塔の住人たち-Ⅳ
州都市部、高層ビルの一角にあるヨシュア・キンドリーの執務室。
珍しく執務机の椅子に腰かけたヨシュアが恍惚とした表情を浮かべていた。机の下で忙しく働く
もう1時間は奉仕してもらっているだろうか。
いい加減、ふやけてきそうだ。
ヨシュアは天井を見つめながら、あからさまに飽き始めていた。
どれだけ媚びた快楽を提供された所で、思い浮かぶのはあの瞳。
ため息をついたヨシュアは、
「……
「はい」
「ふん……前よりは良い男になったんじゃないか? そのケロイド、似合ってるよ」
ヨシュアのためだけにしつらえた革靴が
それでも目立った外傷がその程度に収まったのは、
「貴方様からそのように仰って頂けるとは。私の全ては貴方の物です、
「ふうん、そう。あ、そういえば君さ。死神の顔を私だと言いながら潰してたそうじゃないか」
「あの……それはその……」
革靴のつま先が
「私はね、犬が嫌いなんだ。臭くてかなわない。けれども、狂犬は別だ。言ってる意味が分かるかい?
言葉の意味を理解出来ない
「君のボスは狂犬だったよ。実に素晴らしい鳴き声を聞かせてくれた――一生、飼い殺しにしてやりたいくらいのね。私にそこまで思わせたんだ。すごい事だと思わないか?」
火傷さえなければ上背のある美青年として街に溶け込み、ガールハントでもしていそうな容姿をした
「カインなんてあんな男……貴方には似合いません。止めてください、
「ほぅ。それでは、私をもっと悦ばせてくれないとな。君はカインを超える狂犬になれるかな?」
「狂犬がどうしたって? ヨシュア」
執務室の入り口に立っていたのは、父オリヴァー・キンドリーであった。余程、腹が立っているのだろう。入るなり、上質な革でなめしたソファーを思い切り蹴り飛ばした。その足でツカツカと歩み寄ってくる。
またかと言わんばかりのヨシュアが、スーツの乱れを直しつつ椅子から立ち上がった。
「何かお気に召さない事でもありましたか? 私、ギプスが取れたばかりなんですけれども。
「構わないぞ。続けたまえ、
カチリ
リボルバーのトリガーに手を掛けたオリヴァーが、
ヨシュアは黙って両手を挙げると、スラックスの前を開けたまま椅子に座り込んだ。
◆
国境を越えた少し先にある人種をごった煮にしたような街。そこにキングたちは訪れていた。広場を中心にして街が放射線状に広がっている。フェスティバルかと見まがうような、色とりどりの屋台。石畳連なる通路では男がギターを片手に歌っていた。
キングは、通路を横断するタペストリーを興味深い面持ちで眺めていた。どれも同じようで微妙に形と色が異なる。
「すごい。こんなのテレビでしか見た事なかった」
「昔はこっちにもトロイがあったのよ。一時期いた事があるわ。カインの出身が確かこの辺りよね?」
「……そうだったっけ」
「アンタに聞くだけ無駄だったわ。戦闘バカだったの忘れてた。ホラ、この果物。カインの好物でしょ」
レイラは店先に立つ老婆へ小銭を渡すと、冷えたライチの入った
滅多に笑わないカインの口元も、ライチの味には逆らえず
「お前にもやるよ、死神」
「ごめんね。僕、果物食べられないんだ。口の中がギシギシして痛くなるんだよ」
「なんだソレ……ホント、腹立つなお前」
「放っておけば良いって、カイン。キングは昔っから面倒くさい所があんのよ……あ、いた!」
レイラがその長い足で石畳を駆け抜けてゆく。街を出た所にいたのは、里親とトロイの少年たちだった。里親は魔術師が、トロイはキューバの組織がそれぞれ保護していた。数台に分かれた大型トラックの上で、少年たちが手を振っている。
ちなみに、キングたちは
今回、レイラが掛けると言っていた保険。それは東側に付く事であった。上層部がきな臭い事になっているというレベルの話なら、レイラたちにも伝わってくる。その噂話にレイラは賭けた。結果はどうやら当たっていたようだ。彼女には、一種の鋭い肌感のようなものが備わっていた。
「お前が例のシニガミか?」
「魔術師から聞いたんだね。そうだよ、死神だ。キングって言うんだ」
隣にいたカインがレイラと里親を見つめながら、投げやりに合いの手を入れた。
「名前なんかどうだって良いだろ」
「君にだってカインって名前があるじゃないか」
「俺のはコードネームだ」
「だったら、今日からカインを名前にすればいい。君は兵器じゃない。人間だろ」
一見すると小柄で弱々しい少年にしか見えないキング。しかし、その真摯な眼差しはカインでさえたじろぐほどの迫力があった。サファイアを思わせる青い瞳。その目に宿る強さをカインは逸らすことが出来なかった。かと言って直ぐには肯定も出来ない。
