エピローグ前のお話 初めての名前呼び

それを指摘されて、私は内心ぎくりっとした。


「シルヴィア、君はもしかしてディートハルトのことを“師匠”と呼んでいるかい?」

「…………へ?」


 大師匠様こと、ランヴァルド様に言われて私は変な声をあげてしまった。


 ことの始まりは数分前。

 ランヴァルド様によってキエフ王国に戻って二週間。ランヴァルド様が私たちの様子を見に来てくれた。

 それで食器棚の上に収納しているカップを取ろうとしたら、偶然リビングに来た師匠が取ってくれたのでこう言ったのだ。

「ありがとうございます、師匠」…と。


「ええっと、はい」

「それは外でもかい?」

「いえ…。外では呼んでいませんが…その…」

「その?」


 もごもご、と口を濁らせてしまうが……正直に言おう。


「実は…師匠の名前が言えなくて」

「名前が?」

「はい……」


 ここ二週間、私は悩んでいたことをランヴァルド様に素直に白状した。

 師匠の名前がディートハルト・リゼルクだと知っている。

 けど、その名前を呼ぶことはできるかと言うと、違う。

 私にとって師匠はずっと尊敬する魔法の師で、恐れ多く名前を呼び捨てになんてできない。

 かと言ってディートハルトさん、と言うのもこれまた変な感じがする。

 ちなみに師匠は家にいない。なんでも用事で少し外出すると告げて出ていった。


「師匠を呼び捨てなんて…感覚としては親を呼び捨てで呼ぶようなものですよ…」

「あー、なるほどねぇ」


 私の真剣な悩みに耳を傾けてくれたランヴァルド様は私の言葉にそう返事した。

 うんうん、と頷きながら顎に指を置いて考えている仕草をする。


「うーん、確かにあの子が僕をランヴァルドと呼び捨てするのはイメージできないねぇ」

「わかってくれますか!?」

「まぁ、理解はできるさ」


 本当は私だって師匠の名前を呼びたい。呼びたいけど、ずっと師匠と声に出して心の中でも呼んでいたのだ。それをいきなり呼び捨てにするのは中々難しい。

 少なくとも、私には難しい。


「それじゃあ、家の中では師匠と呼んで、外では名前を呼ばないようにしていたのかい?」

「おっしゃる通りです…」


 せめて外では名前で呼べるくらいにはしたいんだけど…ううむ、まだ難しい。


「名前のことはディートハルトは何も指摘しないのかい?」

「そうですね…私が師匠と言っても特に何も言いませんね」

「気にしていないのかなぁ。まぁ、ずっと師弟関係で過ごしてきたからそれが普通なのかもしれないが」

「そうではないかと…」


 師匠が名前で呼んでほしいと言ったら私はきっと呼べるようになる。

 だけどそれを言われていないのにいきなり呼ぶのはハードルが大きい。

 だって気持ちを伝えてまだ一ヶ月も経っていないのだ。

 師匠の方が遥かに年上だし、ディートハルトなんて緊張してしまう。


「まぁ、僕は部外者だからあまり口出しはしないけど、ディートハルトの名前を呼べるようになってほしいね。君に呼ばれたらあの子はきっと喜ぶはずだ」

「そう、ですね…」


 何か呼べるきっかけがあればいいんどけどな、そう思いながら返事した。




 ***




「イヴリン、何かいい依頼ない?」

「シルヴィア。待ってね、ちょっと調べるから」

「もう私は平気だから今までと同じような依頼を紹介してくれていいよ」

「ダーメ。今のシルヴィアの言葉はちょっと信用できないから。危険が少なくて時間がかからない依頼をしてもらいます!」

「うっ…はい…」


 イヴリンの強い返答に従うしかないと感じて気弱な声になってしまう。

 ランヴァルド様の訪問から数日。今日はギルドに来ていた。

 師匠と一緒に依頼をしているのにイヴリンはしばらくは危険な依頼は控えるように言う。

 大丈夫なのだが心配させてしまったので素直に従う。


 イヴリンの仕事を待っているときゃあきゃあと女性の声が聞こえる。

 チラッとその方向を見ると師匠は椅子に座りながら壁に貼られている依頼書を眺めていて、女性陣はそんな師匠を見つめていた。

 冷たい顔立ちゆえ、声をかける人は少ないけど美形のためやはり注目の的だ。


「人気者ね、ディートハルトさん」

「シシィさん」

「シルヴィアさんもう平気?」

「平気です。ご心配おかけしました」

「いいのよ、大丈夫ならよかったわ」


