22話「幸せ」
「どうして、僕では駄目なんでしょう、お父さん」
僕の実家の居間には緊張が張り詰め、今にもそれは怒号により打ち破られるのではないかと思われるほどだった。
雄一の言葉に、父さんはじろりと雄一を睨んでから、軽くため息を吐く。そして、雄一がもう一言、こう付け加えた。
「お父さんは先ほど、「幸せには色々な形があるからと言ってやりたいけど、これは駄目だ」とおっしゃいました。それはなぜですか?」
そう言われて、父さんは何かを言おうとしたけど、言葉に窮したように黙り込んだ。
僕はその時、両親に許される可能性なんかもうほとんど信じていなくて、悲しい気持ちで俯いていた。まさかここから状況が良くなるなんて、とても思えなかった。雄一が下を向いた気配を感じながら、母さんが入れてくれた緑茶が冷めていくのを、僕は見ていた。
その時、雄一が細い声で、小さくこう言った。
「僕は、稔君の幸せを誰よりも願っているとは、もしかしたら言えないかもしれません」
それは本当に、突拍子もない言葉だった。僕は驚いてしまって、顔を上げる。父さんと母さんも、急な事に戸惑っていたようだった。そのまま雄一は喋り続ける。
「もちろん、世界で一番に稔君の幸福を願うのは、お父さん、お母さん、あなた方のはずです。でも、僕だって、気持ちだけでも同じでいたいんです。稔君が笑ってくれるのが、僕の一番の楽しみですから…」
雄一がそう言った時、母さんが両手で口を覆って、目を見開いた。父さんも、信じ難い物を見たように、眉を寄せ、雄一を不気味そうに見つめていた。
「僕は…稔君にお願いをしました…「もし僕との事が許されなくても、僕を忘れて、必ず幸せになってくれ」と頼みました…」
雄一は、それを話し始めた途端、気丈に振舞っていたのが嘘のように、ぽろぽろと涙を零した。僕は思わず雄一に手を伸ばしかける。
雄一が身を震わせながら泣いていて、父さんと母さんはそれを見て何も言えないでいた。僕はすぐにでも彼を抱き締めて撫でてあげたいのに、今は出来ないのが苦しかった。
「…でも、お父さん、お母さん…僕は、そうなってしまえば、独りぼっちに逆戻りなんです…僕たちは、孤独な時を支え合って生きた事があります…!別れ別れになった後で、僕は独りの恐ろしさを痛感しました…!あんな思いは、もうしたくありません…!」
雄一が喋る調子はどんどん熱していき、彼の涙は止まらなかった。
顔を上げて父さんを見つめ、雄一は涙を拭いながら訴えかける。父さんは少したじろいでいた。
“解ってくれるかも”
この時僕の胸に、ちら、とだけ光が閃いた。
「過去の僕の事についてなら、何度でも謝ります!出来る謝罪はなんでもします!僕は今、稔を守るためだけに生きているんです!だから、失うなんて耐えられません…!稔が僕の帰りを待っていてくれないのなら…僕に、どこに帰れと言うのですか…?」
そう言われた時、母さんと僕は泣いていた。父さんは呆然と俯いていて、何も言わなかった。
しばらくそのままで時は過ぎた。不安な気持ちは変わらなかったけど、雄一の気持ちが聴けた事で、僕はなぜか落ち着いていられた。
本当は誰よりも不安がっていた雄一が愛しくて、愛しくて、その想いに体を温められているように感じていた。
少ししてから、実家の近くを通っているローカル線の線路から、「ゴーッ」という電車が走る音がして、窓が揺れた。その時に、僕達はみんな正気づいたように体を震わせたのだった。
空気がもう一度息を吹き返した後で、母さんがちらちらと父さんの方を窺い、体を少し前に倒して、父さんの顔を覗き込み始めた。母さんは遠慮がちにこう言う。
「ね、ねえお父さん…私達、考えてみましょうよ」
父さんは渋々母さんの方を目だけで見たけど、またすぐに俯いた。でも、母さんは諦めなかった。
「そりゃ、何か言われるかもしれない。でも、二人がこんなに頼むんだもの…信じてやらなけりゃ…それに、稔がさっき、あんな事言ってまで…」
悲しかったんだと思う。母さんは、僕が言った「縁を切る」を、口に出せなかった。僕はその時、心から母さんに済まないと思った。
「母さん、ごめんなさい」
僕は前を向いて、母さんを見つめる。母さんはもう、いつでも泣いてしまいそうな顔をしていた。
「縁を切ったりなんて、しないよ。でも、僕だって、雄一との事を認めてもらえなきゃ…悲しくて、「生きていこう」とすら、思えない…」
すると、母さんは余計におろおろと体を揺らし始め、ちょっと首を振ってから、ついに父さんにしがみついた。
「ねえ、稔がここまで言うのよ、お父さん。考えてあげて!」
母さんが体を揺さぶる度に、父さんの首がふらふらと揺れた。父さんはしばらくぼーっとしていたけど、顔を上げた時には、恐ろしく真剣な顔で、雄一を睨みつけんばかりに見つめていた。
父さんと雄一が見つめ合っている時間は、長かった。でも、雄一は決して目を逸らさず、父さんは必死に、雄一の目の中に何かを探しているように見えた。
二人はそれから、短い話をした。
「…まだ、君の仕事がどんな物かは、聞いていなかったね。雄一君」
「はい。営業職です」
「君に友人は?」
「人並みよりは多いと思います」
「…もし、私が今また「駄目だ」と言ったら、君はどうするんだ」
「何度でも頼みますし、ここに毎週通います」
雄一がそう言った時、父さんは雄一を見つめたままだったけど、やがて下を向いてからもう一度顔を上げ、笑った。それは明るい笑顔だった。
「それは困る。毎週来られても迷惑だ」
「仕事でよく、そう言われます」
そう言って、雄一も笑っていた。僕はもう一度泣いた。
Continue.
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