法王の思惑-Ⅲ

 ジョージが、ルルワの末裔まつえいの拠点である新聞社の一室にいた。麦角菌ばつかくきんの改良。ヨシュアから直接、指示を受けた仕事だ。新聞社は、今となってはしかばねの楽園でしかない研究所の代わりも担っていた。


 と言っても、偶像の能力を継承しているジョージに研究設備は殆ど必要がない。


 世界で最も広く流通している幻覚剤は、麦角菌ばつかくきんの研究から始まった。化学者の名は、アルバート・ホフマン。LSD生みの親である。


 麦と名についてる通り、元はライ麦などに発生する伝染性病害であった。


「フッ、今になって昔の夢が叶うなんてな」


 シャーレを手に取ったジョージが自嘲気味じちようぎみに呟いていた。眼球を前後左右バラバラに動かしては、菌をつぶさに分析する。彼は、父親が自死するまで医師を目指していた。当然、こういった生物学研究にも興味を抱いていたのである。


 無限の可能性に頭を悩ませていたあの頃。二度と戻らない幸せ。ジョージは涙が出そうになるのを堪えて、唇を強く噛み締めた。ふいにドアを叩く音がして振り向くと、眼鏡のマシューが立っていた。


「なんだ、また来たのか。お前、学校は?」


「行ってないよ。僕はやりたい事を見つけたからね。ルルワの末裔まつえいさえあればそれでいいんだ」


「けれども、こういう事に興味あるんじゃないのか? きちんと学びたいなら学校へ戻った方がいいぞ、マシュー」


「それはそうだけど。でも、ヨシュアさんが僕を必要としてくれてるんだ。学校なんて別にいいよ。あっ、これは内緒だからね。他の人はヨシュアさんを知らないから」


 それは違うだろう、と言いかけたジョージが口をつぐんでしまった。当然だ。彼の生み出すチョコレートボンボンがここを離れなくさせているのだから。


『何があろうと、をしたのはお前だ』


 セツコ――ジョージの叔母と名乗った老婆の言葉が耳から離れない。


 ジョージはあれから、エデンの家に戻ってに出た。結果、犠牲と引き換えに健康な身体を手に入れた。こうして研究に着手出来ているのも、凄惨せいさんな犠牲があってこそだ。


「キングも仲間に入ったらいいのになあ。僕の親友でさ。めちゃくちゃ勉強が出来たんだ。飛び級の話も、学校に通う時間が少なくなるって蹴ったんだよ! すごいよなあ。アイツ、元気にしてるかな」


 何気なくマシューが放った台詞で、ジョージは完全に固まってしまった。


「キング?」


「うん。死神なんだよ、アイツ。前に通ってた高校で銃を乱射したヤツがいてさ。アンナさんと一緒に助けて貰ったんだ。あっ、これも内緒ね。ヨシュアさん、名前を出すと不機嫌になっちゃうんだ」


「当然だろう! あんな裏切り者!」


 ジョージの荒らげる声でシャーレが木っ端みじんに砕け散った。何が起きたのか理解出来ないマシューに顔を近づける。ジョージの吐息で眼鏡が曇った時、彼の本能は逃走を選択した。後ずさって壁にぶつかってしまう。


「裏切り者ってどういうこと?」


「アイツは俺ではなくステファンを選んだ!」


「人身売買の件? 意味が分からない。だって、ヨシュアさんはステファン大統領の参謀さんぼうなんじゃないの? ルルワの末裔まつえいも大統領からお願いされたって言ってたよ」


「あの兄弟は……」


 ――呪われている。

 

 だからこそ、ヨシュアは混沌こんとんのメシアなのだ。

 あのお方しかいない。

 この俺を地獄から救ってくださるのは。


 ……本当にそう思ってるか?



「うるせえ!」


 瞬間、ジョージの脊髄せきずいからおびただしい量の血が噴き上がり、触手を形作った。腰を抜かしてしまったマシューに、触手が今にも襲いかからんと病的なうねりをみせる。


「直接、キングに聞いてみたらどうだ。アレは、特別顧客から全てを奪った」


「へ?」


「あの二人は兄弟だ。死神の力はヨシュアが持つべきだったんだ。それを弟のアイツが全て奪った!」


 割れたシャーレが宙を浮き、麦角菌ばつかくきん変容へんようを遂げながら霧のようにジョージを包み込んでいた。

 