言葉に詰まってしまったカインは、キングを見ているしかなかった。
「おや、キング。お友達が出来たんですか。初めまして。私、魔術師と申します」
上空から聞こえるその軽薄な声に、二人は視線を移した。照りつく太陽が眩しくて目をすぼめてしまう。大きなサボテンの上にいた魔術師がステッキをくるりと回しながら、シルクハットを手に取って
「レイラの里親さんを保護してくれたのが、この死神だよ」
「私にとっては最後の仕事となりました。死神らしからぬ事をするとは、いやはや」
「――……最後?」
突然の言葉に
僕の聞き間違いだったのかな。
キングがそう結論づけた直後だった。活気に満ちた声が近づいてきたのは。レイラだ。
デニムのタンクトップから、引き締まった腕を伸ばしたレイラが駆け寄って来る。彼女しては珍しくリラックスした笑みをこぼしていた。ようやく、背負っていた重荷を下ろせた。そんな清々しい表情だ。
「アンタが魔術師ね。ありがとう、里親とあの子たちの洗脳を解いてくれて」
「いえいえ、死神でも善行を
「良かったね、レイラ」
「ええ。
「そっか。そう言えば、レイラ。トロイでは洗脳されてた子とそうでない子が共存できてたんだよね」
「そうよ。それがどうしたの?」
「どうやって共存できていたのか知りたくて」
「簡単だろ。あんな偽物より、近くにいる母親の方が大事に決まってるじゃないか。特に俺たちは、今から死んでこいが当たり前の世界で生きてるからな」
会話の輪から少し外れた所でカインが呟いていた。そうするのが癖なのだろう。
キングの母エヴァ。彼女はキングが産まれた時には既に廃人であった。あの集落を出るまでに感じた母性と言えば、姉として慕ってきたレイラぐらいのものだ。
ポーランドの屋敷に足りてなかったのは、母性だったのか。
キングは、改めて己の経験不足を噛み締めていた。どれだけ書物を読み漁ろうとも、経験には及ばない。それが心の問題ともなれば尚更だ。けれども、キングは今回の出来事に希望を見いだしていた。
ヨシュアが僕に最も望んでいるもの。それは孤立だ。だからこそ、それだけは回避しなければならない。僕は自分が足らない事を知った。
人は、一人では生きてゆけない。
キング、レイラ、魔術師、カイン。それぞれが物思いにふける中、最初に口を開いたのはレイラであった。
「このまま私たちはキューバの組織と合流するわ。カイン、アンタはどうすんの?」
銃を磨いていた手が一瞬止まる。レイラを見つめるカインの瞳が
「……俺は戻る」
「もう良いんだよ、カイン。
「だからこそ、俺が終わらせてくる。せめて
「そう……分かった。待ってるわよ、カイン。絶対に生き延びて。それだけは約束してちょうだい」
目を逸らしたカインが頬を赤らめて
「それじゃ、またね。キング」
「うん、レイラ。君も元気で」
「ああ……そうだ。私、アンナに酷いこと言っちゃったのよね。今度逢ったら代わりに謝っといて。弟を取られたみたいな気持ちになっちゃって、つい。大人げなかった」
「分かった。今の
「ええ、いかにも。現在のヨシュアは最古の取引と
「兄は僕が必ず殺す。誓うよ、これは弟としてのけじめだ」
「分かったわ。
最後に強く手を握りしめたレイラ。彼女は歯を見せて笑っていた。太陽の光が豊かな黒髪と笑顔によく合う大粒の黒い瞳を照らす。そのまま
二人の後ろ姿を見送るキングの目元が自然と優しさで
「報告の遅れていた事がありまして。エマとも話をしたのですが」
「どうしたの? 魔術師」
「ジョージが消息不明になりました。キング、貴方がステファン大統領と会談した日からです。私の力をもってしても未だ、消息が掴めていません」
遠くでは、レイラたちを乗せたトラックの走り去る音が聞こえていた。
◆
ヨシュアの執務室では、引き続き緊迫した空気が流れていた。
オリヴァーの怒りは完全に常軌を逸していた。確かにオリヴァーは、怒りを暴力に訴えるところがあった。だがしかし、それはあくまでも机や椅子といった物に限られていた。
それが一足飛びに駆け抜けて、銃を持ち出してくるとは。
オリヴァーの怒りに欠片も心当たりがなかったヨシュアは、そのまま押し黙るしかなかった。
「気持ち良くしてもらいながら聞け、ヨシュア。連邦ビル爆破テロの件だ」
「ああ……残念ながら失敗に終わりましたが。犯行声明は出してあるので問題はないかと」
「鑑識から焼死体のDNA鑑定結果が上がってきた。女の死体はロシア人だ」
