女帝の行方-Ⅱ

 エデンの家地下。冷たい雨粒が石造りの天井を伝っては落ちてゆく。拘束されているアンナは、水溜まりを歩く革靴の音に顔を上げた。


 わざわざ確認をしないでも分かる、ヨシュア・キンドリーだ。


 かせを掴んだヨシュアが、無表情にアンナを見下ろす。彼女の髪はヨシュアによって、惨めなまでに短く切られていた。


「ふん……こうすると、男に見えなくもないな」


「久しぶりね、兄さん。会いに来てくれたの?」


「愛おしい妹と最後の晩餐をしようと思ってね。痩せたな、アンナ」


「父親を失って、貴方を終わらせる事にも失敗した。食欲がないのも無理はないわ」


 父オリヴァーの選択は、ヨシュアとの心中だった。アンナも同じ事を望んで加担。そして失敗した。それでも微笑みを浮かべる彼女に、ヨシュアの目元がわずかに歪んだ。


「本当に私から離れていくつもりか」


「ええ。私達は余りにも長く一緒に居過ぎたわ。兄さん、私はずっと見て見ぬふりをしてきた。貴方が腐りきってしまうまで、ずっとね」


「血も繋がってないクセして、そういう所だけは父さんとそっくりなんだな。諦観者気取りの腰抜け」


 ヨシュアは掴んでいたかせを、わざと乱暴に引き揚げた。悲鳴の一つでもあれば、また違ったのかもしれない。しかし、アンナは笑顔を止めず声も上げなかった。覚悟を決めてしまったのだと表情が語っている。


 暗くて寒い地下室に、二人の吐息だけが白く漂っていた。どの位、そうしていたか。淡々と切り出したのはアンナからであった。


「偶像。名前なんて言いたくなかった。けれども、最後だから言うわ。偶像から、出自を聞いたんでしょう? エヴァがキングを身ごもった時に」


 舌打ちと共に、ヨシュアの呆れかえった溜め息がこだました。


「くだらない。ジョージも似たような事を言ってたぞ。私が偶像から洗脳されていると言いたいのだろう。最後だから答えてやる。その通りだよ、アンナ。


 ほんの少しいて、一気に空気が凍りついた。アンナは見えぬ目で、ヨシュアを見上げるしかなかった。まさか、こんなにもあっさりと認めるなんて。


 かせを投げだしたヨシュアは、天井を見つめながら再び深い溜め息をついた。


「だったら何なんだ? 洗脳されている。それだけ知っていれば十分じゃないか。都度、整合性を取って適応すれば済む話だ。無知が持ち出す正義は自慰そのものだな。偽善の害悪。洗脳されていない人間など、この世に存在しない」


「何とでも言えば良い。その通りだとも思うわ。だけど、兄さん。エヴァとキングへの憎悪も適応がもたらした結果だと言いたいの? 偶像の介入は明らかだわ」


「適応ではない。勘違いをするな、だ。憎悪のきっかけに偶像は全く関与していない。残念だったな」


「必然って……兄さん、何を隠してるの? エヴァが身ごもった時、本当は何があったの!」

 

 束の間の沈黙が流れる。瞬間、ヨシュアがアンナに唇を重ねた。こんなのは初めての出来事だった。冷たい唇は、心なしか震えているように思えた。動揺するアンナの鼻先を、悲しみの匂いが吐息となって漂う。


 それは、余りにも辛い別れの口づけであった。


「最後にもう一度だけ聞く。本当にお前は私から離れてゆくんだな」


 雨は何もかき消してくれなかった。憎しみも、悲しみも、愛情のざんも。二人で生きてきた思い出が脳裏を過ってゆく。それはまるで走馬灯のようで、アンナの頬には涙が伝っていた。


 何があっても味方でいるとお互いに手を握り合った、幼き日。

 温かった、兄の手。

 ずっと、あのままでいたかった。


「腐ってしまったのは、私達二人の関係だったわね……さようなら、ヨシュア」

 

「さようなら、アンナ」


 機械人形のような口調で別れの挨拶を告げたヨシュアは、足早に地下室から去っていった。





 ◆





 ソビエト、クレムリン。ヨシュアの策略により、予定より半年も前倒しで冷戦崩壊が起きてしまった現場では、政権幹部の怒号が飛び交っていた。


 この国の大統領も他国と同様であった。特別顧客の存在を認知していない。ただ、他と違うのは特別顧客ノースが政治の中枢にいた事である。そのため、イスラム特別顧客の粛正はここクレムリンで大きな波紋を呼んでいた。