 ◆





 州都市部にあるダウンタウン、更にそのスラム街と呼ばれる区画をセブンが歩いていた。


 エデンが作られる前は、ここにアダムの子達が集められていた。スラム街と名がついているだけに治安が非常に悪い。子供をさらう者が後を絶たず管理が難しかった為、現在の形に落ち着いた経緯を持つ。


「ヨォ! そこの兄ちゃん! 男前だねえ、いい女がいるぜ。買ってかねえか」


 セブンの眼前に立ちはだかった男が、揉み手をしながら笑っていた。飲み屋とも呼べないようなバラック小屋から、一目で薬物中毒と分かる女達が媚びた視線を浴びせる。


「いい加減、顔を覚えろよ。おっさん」


「なんだ、アンタか」


「居るか? 例のガキは」


 フラフラと出てきてしまった娼婦を殴りながら、男が値踏みをし始めた。


「居るぜ。なあ、兄ちゃん。もう少し金払ってくんねえか。他の客はつけるな、だろ? この街には目利めききが多くてヨォ。極上品は、噂も広まるのが早くってね」


 最近のヨシュアは暇さえあればカインだ。呼ばれたかと思えば、ただ見ていろと言われる。しかも、必ずジョージが同席だ。「だって君はカインを殺してしまうじゃないか」それがヨシュアの口癖だった。セブンが嫉妬に狂えば狂うほど、あるじの歪んだ性欲は満たされた。


 彼は自身の満たされなさを、慣れ親しんだ街に求めるようになっていた。


 舌打ちをしたセブンが100$札の束を投げつける。にやけた男は札束をポケットにしまい込むと、もったいぶった仕草で地下へと案内した。


 地下の一室に居たのは、ヨシュアと瓜二つの少年だった。




 少年はブルネットの髪にサファイアブルーの瞳を持ち、見ているだけで鳥肌が立つほど美しい顔立ちをしていた。加えてこのスラム街にはおおよそ似つかわしくない、しなやかな肢体したい


 ヨシュアの幼少期を知らないセブンにとって、その出会いは運命と言って良かった。


「他の男どもに身体を売ってないだろうな? 薬は? 変な事をされたら直ぐに言えよ」


 少年は小首を傾げて微笑んだだけだった。安電球の下では青白くさえ見える肌を預けて、セブンの耳元に唇を寄せる。そんなふとした振る舞いですらヨシュアとよく似ていて、セブンはたった一日で少年のとりこになった。


「僕にはセブンしかいないんだよ、愛してる」


「ああ、俺もだ。なあ、いつもの姿になってくれないか」


「いいけど……大丈夫なの? 僕、殺されないかな」


「大丈夫だって。あのお方は、俺がどこで何してようが興味ねえよ。監視もついてねえ。カインってのに夢中でな」


 頷いた少年は脊髄せきずいから真っ赤な羽を広げると、一瞬でその姿をヨシュア・キンドリーに変えた。


 姿だけではない。てつくような目元と残忍な微笑み、手を叩きながら歩き回る仕草までそのものだ。セブンが見渡すと部屋も様相ようそうを変えていた。大理石の床と執務机。壁には大きな振り子時計が、いつも通り時を刻んでいる。


 執務机に寄りかかって、魅惑的な視線を送るヨシュア。


 堪らず押し倒してきたセブンに、少年は欲望の全てを叶えてやった。官能的なため息を漏らしたセブン哀願あいがんする。


「こんな所から離れて、俺と一緒に暮らそう。愛してる」


「けれども君は、カインを殺そうとするじゃないか」


「……えっ?」


 違和感を抱く間もなくセブン脊髄せきずいには、キングの触手が深々と突き刺さっていた。

 

 



 最初からそうだった。彼の欲望は脳内でのみ具現化ぐげんかされる。キングはセブンの動向をずっと見ていた。隙が生じるとするならば、セブン。彼の病的な独占欲は、この状況に耐えられない。


