法王の思惑-Ⅱ
大統領執務室では、引き続き二人の対話が行われていた。キングが魔術師との経緯を語った時、オリヴァーが
オリヴァーにとって最大の誤算。それは、ジョージの登場であった。
こんな事になるとは誰も考えていなかった。目的はあくまでクロエの強奪。一時期はヨシュアですら
話し終えてため息をついた肩が、一層老いて小さくなる。
「今にして思えば、偶像がそれを知らない筈がないのにな。アレは意図的に、お前とジョージの存在を隠していた」
「後から判明した方が面白いから。そんな所でしょう、あの死神が考えそうな事です」
「放射線完全除去装置。それがノブヒコ・モリシタの目的だったんですね」
「ああ。彼は優れた科学者でもあった。チェルノブイリ原発事故を予見してたのもノブヒコだった。誰もマトモに取り合わなかったんだ。彼は自分を責めていたと思う。研究所に入った時、既に膨大な研究データを持っていたんだ」
「誰からも取り合ってもらえない。そこに偶像がつけ込んだ」
「だろうな」
オリヴァーが額にしわを寄せて煙草の吸い口を噛むと、煙が
「ブラックダイアモンドの中身は、人類史だ。
「ジョージにはその話を?」
「いいや。話が噛み合わないんだ。ステファンの事も勢いで殺してしまった」
「……父さん、貴方はセツコ・アイザワと知り合いですね」
「ああ。と言っても、彼女は脱退してから我々との関わりを絶ってる。若い
「彼女の旧姓はモリシタ。ノブヒコの姉です」
「どうして私は、ノブヒコの話に耳を傾けなかったんだろう。もっと話をすべきだった。訴えを真剣に受け止めるべきだったんだ。ノブヒコを追い詰めてしまったのは、私も同じだよ。彼は人間の死神化に乗り気じゃなかった」
「しかし、それもエヴァの奇跡で全てが狂った。違いますか? 父さん」
再び涙し始めたオリヴァーは、キングの足下に
「キング、頼む。愚かな私達を救ってくれ。ヨシュアは、ブラックダイアモンドの真実を世界に開示する気だ。情報は資源以上の価値を持つ。このままでは取り返しのつかない戦争が起きる。私にはもう……息子が理解出来ない」
「クロエを巻き込む事にジョージは賛同しているんですか?」
「分からない。しかし、ノブヒコが彼を隠した理由なら分かる。ブラックダイアモンドを隠した意味もだ。今更だがね。彼なりに守ろうとしたんだろう。我が子と人類を」
キングはオリヴァーに手を差し伸べると、彼を優しく立たせた。目を
「僕には三人の親がいます。貴方とエヴァ。そして偶像です。僕は、あの死神を否定し続けてきた。けれど、それももう終わりにしないと」
「殺すのか、ヨシュアを」
「はい」
「ファイルを君に託す。お願いだ、キング。アンナを連れて逃げて欲しい」
暫く黙って佇んでいたキングは、ただ静かに頷いた。彼の後ろでひときわ大きく光が輝きだす。我が子に神を見たオリヴァーは、自分が最後に果たすべき責任への決心を固めた。
◆
州都市部の高層ビル。キンドリー邸にある一室で、ジョージがもう何度目になるか分からない自死を試みていた。ヨシュアから告げられた真実が、
『ああ、事故で死んだと言った子供だけどね。あれ、
自らの武器を手に取って、首を
病院の死体安置所へ行っては、クロエのためと言い聞かせて血肉を頬張る日々。けれども、死体とそうでないものとでは英気の養われ方に、断絶と言って良い
「死神は自殺が出来ない。いい加減、学習したらどうだい? ジョージ」
最低限の仕事だけはこなして欲しいヨシュアが、
「まあ、君は人間だから。生きた人間をそのまま食えとは言わないよ。これは臓器移植用のものだ」
「本当ですか? 特別顧客」
「うん。この間は悪ふざけが過ぎた。謝罪するよ。お詫びにと言ってはなんだが、君専用のストックを作った。今からそこに案内しよう」
「ありがとうございます。場所はどちらに?」
「エデンの家を覚えているだろう。あそこの地下だ」
ジョージが今更のようにキングとの
あの時、キングが「助けてくれ」と言ってこなければ。いいや、そもそも俺の前に現れなければ。こんなに惨めな思いをせずに済んだのに。
憎しみがもたらすアドレナリンは、彼の弱った身体に良く効いた。歯ぎしりをしたジョージは、黒マントにヨシュアを包み込むとエデンの家に向かっていった。
「……どういう事ですか? 特別顧客」
「だから、君専用のストックだと話しただろう。摘出手術くらい、自分でやってくれよ」
エデンの家。かつてレディマムが子供達を洗脳し、売買していた地下。そこで幽閉されている人々を最初、ジョージは認識が出来なかった。栄養状態が悪いからではない。あまりの事に脳が処理を拒否したからだ。
中にいたのは、姿を消したとされるルーカス達だった。点滴をぶら下げたナースが這いつくばって
「私の臓器を使ってください。どうか、先生と子供達だけは見逃してくれませんか」
「別に構わないよ。どのみち次で君は死ぬだろうから」
部屋の奥では、ルーカス達がテレビを眺めていた。そこには感染症の治りが悪かった少年、キングからイーサンと名付けられた子供の姿もあった。ジョージの視線に気づいた医師が慌てて扉を閉める。
医師の目には明確な敵意が込められていた。
「貴様か。仲間の摘出手術を私にやらせて、人の血肉を喰らっている悪魔は!」
「ちょっと待ってください。俺は……」
どうしてこんな事になってしまったんだ。
もしかすると、俺が全部悪いのか?