「どうせキングとか言う死神の介入があったんでしょう。どうしたんです? 父さんらしくもない」
「ハッ、実は死神がやりましたとでも今度は声明を出すのか? お前が気持ち良くなってる間にマスコミがまことしやかに流していた噂を教えてやろう、ヨシュア。『教団イブの庭にはソビエトが関与している』だ。これがどういう意味か知らんとは言わせんぞ」
オリヴァーの低い声が執務室に響き渡る。銃を持つ手には更に力がこもり、
「……申し訳ありませんでした。ソビエトへは今すぐこちらからフォローを入れます」
「いいや、必要ない。ソビエトとイスラムは
「と、申しますと」
「ヨシュア、お前の
オリヴァーの言葉を聞き終わらないうちにヨシュアが立ち上がった。着衣の乱れすら気にならない様子で、目が大きく見開かれている。彼は目の前にいる
ようやく事の重大さを理解したと判断したオリヴァーが、銃を下ろす。だが、その目は冷ややかなままであった。
「私がどれだけあちら側に掛け合って頼み込んだと思ってる。
青ざめた顔で唇を噛んだヨシュアが
『
死神キングの捕獲失敗
オリヴァーの再選直後に起こしたハイスクール銃乱射事件
そして今回の連邦ビル爆破テロ失敗とトロイによる
「大本の原因は何だ。言え、ヨシュア」
「――それは……」
「言えと言っているだろう!」
「悪いのはあの死神だ。キングのせいですよ、オリヴァーさん」
ヨシュア、オリヴァー、
オリヴァーは
彼らの背後でぼんやりと佇んでいたのは、痩せこけてぼろ切れのようになったジョージであった。彼は何がおかしいのか、狂気すら感じる微笑みを顔に貼り付かせたままだ。
とは言え。救いの手とはまさにこの事。たとえ相手が洗脳されきっている男であれ、この場をやり過ごせるなら何でも良い。
割り切ったヨシュアは、着衣を整えるとジョージの元へ歩み寄った。
「ご紹介が遅れました、父さん。モリシタ元所長の息子、ジョージです。来るなら連絡してほしかったな」
「――……? 気がついたらここにいたんだ。ここは……どこだ?」
「ちょっと待て、ヨシュア。確認をしていいか。モリシタってあの自殺した医師の事か?」
「ああ……貴方が。その節は父がお世話になりました。研究所でも何度かお会いしてますよね、オリヴァーさん」
幽霊にしか見えない動きでジョージが一枚の写真を差し出す。その写真を手に取ったオリヴァーは、ついに完全硬直してしまった。
モリシタ元所長、ヨシュア、それからこの男が映っている古い写真。これを撮ったのは……私だ。モリシタから、息子のジョージは実験に失敗したと報告を受けていた。実験の失敗。それはすなわち死を意味する。あの時はそれ以上の
「この写真を撮った男こそが、諸悪の根源です……これを撮ったのは
鼻から口周りにかけてこびりついた血液。それを拭おうともしないジョージが引きつった笑みを浮かべていた。
一方、現実という名の世界線。こちらでは、ステファン大統領が研究所を訪れたのはたったの1度。それも公式訪問のみであった。ジョージらが在籍していた時には大統領にすらなっていない。
突如、ジョージが独り言のようにブツブツと核心を語り始めた。
「
「――……どういうことかね? ジョージ君」
「このファイルに記載されていました。父は
「父さん、
もう1冊のファイルには初めて目を通すヨシュアも、にわかには信じがたい表情を隠せないでいた。
「作成者は
思わずファイルを奪い取ってしまったヨシュアが、凄まじい勢いでページをめくり続ける。
(XX年X月X日:アジア人遺伝子との適合率は『
(XX年X月X日:乳児(女)に挿入成功。
(XX年X月X日:
「すごい……モリシタ所長は解析をした上で、17年以上も前にチップの挿入にも成功してる。だとすると、現在の
「簡単な話じゃないですか、二人とも。もう一体の
血走った目のジョージが、何を言っているんだと言わんばかりに声を張り上げた。興奮しているのか、再び鼻血が
その瞬間だった。
オリヴァーの拳銃が磁石のようにジョージの身体へ貼り付いていったのは。
呆然とするしかない三人にジョージが宣告をした。
「クロエには手を出すな。絶対だ、約束しろ。その代わり、俺がステファンを殺して
両手を広げてゲラゲラと笑い始めたジョージを、どこからか吹いてきた冷たくて強い風が包み込んでいた。
-次エピソード『死神の罪悪感』へつづく-
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