩!」


 この女子生徒――愛川、と呼ばれていたな――の下に、もう一人の女子生徒が現れた。

 バッジの色からして二年生。

 先輩は愛川を押し退けるようにして、俺の正面に陣取った。


「なあそこの君!」

「……」

「君だよ君! えーっと、春山くんとやら!」

「は、はい」


 名札を読まれたらしい。

 できるだけ小声で応じる俺に、廣坂先輩は短めのツインテールを首ごと、ぐるん! と回しながらこう言った。


「合唱って興味ある? あるよね? ないはずないよね! 男の子だもんね~!」


 え、ちょっと何言ってるんすか。


「あたいと愛川、ああ、呼ぶときは瑠衣ちゃん、とかでいいけど、合唱やってんだ! 君も入りたまえ、我らが霞坂高校合唱部に!」

「は? え?」


 あまりの急展開に、流石の俺も地声を隠し切れない。


「待望の男子部員! みーんな喜ぶってもんだ! ああ、もちろん君にも薔薇色の高校生活を約束するよ、春山くん!」


 すると目にもとまらぬ速さで、廣坂先輩は俺の手を握り締めた。


「さあ、善は急げだ! レッツ・シング! 少年よ大志を抱け! 合唱部員は伊達じゃないッ!」


 混迷の度を高める状況に抗しきれず、俺はそのまま廣坂先輩に連行されていった。

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