 シシィさんが近づいてきて話をしていく。


「三属性使える美形の新人冒険者。だけど魔法は優れているからちょっとした有名人よ」

「あはははっ…」


 確かにそうだと思う。冒険者登録の際に見た魔法の威力はすごかったと囁かれている。

 ディーン君の頃と違って魔力が多いからだろうなと思う。


「ディートハルトさんが一緒なら安心だけど、ディートハルトさんも冒険者になったばかりだし、これとかどうかな?」

「どれどれ?」


 イヴリンが見せてくれた依頼書を見る。ディーン君の頃にもした魔法薬草の採取だ。

 場所もここから近いしすぐに終わりそうだ。

 イヴリンもシシィさんも師匠のことをディートハルトさんと呼べてちょっと羨ましい。私も呼びたいなと改めて思う。


「うん、場所も近いしこれにするよ」

「じゃあちょっと待っててねー」

「うん」


 師匠に話を伝えようと振り向いたら二十代半ばの美人で大人っぽい二人組の女性が師匠に話しかけていた。

 食事をしている人や他に依頼の話をしている人の声で何を話しているかはわからない。

 師匠の表情は相変わらず変化はないけれど何か話している。

 その光景を見て、なぜか焦燥感が芽生えて。


 カツカツと歩いて呼んでしまった。


「ディートハルト!」

「………シルヴィア?」


 師匠の名前を呼んだら師匠が目を僅かに見開いて、大人っぽい女性たちが私の方へ視線を向けた。


「あっ…その…」


 な、なんで私は今師匠を呼び捨てしてしまったんだー!? もっと他にいいタイミングがあったでしょう!? 何してるの私!

 内心あわあわしていたら大人っぽい女性の一人に手を握られた。


「エレインさん! 大丈夫だった?」

「へっ…?」


 突然手を握られて、話しかけられて頭が回らない。


「あの…?」

「大変だったんでしょう? 川に流されたって聞いたわ。無事でよかったわ」


 女性の胸に提げている冒険者カードの色はゴールドだった。女性で、若いのにゴールドとはすごい。


「は、はい。ありがとうございます」

「エレインさん、あの人と最近一緒にパーティ組んでいるのでしょう? よかったわ、ソロより複数の方が大きな依頼もこなせるし、安心よ」

「そ、そうですね」

「今回の件、同じ女性として心配したの。エレインさんともお話したかったけどイヴリンちゃんとお話してたでしょう? だからその間あの人とちょっとお話してたの」

「そうだったんですか…」


 つまり、この女性たちは私を心配して師匠に話していた、と…。

 なんてこと。私を心配してくれていたのに、突然割って入ったなんて。

 勝手に焦って動いて恥ずかしい。どこか穴を掘ってしばらく隠れたい。


「シルヴィア」

「あ、えっと……」


 師匠がやって来てゆっくりと振り向くも、目を見ることができない。


「なんでしょ……何?」


 敬語に気付いて直して尋ねる。目はやっぱり見れない。


「ロミアスから書類を貰ったから行くか」


 ロミアスとはイヴリンの名字だ。いつの間に取りに行ってたのか。


「う、ん」

「またね、エレインさん」

「はい、また」


 ゴールドの女性冒険者二人に会釈して師匠の後をついていって、ギルドから出て歩いていく。


「さっき、俺の名前を呼んだか?」

「ヨンデイマセン」


 片言になりながらも否定する。誤魔化すことできるなら私は誤魔化す。


「いや、呼んだよな」

「わかっていて聞くんですか!?」


 ダメだ、これは完全に聞かれていた。そのうえで言質を取ろうとしている。


「……初めてシルヴィアに呼ばれたなって思ってな。ずっと“師匠”呼びだったからか…嬉しくてな」

「っ…」


 口角を上げながら優しい声音で嬉しいと言うなんて。見慣れていないからドキッとする。


「……そ、外では師匠って呼べないからで…。い、家だと師匠って呼ぶから!」


 顔を背けながら言うと笑い声が聞こえる。気のせいだと思いたい。


「はいはい、わかったから。依頼に取りかかるぞ」


 そして師匠が手を伸ばしてくる。


「…そうだね」


 師匠の手に私の手を乗せて依頼人の元へ向かって歩いていく。

 ディートハルト。初めて呼んだけど、いつかそれが当たり前のように緊張せずに呼べたらいいなと思った。


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