 だだっ広い広間に通されたフランツ・デューラーは、隣で震えるブラックに目をやっていた。


「誰が今、この男を連れてこいと言った! 状況をかんがみればコミンテルンが機能していない事くらい、容易に想像出来ただろう!」


「ですが……」


 一時間前から怒鳴られっぱなしのブラックが、言い訳がましく自然療法誌を取り出した。ルルワの末裔が発行した、件の機関誌だ。ちなみにブラックはコミンテルンの工作員であり、死神や特別顧客については点でしか知らない。


 諜報による分断を、民主主義国家にけしかけ続けてきたソビエト。この国は、KGBと軍部も複雑に入り乱れている。内部統制からして、相互監視が必須なのである。よって、末端の工作員に情報共有などするはずもなかった。


 ノース不在となったKGB幹部が、差し出された自然療法誌に顔をしかめた。


「これはウチのものじゃない。中央情報局CIAで何をやってたんだ、お前は」


 幹部が吐き捨てた言葉の意味。ばら撒かれている機関誌の出処は、中央情報局CIAであるとの判断を示唆していた。実際に当たらずとも遠からずで、それが余計に話をややこしくしていた。


 機関誌は米帝でステファン大統領のかいらいをしている、特別顧客称号者ヨシュア・キンドリー。彼の所持する組織――ルルワの末裔が発行している。


 早い話、ブラックの中でこれらが繋がっていないのである。ホワイトは気づいていたようだが。それも聞き出す前に殺害してしまった。コミンテルンとしての使命感が肝心な部分を台無しにしたのだ。


 ホワイトの前で隠し続けてきた、ブラックのプライドが牙を剥いた。


「英国に潜入している同胞も、我が祖国のものだと断定しておりました!」


「ブラック。お前が信用している同胞はとっくに我々を裏切った。司法取引をして、居場所さえ分からなくなっている。それに……」


 突き放した口調の幹部が、フランツの手錠に視線を移す。直ぐに部下が走ってきて、彼の手錠を外した。強引な拘束で少し痩せたフランツが、自分の骨張った手首をさすっていた。


 イライラした顔で、机を爪で弾いていた幹部が話を続けた。


「この国は民主化される。当面は新興財閥オリガルヒが勢力を増大するだろう。我々はそれを受け入れてるんだ。何故だか分かるか? 外貨が欲しいからだよ。そして、お前が連れてきた男は新興財閥オリガルヒに巨額の投資をしている」


「そんなもの、金本位制に戻せば何とでも……」


「横から済まないね。ちょっといいかい? 基軸通貨ならまだしも、金本位制は余りにも前時代的だ。マーケットは決してそれを歓迎しない。君はもう少し、視野を広く持つべきだ。そうすれば、ホワイト警部だったか。彼を殺さずに済んだのに」


 無駄に立派な椅子に腰掛けたフランツが、切ない表情でブラックを見ていた。すかさず新興財閥オリガルヒ代表として広間に呼ばれた男が、媚びた口調でフランツに語りかける。


「フランツ様。大変に申し訳ありませんでした。この男は、直ちに処分いたします。民主化のプロパガンダもまだ中途でして。どうか、投資打ち切りだけは避けて頂けないでしょうか」


「……殺さなくて良いよ。私の兄もコミンテルン構成員だったからね。彼らにとって、マーケットや銀行は憎悪の対象だ。敵なんだよ。それに、米帝は大統領選を控えているだろう? 私に関しては、おんしやを出すんじゃないかな」


 フランツの示した温情に、ブラックの顔が醜く歪んだ。結局、彼のプライドを完全にへし折ったのは、憎悪の象徴ヘッジファンドを世界展開するフランツの一言だった。


「ブラック。お前を監視付きの国外追放とする。ペレストロイカに感謝するんだな」


「そんな屈辱、受け入れられません」


「お前の屈辱などどうでもいい。おい、コイツを連れていけ」


 剥き出しの殺意でフランツを睨みつけていたブラックに、手錠が掛けられる。頭から麻の袋を被せられた彼は、そのまま広間から連れ出されていった。


 新興財閥オリガルヒ代表が、立ち上がってフランツの元まで歩み寄った。久しぶりと互いに握手を交わす。彼らが以前、会ったのはこの国ではない。ルクセンブルクのホテルだった。