助けてくれ、クロエ。
クロエ……クロエ、クロエ、クロエ、クロエ、クロエ、クロエ、クロエ、クロエ、クロエ、クロ……
「あれ? 個体を維持出来ないなんて話、偶像から聞いてないよ」
全身が溶けだしたジョージは、あっという間に蒸発して姿を消してしまった。果てしない空間の中を
◆
クロエとセツコは漁港にあるスーパーへ買い物に来ていた。機関誌を手にしたセツコがさりげなく周囲を警戒している。
ルルワの末裔が発行した機関誌は、海を渡ってここ長崎でも配布され始めていた。
「ジョージってトーフが好きだったの。私も作れるかや? トーフの料理」
「そうだねえ。帰ったら冷や奴の作り方を教えてあげよう」
職員達が持っていたのを偶然見つけたまでは良かった。がしかし、この手のものが教会を通してこないのは初めての出来事だった。職員はドライフラワー教室で機関誌を貰ったのだと言う。
一見すると、ごくありふれた自然療法誌にしか見えない。だが、興味を引くワードが巧妙に散りばめてあるのだ。そのやり口はセツコにとって馴染みの深いものであった。謎解きと真実は人々を熱狂させ、確実に
最も信頼の置けるルビーの不在は痛手だった。かと言って、ポーランドから戻れとも言えない。エマ――思わず口にしかけたセツコの前で、クロエが買い物袋を振り回した。
「ダメだよ、クロエ。それじゃあ、豆腐が崩れちまう」
「ありゃ」
「クロエ……」
突如現れた異形に、セツコの警戒心が最高潮に達した。
しかし、クロエは違ったようだ。その声に聞き覚えがあると全身で訴えながら、懸命に小さな身体を
「ジョージだ! ジョージが私を迎えにきたんだよ!」
セツコが改めて声の主を
目が覚めた時、ジョージは長崎にいた。彼は米帝で生まれ育っており、日本を知らない。しかし、街ゆく人々と懐かしい匂いで直ぐにここが日本だと分かった。彼は港を眺めながら、とある決心をしていた。
クロエと二人、どこかでひっそりと暮らそう。
もう疲れた。
ジョージはボロボロの身体を引きずって、クロエを探し回った。彼女はキングの結界内にいる。分かりきっている筈なのに、探すのを止める事が出来ない。キングに許しを請おう。そう頭をもたげる度に、奇妙な違和感が身体の中を暴れ回った。
俺は空っぽだ。
どうしてステファンをあんなに憎んでいたのか。
今の俺にはそれすら分からない。
胃を押さえた、その時だった。最愛の声が聞こえてきたのは。
「ジョージ!」
目の前には、別れた頃よりも成長したクロエが立っていた。すっかり女の子らしくなって、栄養状態の良い頬は丸く艶を帯びている。ジョージは、全身全霊で彼女を求めた。
ああそうだ。
俺にとって一番大事なのは――
「……誰? この人、ジョージじゃない」
クロエから見たジョージは、辛うじて人の形を留めている異形だった。そこかしこが崩れ落ち、
「嘘だろ……俺だ、ジョージだよ」
怯えたクロエがセツコの
俺は頑張ってる。
報われて当然なんだ。
なのに
どうして俺を認めないんだ、クロエ。
俺は真実を知っている。
結局は、お前だって同じだ。
俺からこれ以上奪うな。
認めろ。
そうでないなら……
今すぐここで、ぶっ殺してやる!
