死者の彩り

丸山弌

死者の彩り




〝人を不快にさせてはいけません〟

 本来であれば人それぞれが任意で持つはずのそんな気配りの優しさが、あらゆる人の全うすべき義務として変貌したのはいつからだろう。遠藤榮子は電車のつり革に掴まり、流れていく街の景色を眺めながら――ふと、そう思っていた。

 古めかしい住宅の方形状の屋根が連続し、いつか見た海面の波のように不規則な隆起を描いている。瓦色の鱗が陽の光を反射してキラキラと輝いている。きっとこの見知らぬ街にもたくさんの人がいて、たくさんの人生があるのだろう。そんな当たり前のことが、榮子にとってどこか不思議なことのように感じられた。

 電車はしばらく住宅街の波の中をカタンコトンと走行していたが、中野駅を過ぎたあたりで唐突に全面ガラス張りのビル群に切り替わった。

 住宅街と摩天楼。

 おなじキラキラ光る景色でも、ビル群のそれは目をしかめるほどに攻撃的で強く眩しかった。電車の外で断崖の山脈のように聳え、いつまでも壁面を描く高層ビルの連続。そのガラス面の上層部は、青い空と白い太陽を鮮明に反射させている。これらのガラスはすべて太陽光発電機能を備えているらしいが、それが都市にとってどれほどの電力を供給しているのか、榮子はよく知らない。

 鏡張りのビルは、電車やその中に立つ榮子の姿を明瞭に反射させていた。いつもの制服姿の自分。電車の中に溶け込んだ、街の景観の一部でしかない女子高生。

 榮子の網膜に、まもなく新宿に到着するという文字が表示された。


「あの。ありがとうございました」

 電車が減速をはじめたので榮子がドア付近へ向かおうとしたところ、ここに来るまでに席を譲った老女が一礼していた。榮子も、ペコリと頭を下げて礼を返す。

〝人を不快にさせてはいけません〟

 その言葉が、榮子の心には刻み込まれている。


 *


 昔に比べ、新宿は快適になったと母は言っていた。母が榮子くらいの歳の頃は、ビルに貼り付けられたガラス面は不愉快でケバケバしい広告モニターとして扱われていたのだという。その広告が手の甲に貼り付けられた白く発光するタトゥ型の携帯端末――紋白端末に強制干渉し、母のコンタクトレンズ型網膜ディスプレイを介して〝詳しくはこちら〟というリンクを目の前にポップアップさせていたらしい。

 ……今の時代にそんなことをしたら、天文学的な賠償額になるだろう。しかしどういうわけか、それを語る母の口調には過去を懐かしむ温かさがあり、榮子自身もその賑やな過去を思い浮かべ、憧れのような眼差しを遠くへ送っていたのだ。

 人の波が整然と階段を行き来する新宿駅東南口。

 駅ビルの開放型店舗からは陽気で明るい音楽が零れ出ていて、どこか心地いい気分にさせてくれる。背の低いビルの屋上に設置された古めかしい広告パネルは、今は素晴らしい絵画やイラストや写真を飾るスペースになっている。かつて映像広告を流していたというビルのガラス面は今は沈黙し、粛々と芸術たちの土台となり、空と太陽を反射させている。

 様々なビルが様々な角度で太陽を受けているので、その光が差し込む階段の下の小さな広場が、周囲に比べて極端に照らされて明るく浮かび上がっているように見える。その光の領域の中に、待ち合わせの人物がいた。背の高い細身の男で、スーツ姿だが、みすぼらしい雰囲気を纏っている。