「本当に申し訳ありませんでした。どうですか、フランツさん。大統領とお会いになっては」


 広間に集まった幹部達を改めて見渡したフランツは、KGBの幹部の前で視線を止めた。


「ノースという男が君らの所に居るだろう。今、どこにいるんだ? 彼は兄の知り合いでね。折角だから、顔を見ていきたいんだが」


 特別顧客ノースに近いKGB幹部の表情が一気に曇った。ノースは国外だけではない。事情を知るクレムリンからも粛正を急かされていたからだ。幹部は素早くフランツにアイコンタクトを送ると、部下に指示を出した。


「フランツ氏を国賓用のホテルにご案内しろ」





 ◆





 キングのマンションでは、クロエが菓子を頬張っていた。施設の職員から狙われた彼女は、セツコ・モリシタと共にこのマンションへ避難していた。久しぶりの英語TV。夢中になって料理番組を見る彼女の側で、エマとセツコが話をしていた。


 湯気の立つブラックコーヒーを前に、セツコが新聞を広げた。


「しかし、とんでもない事になっちまったね。日本で冷戦崩壊はそこまで大事になってない。けれど、こっちは大変だろう」


「こちらもそこまでは。我々庶民にとって、身近な問題ではありませんから。それより、フランツ様が気がかりです」


「拘束されたのは、特別顧客の差し金と言ってたね。どうだい、エマ。私がオリヴァーと直接話をしようか?」 


 慎重に言葉を選んでいたエマが、金髪の後れ毛を耳に掛けた。


「セツコ所長はずっと仰っていましたよね。ヘッゲルに復讐するより、未来を見て生きろと。所長の言葉通りになりました。オリヴァーは既に死んでいると、坊ちゃんが」


「特別顧客絡みで粛正されたのかい?」


「いいえ。オリヴァーの息子……坊ちゃんのお兄さまが手に掛けてしまったようです」


「今の特別顧客称号者か。負の連鎖としか言い様がない。言葉にならないよ。どうしようもない所まで来てしまった」


「負の連鎖とは……親殺し、ですか?」


 今度はセツコが言葉を選ぶ番だった。首を振り、所在なさげにポケットの煙草をまさぐる。重苦しい沈黙が流れ出したリビングで、無邪気な声を上げたのはクロエであった。


「ねえ、エマ。キングはどこにいったの?」


「ジョージさまを助けに向かわれました」


 大粒の黒い瞳を輝かせたクロエが、笑顔で二人の元へ駆け寄ってきた。


「ジョージ! いつ帰ってくるの?」


「上手くいけば今晩にでも」


 急に落ち着きのなくなったクロエは、両手をギュッと握りしめるとキッチンに目をやった。


「トーフ! トーフのスープ作る! ジョージに食べて貰うの」


「クロエは本当にジョージが大好きだねえ。施設でもジョージはすっかり有名人になっちまった。クロエがあんまり話すもんだから」


「だって、ジョージは私のパパだもん」


「……本当のご両親の事は?」


「ごりょうしん?」


 エマの問いかけにクロエがキョトンとした顔で見返した。親殺しで頭が一杯になっていたエマは、流石に問いかけが直接的過ぎたと口をおおった。


 クロエは壮絶な虐待を受けて、人身売買組織エデンに売られた。現在はブラックダイアモンドとして、命まで狙われている。


 しかしクロエは、昔の彼女ではなくなっていた。エデンの家でキングと再会した時の、怯えきったクロエではない。彼女なりに成長したのだ。


 とっくにゴミ箱へ捨てた記憶だと言わんばかりの表情が、幼い横顔を大人びて見せた。


「私を産んだ人たちの事? キングがやっつけたでしょ。もういいの。パパはジョージだもん」


 今更、取り返しがつかない。自らの犯した罪に耐えきれなくなったエマの目から、大粒の涙があふれていた。


 幼い頃に母親を亡くした彼女は、セツコの施設で育てられた。職員を親のように慕い、愛情に包まれて育ってきた。それなのに恨みを捨て去る事が出来なかった。


 逃げ出してしまえば良かったのだ。一切合切を捨てて、幸せを求めれば忘れられたのだ。今のクロエのように。母親から頼まれてもない復讐に囚われて、いつしかそれだけが生きるよすがだと勘違いをした。


