笹の葉、銀河、マンネリ夫婦〜文学喫茶オムレット2〜
松浦どれみ
第1話
「愛理ちゃん、ごちそうさま」
「ありがとうございました」
水曜日の昼下がり。ランチタイムが終わり片付けもひと段落した文学喫茶オムレットでは、スタッフの愛理が一人で店番をしていた。
昨日は店長の藤崎の祖父が来店し、慌ただしい一日だった。昨日新メニュー『ハムレット』を販売してから、今日もそれなりに忙しかったが、一旦完全に客が引け、店内は完全に彼女だけの空間となった。藤崎は三十分程前に買い出しと銀行に行くと言って出ていったので、あと三十分は帰らないだろう。
「さてと、片づけよう」
最後に帰った客のテーブルから、食器を片付け、アルコールをスプレーして布巾で拭き上げる。その後、食器を洗って水を切り、拭いてから定位置に戻した。夕方に向け、店内の清掃や整頓は済んでいる。
ここからは愛理の遅めのランチタイムだ。まずはコーヒーを淹れる準備を始め、豆を挽き、キッチンにあるコーヒーメーカーに薄茶色のペーパーフィルターをセットし、豆を挽いて粉にしたものを入れる。タンクに水を入れてスイッチを指で切り替え、作動させる。
「何食べよっかな?」
業務用の冷蔵庫を開けると、ハムやチーズ、デザートなどの在庫や材料が並んでいる。愛理はそこから、ツナサラダとシュレッドチーズ、ちくわを取り出した。さらに調理台から食パンの袋を手に取り、五枚切りのパンを一枚手に取る。パンの上にツナサラダ、刻んだちくわ、シュレッドチーズの順に具材を乗せオーブントースターへ入れてタイマーをセットする。トースターの庫内では熱源が赤く灯り、チーズが少しずつ溶け始めた。その間に、ミニサラダを用意し、コーヒーを大きめのマグカップに注ぎ、カウンターに置きに行く。その後、間もなくオーブントースターのタイマーが鳴った。
「おいしそう」
チーズなどの具材の香りと、パンの小麦の香りを目一杯吸いながら、愛理はトーストを皿に乗せ、カウンターに置き、自分も席につく。両手を合わせ、軽く頭を下げる。
「いただきます」
コーヒーを一口飲んだ後、愛理はトーストを齧った。サクッと軽い音を立て、チーズがとろけてのびている。口の中ではパン、チーズ、ツナサラダ、ちくわが互いを尊重し合いながら見事な融和を果たしている。彼女がこの地に引っ越してきて一番の衝撃は、パン屋に当たり前のように並んでる『ちくわパン』だった。ちくわが丸々一本パンに包まれているその姿は異様だったものの、自然と手が伸びていた。そして、口に運んだ時の感動……。毎日行ける範囲の様々なパン屋へ足を運んだのはいい思い出だった。
「うーん。おいしい」
今は賄いだけで出しているこの『ツナちくチートースト』を、いつかグランドメニューに加えようと考えながら、愛理はパンを食べすすめた。サラダとコーヒーも完食し、満足げに目を細め、深呼吸をする。店内にある木製の丸い時計を見ると十五時になろうとしていた。そろそろ藤崎が戻る時間だ。愛理は食器を片付け、カウンターを掃除しながら、彼の帰りと客の来店を待った。
◇◆◇◆
「よし、帰るか」
愛理が遅めのランチを準備していた頃、いつもより少し早めに藤崎の買い出しは終わっていた。愛理に持たされた青いエコバッグを片手に、隣町のスーパーを出る。体を動かすことが好きな彼は、普段は店の営業もあり趣味のランニングができない日々が続いており、買い出しに行く時は基本徒歩で行き、散歩しつつ店に戻るのが日課となっている。
特に橋を渡り、隣町との境目を流れる川を眺めるのがお気に入りだった。今日は天気も良く、本格的な夏に向けて強くなってきている日差しと暑さを、川の清涼感を含んだ風が中和するような感覚が心地良い。
「……なんだあれ?」
橋を歩きながら軽く目を閉じ、大きく息を吸い深呼吸した藤崎が目を開けると、川の中に何かいるのが目に入った。いつもなら河川敷を散歩する人やバーベキューをする人達が目に入るはずだが、平日の昼間なせいか誰もいない。その代わりに、川の中心にポツンと人間の頭のようなものが浮かんで見えた。
「おい! 大丈夫か?」
藤崎は橋から大声で川に向かって叫んでみるが、相手からの反応はない。急いで来た道を戻り、河川敷に降りた。見間違いではない。人が溺れるような深さではないのに、川には人間の頭が浮いている。彼は何の躊躇いもなくエコバッグをその場に放って、川の中へ入っていった。
「おい! 大丈夫か、聞こえるか?」
川の中心までたどり着いた藤崎は、浮いている頭に体がついてるのを確認し、脇の下に手を差し込み持ち上げる。感触でおそらく成人女性と判断できた。持ち上げられた女性は手足をジタバタと動かして暴れ、川の中へ戻ろうと藤崎に抵抗した。
「危ねえって! 大人しくしろよ!」
「いやあ! やめてください!」
「何言ってんだよ! ほら危ないから!」
「やめて! 私を帰して!」
藤崎がなんとか女性を立ち上がらせると、彼女はそのまま藤崎に抱きついて大声で泣き始めた。
「私、帰らないとヤバいのに……。ケン! うわああああん」
「なんなんだよ、これ……」
元気いっぱいに泣きじゃくる女性を前に、ひとまず命の危機はなさそうだと安堵しつつ、自分の置かれた状況が全くわからなくなった藤崎は、そのまましばらく川の真ん中で立ち尽くしていた。
彼の左手首に巻かれたスマートウォッチの時刻は十五時になろうとしていた。
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