 セブンがスラム街をうろつき出した時、キングは躊躇ちゆうちよなく一帯の記憶を奪った。巨大な蜘蛛の巣を張ったのである。その晩には獲物の方から引っかかりにやってきた。


「しかし悩ましいね、セブン。ブラックダイアモンドはレイラが持っている。あの首をおびき寄せるには、カインがどうしても必要なんだ」


 血で形作られた触手が奇妙な動きを見せる。その度にセブンかりめの快楽に溺れて、目の前の人物をヨシュアそのものと認識した。


「カインを別の場所に移しましょう。そうすれば、貴方は私しか見なくなる」


「ようやく気がついたのかい? 全く、君はこれだから」


 革靴の先がセブンあごを撫でまわす。その凍えきった声色に、彼の脳は完全にヨシュアと認識した。触手が更に奥深くへと突き刺さる。


「ああ……特別顧客! もうあんな事は止めてください。私には貴方しかいないんです」


「私に忠誠を誓うなら行動で証明を。褒美はその後だ」


 着替えもそこそこにスラム街を飛び出していったセブン。彼はマンホールの蓋を開けると地下道を抜け、研究室直通のエレベーターに向かって走って行った。





セブンを例の場所へ誘導する。ノースの部下達は僕の援護を。レイラ達は、オリヴァーとアンナの救出を頼む」


 切り取られたフィルムと化した一帯でキングが告げる。既に入国していたメンバーが、プルトの放つ周波数を通して作戦の全貌ぜんぼうを聞いていた。


 死神の姿に戻ったキングが指を鳴らした時、スラム街の記憶から少年が完全に姿を消した。


「因縁の場所か。今すぐセブンを殺してやりたいけど、仕方ないわね」


「ああ。ヨシュアは必ずその手で取り返しに来る。兄は誰の事も信用していない。偽のカインだけは掴まされたくないだろうね」


「確かに。キンドリー邸が手薄てうすになるのは、その間だけね。上手くやれるかしら」


 レイラの懸念もまた事実だった。ヨシュアであれば直ぐにでも偶像の力が発揮された事に気づくだろう。

 

「ジョージ……というより偶像なんだろうけど。彼女は、僕がステファンのホログラムを上書きした事に気づいてない。こちらで操っている州警察についても同様だ」


「遺伝子が同じであればエラーと認識しない、か。いかにも偶像って感じね。州警察の犬は引き続きこちらで借りるわ。中が丸見え」


「それでは始めよう」


 キングによる作戦開始の号令に、それぞれが持ち場所へ向かって姿を消していった。





 ◆





 ヨシュアが気づいたのは、キングの合図から実に3時間後の事であった。辻褄の合わない話を繰り返すセブンに椅子をぶん投げる。ヨシュアはセブンを殺してやりたかった。しかし、貴重な戦力である彼を今はまだ殺せない。


 腹心ふくしん二人があまりにも頼りないので、州警察に残ったトロイが珍しく同席していた。


「ジョージ、コイツの頭を元に戻せないのか?」


 ジョージの爪先から血の針が伸びて、セブンの眉間を貫いた。幻覚の発生源と思われる視床下部ししようかぶを中心に探るが、結果は芳しくなかった。


「偶像の力は掛けていくだけだ。解く力を持ってない」


「クソッ! 偶像、どういう事か説明しろ!」


 しかし、偶像は沈黙を貫いた。ジョージの意識は明瞭めいりようそのもので、困った表情を浮かべながらセブンを見つめている。元々そういう死神なのだ。偶像の狡猾こうかつさを最もよく知るヨシュアが怒号を上げた。


「偶像! 貴様、いつかこうなる事を予見していただろ!」


 偶像の代わりに笑い声を上げたのはジョージだった。「セイカイ!」そう叫びながら、手を叩いて笑い転げている。異様な光景を目にして硬直する州警察よそに、涙ぐんだセブンがまた同じ話を始めた。


「確かに特別顧客がカインを別の場所に移せとおつしやったのです」


「スラム街の売春宿でか? 私がそんな場所に居る訳がないだろう! 居たのはキングだ。お前をはかったんだよ!」


「キングとは……誰です?」


「もういい! それで、本当にあの場所へ移したのか?」


「ええ、エデンの管轄だった場所です。オレンジの木がある、大火事の跡地でした」


「どうだ、ジョージ。君だけで奪還出来そうか?」


「無理です。ここまで力を解放されたら太刀打ち出来ません。特別顧客、貴方がおつしやった事ですよ」


「だったらいっそ死んで来い! とことん使えない男だな!」


 怒り狂ったヨシュアが、勢い余ってジョージを蹴り上げてしまった。頭を掻きむしり、父親の煙草に火をつける。みぞおちを押さえるジョージに一抹いちまつの疑念が浮かんだのを、今の彼には捉えるだけの余裕がなかった。


 畳みかけるように、今度は別の案件が追い打ちをかけてきた。電話のベルが鳴って、受話器を取り上げたヨシュアが応対おうたいする。その内容に、彼は煙草の灰がすっかり落ちてしまった事にすら気づかなかった。