 フランツに近づいた時、エマは彼に父親を見た。同じ血を分けた兄弟でもここまで違うのかと、感動すら覚えた。あの時、全てを打ち明けていられたら。彼は慈愛を持って受け入れただろう。


 ただ、エマは父性と同時にフランツを


 混乱をした彼女は、復讐にすがりつくしか手段がないと思い込んだ。誰にも相談が出来ないと自分を追い込んでしまったのだ。


 ついに突っ伏して泣き始めてしまったエマの頭を、クロエが優しく撫でた。


「エマにもパパがいるの?」


「ええ。でももう、パパになってくれないかもしれない」


「だいじょうぶ。ジョージは、私が悪い子でも大好きって言ってくれた。エマは優しいでしょ。だから、パパもきっと優しいよ」


 せきったように懺悔をしながらえつするエマ。そんな彼女を見ていたセツコが覚悟を決めた様子で呟いた。


「負の連鎖ってのは、先の大戦からの話さ。いい加減、私も向き合わなきゃならない。もう、子供達が苦しむ姿を見たくないんだよ」

 




 ◆





 州都市部の地下下水道。網の目のように張り巡らされた中を、キングとカインが走っていた。


 よく太った鼠が汚物まみれの通路を、我が物顔で走り回っている。頭の上に振ってきた鼠を払いのけたキングが不満げに訴えた。


「ねえ、カイン。ここでの移動は、僕が君を抱きかかえて飛んだ方が早いよ」


「お前、自分の顔がヨシュアと瓜二つなの忘れてんだろ」


「あ……そっか。ごめん」


「そっかってお前……アンナを目の前にして勇んでるのは分かるけど」


 それまでせっかちに歩みを進めていたキングが、急に立ち止まってしまった。レイラには言えない事があったのか、煮え切らない様子で大鎌をしきりに触っている。振り向いたカインは、腰に手を当ててその姿を眺めていた。


「あの……さ。アンナがやっぱり兄の側に居たいって言ったら、どうしよう」


「レイラが聞いてたらブチ切れそうな話だな。奪いに行かないのかって」


「カインはレイラが奪いに来たから良いじゃないか」


「ぶん殴るぞ、お前。俺が恥じてないと思ってんのか。身重のアイツに無理させたんだ。アンナを愛してないのかよ」


「愛してるよ! だから……怖いんじゃないか」


 カインは暗闇の中で手を伸ばすと、強引にキングの手を引いた。再び、下水道を走り始める。迷いが生じて身体を硬直させたキングに、ぶっきらぼうな声が飛んできた。


「俺は今のお前が嫌いじゃない。頭でっかちで臆病なお前がな」


「なにそれ。全然、嬉しくないんだけど」


「正義の味方ぶって、自分がない頃のお前は嫌いだった。でも今は仲間だ。取り返そう、アンナとジョージを。な、


「……名前を呼んでくれてありがとう」


「全員が生き残る道を模索しよう。例の計画、俺は賛成してないからな。一人で抱え込もうとするなよ。これは先輩からの忠告だ。俺がそれで失敗したからな」


「フフッ」


「なんだよ」


「いや。結婚してから、本当にじようぜつになったなって。レイラの言った通りだ」


 カインが赤面して、キングの方を振り向いたその時だった。人の気配に二人が勘づいたのは。緊張が走って、直ぐさま臨戦態勢を取る。背中合わせで周囲を警戒していた二人は、気配がざんである事に気づいて武器を降ろした。


「あと少しでエデンの家だ。誰かがここを通って行った」


 ペンライトを点けたカインが、しゃがんでヘドロに残った足跡を照らした。足跡は裸足で子供くらいの大きさしかなかった。


「……子供?」


 ライトが照らし出す足跡は、スラム街の方へと続いていた。エデンが関与していない孤児はスラム街にもそれなりに居る。孤児が一人もいないスラム街など、組織的人身売買を疑ってくださいと言っているのと同じだからだ。


 特徴的な斜視を動かしながら、キングが語りかけた。


「レイラ、僕と視覚共有出来てるよね? これって誰の……レイラ?」


 レイラはアジトから姿を消していた。


 ここに来て、初めてその事に気づいた二人は顔を見合わせた。誰かにさらわれたのではない。レイラ自らが共有を遮断して、アジトから出て行ってしまったのだ。


「アイツを信じよう。今は救出が先だ」


 朝からずっと降り続けている雨の音が、地下道まで伝ってきていた。





 -つづく-

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