「来てくれてありがとう」と、榮子に気付いた男は言った。

「大丈夫です」頷く榮子。

「……じゃあ、行こうか」男が歩きはじめる。あわせて榮子も、長く洗っていないだろう汚れた男の背広を追いかけた。


 *


 榮子が初めて彼と出会ったのは、だれもいない昼間の公園でのことだった。

 もう数ヶ月も前の話になる。

 高校をサボり、真昼間の住宅街を歩いていた。いつもなら退屈な授業にうんざりしている時間。普段は目にすることのない時間帯の地元を、榮子はあてどなく彷徨っていた。普段とは違う時間に歩くだけで、見知った街がいつもと違う表情のように感じられる――ただそれだけではあるのだが、それでもまるで異世界に迷い込んだかのようだった。

 密集する建物の間にふと緑が溢れた公園があることに気付き、榮子は自然と足を踏み入れ、ベンチに腰を下ろした。

 木々が風に靡いて音を立て、榮子に降り注ぐ木漏れ日を揺らしている。公園の隅に並ぶ古い健康遊具はかつての少子高齢化時代の名残りだ。公園は一時期、子供ではなく老人が遊ぶ場所だった。〝他人に迷惑をかけずに遊んでください〟という、今ではわざわざ掲示するまでもない看板が設置され、朽ち果てている。


『だれもが等しく傷つかない優しい未来を創る思いやり社会実現に向けた制度』が施行されたのは、榮子が生まれて間もなくのことだ。それは国連で採択された『新世界人権条約』に日本が批准し、また紋白端末がスマホに代わり市場に広まったタイミングと同じ時期だった。当時から紋白端末は十四歳以上の日本居住者に所持義務が課せられていたので、その規模と端末の機能を最大限活用した同制度は『ココロ彩り総合計画』と銘打って、瞬く間に人々の生活に影響を与えていた。

 それはいうなれば〝自動賠償システム〟だった。

 社会生活の中で自分がだれかに不愉快な行為を働いた際は、紋白端末が接続する〈優しさ判定システム〉が状況を総合的に判断し、過失のレベルに応じた賠償額を決定する。

 自分がだれかの過失によって不愉快な思いをすれば賠償金をもらえるし、逆に自身の過失で不愉快な思いをさせてしまった場合は賠償金を支払わなければならない。清算は月末で、網膜ディスプレイの隅に現在の賠償収支額の合計が表示されている。

〝人を不快にさせてはいけません〟

 すべては、だれもが気持ちよく過ごせる公平な社会を実現するために――

 この仕組みによって優しさは義務となり、人々は思いやりの心を取り戻して、社会は豊かになった。一方、授業をサボってしまった榮子は、その過失によってこの月の賠償額が赤字になることは明白だった。


 *


「今日はありがとう」と、新宿の街中で男は再び榮子にそう言った。「まさかこの時代に引き受けてくれる人がいるなんて」

 男の汚れた背広を見つめながら、榮子は頷いた。賠償収支額は、ただただ街中を歩くだけでも細かく数値が上下する。人の通行を妨げたり、偶然だれかの目についてしまっただけでも不快に思う人は不快に思うものだ。その過失一つで収支額も細かく動きを見せる。今までは行き場のなかった不快な気持ちを、『ココロ彩り総合計画』は保証してくれる。

 人込みをかき分けるようにして、汚れた男は歩みを進めていく。すれ違う人たちの表情から察するに、彼は周囲に不快を振りまいている。人々の手の甲に刻まれた紋白端末は血中のコルチゾール濃度を常時数値化しストレス度合いを監視しており、ストレスの増加を検知するとそのデータを〈優しさ判定システム〉に送信する。データを受けた判定システムはそれを元に周辺環境情報を収集し、客観的合理性に基づいて賠償収支額を決定する。

 ちなみに、もし判定結果に不満がある場合は判定システムを管轄するデジタル裁判所に情報公開請求をおこなった上で新たに周辺環境情報を集め、判定システムが収集した周辺環境情報との差異を根拠として簡易裁判所に調停を申し立てることができる。とはいえ、多くても一つ数百円程度の判定に対し、そこまでの労力を割く人はあまり多くなかった。

