ムジーク
羽上帆樽
第1話 意味などない
これは音楽で、だから特別意味はない。あるのは音でしかないが、音ほど頼りになるものはない。人々は言葉を信じられるみたいだが、僕からすればとても信じられたものではない。言葉を使えば平気で嘘を吐くことができる。それに比べて、音は決して嘘を吐かない。音は万人に同じように聞こえる。
少女がピアノを弾いていた。
頭の上にヘッドホンを被って、丁寧に鍵盤を叩いていく。
この世の終わりのようなメロディにも、この世の始まりのようなメロディにも聞こえた。どちらも嘘であり、本当でもある。嘘と本当が共存している。しかし、これは音の性質ではなく、言葉の性質だ。
「どうして、君はピアノを弾くの?」
僕は少女に尋ねた。つまり、口から音を発した。人間の調音器官も楽器と大して変わらない。
「理由なんてないよ」少女は答えた。「そんなものを求めて、どうするの?」
綺麗な声だった。しかし、汚くもあった。言葉の歪みに埋もれている。けれど、それは僕が彼女の声を言葉として捉えたからだ。単純な音として捉えれば、大したことはない。
「ほら、耳を澄ませてごらん。色々な音が聞こえるから」少女が言った。「たぶん、君には真似できない。真似したって、仕方がないのかもしれないけど」
「仕方がないって、何が?」
「君の人生には」
「人生には、もともと仕方なんてないよ。仕方がないから人生なんだ。しかし、最近は人生のマニュアル化が進んでいるみたいで、多くの人間がそれに従って生きているね。つまらなくないのかな? 少なくとも、僕はつまらないと思うけど」
「君は、つまらない」
「いや、僕じゃなくて、人生」
「コーヒーが飲みたいよ」
そう言って、少女は頬を膨らませる。
都合良く隣に現れた自動販売機にコインを入れて、僕は缶コーヒーを購入した。購入すると、購入した、という感じがするし、プルトップを開けると、プルトップを開けた、という感じがする。それは、頭の中にそういう「感じ」がすでに出来上がっているからで、現実を正しく理解したからだと思い込むのは傲慢だ。
「美味しい」
コーヒーを一口飲んで、少女が笑った。
少女は再びピアノを弾き始める。チクタクとメトロノームの音も聞こえた。それがどこにあるのかは分からない。もしかすると、僕の頭の中にあるのかもしれない。それはそれで面白い。試しに頭を左右に振ってみると、少々音が乱れた。やはり僕の頭の中にあるようだ。
「私がヘッドホンを付けている理由を、知っている?」
少女が僕に尋ねてきた。ピアノの演奏は続いている。知らなかったので、僕は首を振った。またメトロノームの音が乱れた。
「できるだけ、自分の声を聞きたくないからなんだ」
「耳を塞いだら、むしろよく聞こえるのでは?」僕は言った。「頭蓋骨に反響するだろう?」
「しない」
「するよ」
「しない」
しない人間もいるのかもしれないと思って、僕は諦める。この種の諦めは意外と簡単にできると自負している。それが僕に築かれた防衛機構なのだ。ほかの者にはなかなか真似できないだろう。真似されたくもない。彼女にだったら良いかもしれないと、とっさに思いついたが。
「どうして、自分の声を聞きたくないの?」
「あまり、好きではないから」
「どうして、好きではないの?」
少女は僕を睨みつける。
「そんなことに理由があって堪るか」
「お金はなかなか貯まらない」僕は話す。「それはなぜか。すなわち、貯める気がないから。如何なる目標の達成も、それを求める意志に下支えされている。その下支えがないのなら、その上に何かが載ることもない」
ピアノの音、ピアノの音。
リズム、リズム。
チャチャチャ。
アフターヌーンティー。
コーヒーを飲んだつもりなのに、缶の中から出てきたのはコーンポタージュだった。だから、僕は液体を吹き出してしまった。それを見て少女が盛大に笑っていた。そうすると、自分の声が頭蓋骨に反響するようで、それを聞いて少女は一人で悶えていた。
ここには空がない。
なぜなら、ここが空だからだ。
空の中に空はない。
上も、下も、皆空。
「天国というよりも、地獄のイメージ」少女が話した。そのコメントは、自身が演奏するピアノのメロディに対してのものみたいだった。「エンマ様が舌を抜きにやってくる。痛い痛いと言いながら。舌を抜いて痛いのは、エンマ様の方なんだよ、きっと」
「どうして?」
「心が痛むから」
「そりゃあ、誰だってそうだよ。好き好んで罰を与える者なんていない」
「いるよ」
「どこに?」
「ここに」
「どこ?」
目の前から少女が消えていた。
背後に気配を感じる。
振り返ると、そこにピアノがあった。
だから、僕は椅子を引いて、その上に座った。
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