物忘れ
くろかわ
物忘れ
図書館の近くにあったはずの店が、いつの間にか別のものに変わっていた。
行きつけの店というわけでは無かった。二つ隣にあるラーメン屋とどちらに行こうか迷った挙句、どちらにも入らずにコンビニで済ませた思い出がある。
そういえばここには何の店があったかな、と自身の朧げな記憶を後のように手繰るも、肝心の「どんな店があったか」という情報はすぽんと抜け落ちている。
私も薄情なものだ。
シフトの急な変更で降って湧いた休みには、何もすることがない。外は暑いがよく晴れており、湿気も夏にしては酷くない。家に篭りきりは逆に気分が沈むだろう。ここに至ってようやく、そうだ外食でもしよう、という気分になった。
外食するなら、それだけでなく何か別の行き先を決めて、その近場にある良さそうな店にふらっと入ろう。
そういうわけで、私はさっさとシャワーを浴び、履き慣れたスニーカーに足を詰め込んで出かけることにする。
自転車は直射日光にさらされるから今回は留守番係に徹してもらう。
車はもっていない。何故か免許だけはあるが、八年連続ゴールド免許の完全なペーパードライバーだ。自転車とは別の意味で危険なので、こちらもアウト。そもそも借りるのも面倒くさい。
徒歩でのんびり散歩する算段も思案したが、日差しはあるのに帽子は家のハットラックに引っかかっており、現在私の頭の上にはない。却下だ。
つまり、最終手段……というか実質一択だった電車に決めた。
と、言うわけで、勤務地と自宅の間にある何かで暇を潰すこととあいなったが、ここで困ったことに気がついた。気になっていた映画もこの前の休日に一気見してしまった。外食だけさっさと済ませてドラマを見る手も脳裏をよぎったがこれもだめだ。最新話の配信は明後日だから、前に見た映像を眺める羽目になる。残る娯楽はカラオケか読書だが、一人カラオケに手を出せるほどレパートリーもない。私が好むのはもっぱらBGMか、さもなくば複雑化し過ぎたパート分けで人間には謳えないようなシロモノの二択だ。周りに合わせるために覚えた流行りの楽曲を歌ったところで面白くも何ともない。
結論として、図書館に向かうことになった。消去法である。
ガラ空きの電車に乗ること十数分、第一目的地、駅に到着する。普段ここを利用するときは映画館に向かうことが多いので、見慣れない場所というわけではない。が、改札をくぐってからどちらの方向に向かえば太陽からの襲撃を最低限に抑えつつ、第二目的地である図書館方面に向かえるかを覚えていない。
駅の案内板と睨めっこする。
右だったか、左だったか。映画館は右なのでおそらく左なのだろうと当たりをつけて探せば、すぐにその直感が正解だと気付く。
学生時代にはよく利用していたのに、こんなことも忘れてしまう自分にほとほと呆れる。
だが、道を歩くに連れて芋蔓式に記憶が蘇る。
確か近くにラーメン屋だったか蕎麦屋があって、その二つ隣にも何かしらの食事ができる場所があった。
はずだ。
多分。
そして目の当たりにしたのは、記憶よりも派手なのぼりを掲げているラーメン屋。二つ隣には「何か屋」という曖昧なものでなく、れっきとしたうどん屋が建っていた。
うどんを売りにした店ではなかった、と確実に言い切る自信はある。しかし、では何を扱っていた店だったのかはとんとわからない。
思考に霞がかかっているとか、曖昧模糊とした記憶の迷路に囚われているだとか、そんな話ですらない。
完全に、全く、思い出すことができないのだ。
薄情なものである。
まぁ、暖簾をくぐったこともないので当然といえばそれで済んでしまうのだけれど。それでも何となしに、記憶に残らないことそのものが怖くなった。
おそらく前の店主は事情があって店を畳んだ……あるいは一念発起してリニューアルしたのかもしれない。土地と建物を別の誰かに譲って、別の仕事についたのか、あるいは隠居したのかもしれない。
別の誰かが新しく店が建てたとしても、それは大変な決断の上での行動だったろう。疫病騒ぎで外食産業は大きなダメージを受け続けている。そんな中での開業は、並大抵の覚悟ではできないはずだ。
全て想像に過ぎない。もしかしたら、ただ看板を張り替えただけで、店の業態は何一つ変わっていないかもしれない。
私は憶えていないのだ。
二秒ほどどちらかの店に入ろうか悩んだが、まだ朝の十時を過ぎたところである。ピークタイムを避けるため、四時間ほど図書館で時間を潰してからまた来ようと考え、その場を後にする。
久しぶりの紙の本に興奮したのか、気付けば日は傾き、図書館に入ってから八時間経過していた。
完全に昼食の時間を過ぎている。
夕飯は家に帰って済ますとして、その前に軽く何か食べよう。いやまて、今日読み始めたこのシリーズも、後二冊で完結だ。ストーリー自体は前の内容を覚えていなくても問題無いが、キャラクターは継続して登場するので、シリーズ全体を順番に読むのが好ましい。内容を忘れないうちに借りて帰ろう。
ごそごそと本棚を漁り、二冊の本を探し当てる。
そのまま貸し出し用のカウンターへと持って行き、簡易な手続きをして、晴れやかな気分で帰路に着く。
帰り際にコンビニに寄って、夕飯まで腹の虫を抑えるための軽食を購入。いわゆるダイエットフードで、栄養価こそそこそこあるが成人のカロリー摂取量には明らかに不足だ。しかし本格的な食事も近いし、たまにはよしとしよう。
駅も近くなったところではたと気付く。
ラーメン屋もうどん屋も忘却の彼方だ。
恐る恐る後ろを振り返ると、八時間前に午前の光りを浴びていた二つの看板は今、夕暮れに晒されて、少し物寂しげだった。
物忘れ くろかわ @krkw
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