「総合計画は、僕たちから人間性を奪っている」人通りの少ない裏路地へと榮子を導きながら、男が言う。「そのせいで、人々は〝発信〟する術を失ってしまった。SNSで一言呟いただけで、今では日本各地……下手したら世界中から賠償請求が届く。欧米のどこかの国では賠償金だけでなく実刑にまで至った事例もあるって話だ。日本の制度はそこまで酷いものではないが……でも、それでも総合計画の影響は計り知れない。目障りな広告が街から消えたのは快適だが、そのせいで民間メディアが消え国営メディアが事実だけを淡々と放送している――放送しない権利を巧みに利用して、政府がプロパガンダに利用しながらね。極めつけとして、僕たちは創作を奪われた。もちろん、だれも創作を禁止などしていない。だが、作品を作れば様々な解釈が生まれる。その作品を見て不快と思う人も当然ながら存在する。結果として、創作者は作品の儲けを遥かに上回る多額の賠償金で潰されることになる」

「ねぇ。あなた、私をバカにしてるでしょ?」

 ん? と、男が歩みを止めて振り返る。

 それを上目遣いにキッと睨みつける榮子。

 たしかに、絵や音楽や本や映画などの創作物に触れて思わず不快を感じることは多い。そうしたとき、榮子の紋白端末は素早くストレス情報を判定システムに送信する。しかし、ほとんどすべての結果がエラーで返ってくる。判定システムは賠償請求不可能と判断するのだ。理由は簡単に推理できる。創作物に対し、判定システムは無効なのだ。

 榮子は言った。

「新宿駅前にあったビルには絵や写真が飾られていた。いろんな音楽も流れている。実際にそれがそこにある以上、創作物は奪われていないし、潰されてもいない。創作者は守られている――だってそうでしょ? 作品には賠償請求ができないようになっているんだから。そもそも、本当にこの世界から作品がなくなってしまったら、一体なにがこの街を彩るの」

 榮子の言葉に、みすぼらしい男はフッと笑った。

「残念だけど、そうじゃない」

「そうじゃない? そんなわけない。だって――」

「街を彩る作品の数々。それらに対し判定システムは賠償金を請求できない――だから創作は守られている。そう考えているんだろう? あるいは学校でそう習うのかもしれない。だが、実際はそうじゃない。今、この国の街を彩るあらゆる作品たち。それらがすべて、死者の作品だからなんだ」


 *


 公園のベンチで、榮子は歌を歌っていた。だれもいないと思っていたから、本当に油断して、無意識的に口ずさんでいた。

「いい声だね」

 見知らぬ男に背後から声をかけられた時、榮子はドキッとした。すぐに、不快とか、賠償金とか、そういった言葉が頭によぎった。けれど目の中の数値は動かなかった。男が優しい笑顔を作る。

「もしよければなんだけど。僕と一緒に、音楽を作ってみないかい?」


 *


 綺麗に整備された新宿の裏路地。不快さとは無縁の清潔な通りを歩きながら、みすぼらしい男は語っていた。

 榮子たちが真実を知らないのも無理はない。なにせ、この社会はどのような形であれ人を傷つけないよう作られている。生きているうちに音楽を作り世の中に公開している人がいないという事実は、巧みに隠された真実の一つなんだ――と。

 たしかに、学校の授業で習ったことがある。死者の尊厳は守られなければならない。それは総合計画でも保証されている。

 榮子は、この男を信じることにした。自分の歌を聞いたのに賠償金が請求されていない。〝いい声だね〟と褒めてもらえたことは嬉しかったし、それが嘘でないこともわかったから。逆に急に声を掛けられたことによる榮子のストレス値が爆上げし、判定システムは男に対し少額ながら賠償金を請求してしまったが、男は慣れた様子で笑っていた。

 スタジオに入ると、男は手にしていたボストンバックから古めかしいタブレットPCを取り出した。スイッチを入れると背面のリンゴマークが手の甲の紋白端末のように淡く白く発光した。