「クロエ! どうしてあの時、家に戻ろうなんて言った? どうして穴を覗いたりしたんだ! 俺を地獄へ突き落としたのはお前だ! 死ね!」
憎しみからはアドレナリンが放出される。
クロエに襲いかかろうとした正にその時、どこからか強い光が放たれた。瞼のないジョージが
光の出所は、セツコの額だった。背後から時空の切れ間が顔を覗かせ大きく口を開く。
ジョージの叫びは届いていなかった。クロエの耳を塞いだセツコに憐れみの色が宿る。
「何があろうと、
「貴様は何者だ! 死神か?」
「私は、お前の叔母だよ。可哀想なジョージ」
叔母。
天涯孤独だと思い込んでいたジョージは、その言葉に
嘘だ。
嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘……
何もかも嘘だ!
「
セツコはそれだけ言い放つと、クロエを連れて時空の切れ間から姿を消していった。
◆
「時間がないんだ、手短に頼む」
「こっちだって好きでアンタを呼んだ訳じゃないのよ」
キングは、ソビエトにあるノース達のアジトへ来ていた。彼に時間がないのは本当だった。プルトが現れたのは、オリヴァーとアンナ救出の算段をしている最中だったからだ。魔術師に弟がいたという
キングとレイラを含む特別顧客達で、ざっとした情報共有が行われた。
カイン、アンナ、ジョージ、オリヴァー。
誰を選んでも一刻の猶予を争う。ヨシュアの並外れた時間配分能力に、全員が頭痛を覚えていた。現存する特別顧客の最古参ノースですら、こめかみを揉まずにはいられなかったほどだ。キングとて例外ではなかった。
そんなキングに眉をひそめたレイラが、メモを投げつけた。それは、ノブヒコ・モリシタが残した
「最初からジョージは辻褄の合わない発言を繰り返してた。オリヴァー達の前でも同様だったらしい。まさか、父親からそんな事をされてたなんて」
「偶像なら良かったっての? 違うでしょ。アンタは洗脳に囚われ過ぎだわ、キング。何一つ、カインを拘束して良い理由にならない。クロエの失敗をいつまで引きずるつもりよ」
「まあ、落ち着け。レイラ。こちらは称号剥奪を急ぐ。ヨシュアは深刻な脅威だ」
肩に置かれたノースの手を邪険に振り払ったレイラが睨みつける。
「手続きの
「直接討つにしても、ジョージが味方をしている限り無理だ。僕が称号者という話も前提に動いてるだろうね。どうだろう、ノース。レイラとプルトを特別顧客に立てては」
話をずっと聞いていたノースの部下。眼鏡をかけた神経質そうな男が悩ましげに呟いた。
「ここまで来ると、そういうフェーズはとっくに過ぎてるように感じるんだよな」
「特別顧客なんかどうでもいい。何が何でも戦争したいって感じじゃない。そのヨシュアってやつ」
プルトの無邪気な一言で、一気に部屋が沈黙した。どこから辿っても『元はと言えば』に
「ステファン大統領で冷戦を終結する算段はついていた。残りは既得権益の配分のみ……いや、それすら計算か。あのクソガキ!」
「ジョージの能力は人間のDNAを注入すれば弱体化する。でも、彼がそれに持ちこたえられるかどうか」
立ち上がったレイラが乱暴にキングの胸ぐらを掴んだ。
「ジョージジョージうるっさいのよ、さっきから! カインが何をされているか、分かって言ってんでしょうね! 見て見ぬふりしてるクソクズなんて、勝手に死んだら良いんだわ!」
言い終わるやいなや、レイラの身体が急に崩れ落ちた。口元を押さえて嘔吐し始める。「ウォッカなんか飲みやがって」と舌打ちをしたノースが、医師を呼ぶよう手配した。
レイラの背中に手をかざしていたキングが、突然目を見開いて身を硬くした。直ぐに振り返ってプルトに部屋の温度を上げるよう指示を出す。
「飲み過ぎただけよ、ウェッ」
「レイラ。君の身体……」
「説得は無駄よ、キング。私も前線に出る……ウッ。この手で取り返さなきゃ気が済まない」
キングは立ち上がると右目を
「今、身体からアルコールを抜いている。出血は少量だ。処置は僕が行う。ノース、医師は呼ばないで良い。それから、彼女を特別顧客に。少なくとも現存の制度内では、兄はレイラを殺せなくなる」
ようやく
「分かった。急ぎ彼女の特別顧客入りを承認しよう。ところでキング。君は能力を偽っていたのか? それともヨシュアが報告書を
超然とした面持ちでノースの方を振り向いたキングが、
「
全ての血がキングの中に収まった時、彼は完全な別人となっていた。
「偶像の力で全員を
「兄ちゃんの力を使えばすぐじゃん。ねえねえ、その見た目ってさあ……大人になったの?」
「ヨシュアは、魔術師の力を使わせたがっている。けれども兄は、僕の中にどれだけの偶像が在るかを知らない」
不思議そうに指を
-つづく-
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