「レイラが特別顧客に承認された」


 同席していた部下がおずおずと問いかける。


「では、あの女の首は……」


「ああ。誰にも手出し出来なくなった。死神であってもだ。こうなったらカインだけは何が何でも取り返してやる!」


 興奮しきっているヨシュアをなだめようと、ジョージが努めて冷静に声を掛けた。


「特別顧客、少し落ち着いては如何いかがですか。結界の様子がおかしいんです。これではキングの思う壺だ」


「ジョージ如きが私に意見をするな! 現場の指揮は私がる。セブンの記憶を現場で上書きしろ。コイツのチェーンで直接、死神の首を取る。分かったら、さっさと行け!」


 あまりの言いようにジョージの目元が悲しく揺れる。しかしヨシュアは、その事に一切気がつかなかった。





 執務室がある高層ビルにほど近いダイナー。その裏手では、潜伏していたレイラが必死に笑いを噛み殺していた。隣に座るプルトもおかしそうに口元を押さえている。執務室にいる州警察は、とっくにキングの操り人形となっていた。


「あー、いい気味。何が私に意見をするなよ。裸の王様じゃない、恥ずかしい男。キング、そっちはどう?」


「今、カインの処置が終わった所だ。からりに気づかれてしまった。オリヴァー達を急ぐよう促してくれないか」


「そうね。ファイルは別の犬が持って来たわ。プルトに渡したわよ。てか、アンタのお姫様がごねてんだけど。こうなったら力尽くで連れ去るしかないわね」


「頼む。説得は後から僕がする」


「りょーかい」


 操り人形の手によって、盗聴器がすり替えられたのは数日前。偽の情報を信じていたヨシュアの代わりに、州警察らの目はその一部始終を垂れ流していた。


 レイラは軽口を叩くと、視覚を執務室から上の階へと切り替えた。





 ヨシュアが執務室で怒りを爆発させていた頃。キンドリー邸のあるフロアでは、オリヴァーとアンナの言い合いが繰り広げられていた。部屋の外では、操り人形と化した州警察が既に待機している。


「どうして私だけなの? 父さん」


「シッ、大声を出さないで。私はホワイトハウスに居る事になっている。頼む、アンナ。言うことを聞いてくれ」


「嫌よ。父さん、死ぬ気でしょ。兄さんがああなった責任は、私にもあるわ」


 オリヴァーが改めてアンナの肩を抱く。その目には哀れな男の悲哀が込められていた。今更こみ上げてくる想いを何とか断ち切らんとする、ごくありふれた弱い男。


「お前は試験管で作った子だ。本来ならば見えていた世界を奪ったのは私だよ。器としての適合性を高める為に、遺伝子も操作した」


「そんな事、ずっと前から知ってたわ。モリシタ所長が亡くなる前に打ち明けてくれたの」


「なら私がどんな人間か分かるだろう。良心の欠片もない、人を物としか見ていない化け物だ」


 お願いだから騙されてくれ。そんな父親の期待をアンナがけた。

 

「嘘は止めて、父さん。エヴァでしょ? 彼女の事があったから、私達と向き合えなくなった。怖くなったのよ」


 レイラの操作する男が部屋に入ってきた。男はオリヴァーに目配せすると、背後からアンナの口を塞いだ。暴れる彼女を抱きかかえる。同時に時間がない、と時計を指さしてみせた。


 作戦が始まったのだ。


「ヨシュアは行ったのか。非常用のエレベーターを使え。私はここに残る」


「作戦に狂いが生じる。要求は認めない」


「お願いだ、キング。お前も視覚を共有しているだろう。何一つ、父親らしい事をしてやれなくて済まなかったな。最後に話が出来て良かったよ。アンナを頼む」


 瞬間、どこからか乾いた銃声が響き渡った。男が血を吐いて倒れ込む。アンナも床に投げ出されて、頭を打ってしまった。部屋に立っていたのは、キングが生まれた集落へ向かったはずの息子。ヨシュアだった。


「記憶の上書きで気がつきました。ホログラムもだ。いつからです? 父さん。いつから、キングに寝返ったんですか」


「言うつもりはない。ヨシュア、お前の称号剥奪が決定した」


 血だまりが広がる中、よどんだ沈黙が親子の間を流れてゆく。アンナはぜん、気を失ったままだ。


「……どうして?」


「一緒に死のう、ヨシュア。私にはもうそれしか……」


「どうして皆、僕から離れていくんだよ!」

 

 切り裂くようなヨシュアの悲鳴が居室内にこだました。次の瞬間、オリヴァーの眼前を偶像のナイフが振り下ろされていった。






 -次エピソード『力:パワー』へつづく-

 

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