「この音楽がだれかに届くのは、僕たちの死後だ」

 タブレットPCを機器に設置しながら、男は言った。

「死者の尊厳は保証される。人は死ぬと感情を持つことができないから、生者が死者に対し一方的に不快な感情を抱くことは公平ではないという道理らしい。つまり、判定システムは制作者が死んだ創作物に対し不快な感情を向けることは不道徳と評価し、賠償請求不可能としてエラーを返すんだ」

 あぁ、それなら安心だ――なんて、榮子はそんな風には思えなかった。街に色彩を与えている音楽や絵画の制作者たちがもし本当に亡くなっているなら、自分の作品がこの世界でどのように評価され、どのように影響を与えているか、その目で見ることなくこの世を去ってしまったということになる。

 彼らの気持ちを想像して、榮子は寂しい気持ちになった。同時に、それを課す社会を恨めしく思う。

「それってもしかして、判定システムの仕様上、辛うじて死者の創作物は守られているけれど、実際に私たちの社会から創作物を奪ったのは私たち自身――ということ?」

「なるほどな。街の彩りは死者と判定システムの道徳的評価によってのみ存続を許されているから、そういう風に捉えることもできるだろう。総合計画によって不快な感情に保証が求められる以上、創作が滅ぶのは必然だ。そして現代の人々はこの必然に思い至ることもなく死者と判定システムの庇護により存在できる創作物に触れ、癒され、安堵し、消費して、コピーデイズな灰色の日々に彩りを添える……素晴らしい世界だ」

 男は微笑んでいるが、その口調には怒りが混ざっていた。

「総合計画は間違っている。人は、自身が抱いた不快な感情に保証を求めるべきではないんだ」

「でも、どうしてですか?」榮子は聞いてみた。「こんなめちゃくちゃな状況でも、どうして制作者たちは創作をやめないんですか?」

「……おもしろい質問だな」

 男は小気味良さそうに言うが、特にその後に続く言葉はなかった。着々と収録準備が進んでいく。そんな中、私の目の隅にニュース速報テキストが入る。

『〈ココロ彩り総合計画〉見直しにより〈新・ココロ彩り総合計画〉の実施が決定。主な改善点としては、自動賠償システムに加え他者から幸福感情を与えられた際は謝礼を支払うという新基準――自動謝礼システムを実装予定』

「ふっ」と、同じ速報を見ただろう男は鼻で笑った。「いよいよ末期だな」

 そして、様々な調節器が並ぶ機材の上にタブレットPCを置き、男は榮子を見つめる。

「人間社会がこの先どうなるのか――それを、君の歌声に込めてほしい」

 私の、歌声に……

『だれもが等しく傷つかない優しい未来を創る思いやり社会実現に向けた制度』によって実現した総合計画。今までの自動賠償システムと、これからの自動謝礼システム。だれも傷つかない優しい未来を夢見て構築されていく、新たな社会。

 でも、きっとまた不完全なものなんだろうな。榮子は少しだけ笑ってしまった。榮子はゆっくり頷いた。

「がんばってみます」

 男が微笑んで頷く。榮子は立ち上がり、厚い扉をくぐって録音ブースへと移動した。無数の穴が開いた壁が一面に貼り付けられていて、一部、二重のガラスで仕切られた窓がある。重い扉を全体重を乗せて閉めると、世界から音が消え去った。

 白い部屋の中央には黒いマイクスタンドとヘッドホンが設置されている。なんて時代遅れな録音機材だ――けれど、榮子はワクワクしていた。ヘッドホンを耳に当てる。そしてマイクの前に立ち、喉の調子を整える。テストもかねて、榮子は言った。

「楽しみですね」

 男が顔をあげる。

「これから収録する音楽が、いつか街に流れる日が」

 彼は窓の向こうでニヤリと笑い、親指を立てた。




 END

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