トロイの戦車-Ⅰ
冷たい雨の降るある日。
カインはプレハブ小屋で白い吐息を泳がせていた。そこら中破れてカビの生えたソファーに横たわり、天井を見つめる。ふと、錆びついた建築階段を昇る足音が響きだして、彼はその身を起こした。
半分壊れたドアノブを回す音と共に長く伸びた足が姿を現す。足音の主はレイラであった。
かつて、キングと共に
幼いころから見慣れてるはずのレイラの身体が、近頃いやに甘い香りを放って映る。思わず視線を逸らしたカインは、その目を窓へと向けた。
「コマンド……本当にやるのかな。死神って今どこにいるか分からないんだろ」
「大丈夫よ、キングならこの作戦に乗るはず。アイツの甘っちょろい正義感がそれを許すわけがないもの。私達には別の任務があるでしょ。残されたトロイを守る、こんなにシンプルな話もないものね」
トロイ壊滅だけは避けたい
レイラはカインの前を素通りすると、古びた冷蔵庫を開けた。中からコーラを取り出してプルタブを引く。炭酸の抜ける音が雨音で包まれた部屋に一瞬だけ響いた。
「服……胸くらい隠せよ」
「へえ、アンタがそんな事を言うなんて初めて。私が誰と寝ようが自由でしょ。それに、コマンドとの関係なんて今更じゃない。何言ってるの?」
「……
ソファーの革が
口づけと呼ぶには余りにも幼くぎこちないカインのそれを、レイラは微動だもせずに受け止めていた。二人の肌を雨のしずくが伝ってゆく。彼女の目は見開かれたままであった。
「
「別に……何もない。レイラは俺からこういう事をされて、嫌じゃないのか」
「ハァ? 人間兵器に感情は必要ない。座右の銘だかなんだか知らないけど、それしか言わないアンタはどこへ行ったのよ。変なの」
レイラは奪い返したコーラに口をつけると、そのまま背中を向けてしまった。彼女の鍛え上げられたしなやかな肢体を見つめるカインの瞳に、微かな切なさが宿る。
冷たい雨は止むことなく、いつまでもプレハブ小屋に降り続けていた。
「久しぶりだね、キング。少し瘦せたんじゃないのか」
「お久しぶりです、フランツさん。ご迷惑をお掛けしてばかりで本当に申し訳ありません」
「気にしてはいけないよ。相手は
州を2つまたいだ都市部にある高層マンション。その一室がキングの新しい住まいとなった。持ち主はフランツ・デューラー。正確には彼の所有するペーパーカンパニーだが。様々な手法を用いて上手く所有者を誤魔化してある。
フランツは着ていたコートを脱ぐと、リビングテーブル近くの椅子に掛けた。長居をする気がないのだろう。挨拶もそこそこに本題へ入った。
「まだこちらに残っているアダムの子がいるだろう。アジアンタウンの診療所にいると言っていた」
「はい、あれからずっと寝たきりのままです。出来る治療に限りがありまして。もっともこちらも諸々あって、近況を確認していないのですが」
キングはハイスクール銃乱射事件と
少なくとも、キングの目にはそう映っていた。
彼は魔術師が診療所を訪れていた事を知らない。
「フランツ様、紅茶をお持ちしました」
「ありがとう、エマ。おや、こいつは私の好きな銘柄じゃないか。私はコーヒーよりも紅茶党でね。君は本当に気が利くな」
「ありがとうございます。坊ちゃんはココアをどうぞ。それではごゆっくり」
頭を下げたエマはキングに微笑みかけるとリビングを後にした。今のエマにとって、フランツはほぼ初対面と言って差し障りない。彼が好きな茶葉を覚える機会などあっただろうか。首を傾げるキングにフランツが言葉を続けた。
「長居は出来ないので単刀直入に言うよ。診療所の子らを国家に託さないか。既に内閣参謀を通して、ステファン大統領からは了承を得ている。この件は表沙汰にした方が良い。マスコミを最大限に利用するんだ」
「ステファン大統領は
「全くないとは断言出来ないね。ひとつ例え話をしよう。
「押し売りは
「いかにも。しかし、商品が票田だとしたら? そもそも『悪意で票を集める』という理屈はあっても通用しない。本当に
ココアを飲み込むキングの喉元が、腑に落ちたと言いたげに動く。フランツはキングの表情を見て安心したのか、紅茶の香りに目元を
「キング、君は非常に賢い少年だ。だがね、これを機に
「仰る通りです。返す言葉もありません。大統領の件については了解しました。ただ……ひとつだけ懸念事項が。診療所の子らを見てくれている友人の存在です。彼は大統領を憎悪しています。説得はまず不可能でしょう」
「それも
「そうですね」
「納得してくれて良かった。早速、手配に入るよ。君はこれから行かなければならない場所があるのだろう?」
「――……何のお話でしょうか」
「
ソーサーをテーブルに置いたキングがテレビのスイッチを入れる。ニュースはまさに今始まろうとしている、トロイと州警察の
人身売買部門エデンのボス、スネークを処刑した州警察が動いている。州兵まで動員して。
それは同時に、
キングはテレビのチャンネルもそのままに、マンションから飛び出して行った。このままではアダムの子らがまた無駄に命を落とす。ハイスクールの惨劇は死神の介入があったから、たまたま救われただけだ。
元来、死神とは気まぐれな生き物だ。
二度目はない。それはもう断言してもいい。
冷たい雨が降るマンションの屋上へ出たキング。彼は白マントを羽織ると、大鎌を担いで産業廃棄物処理場へと飛び立っていった。
置き去りにされたフランツは、コートに手を掛けたまま呆然としていた。一掃作戦を彼にリークしてきたのは他の誰でもない、州警察そのものであった。
州警察は
「フランツ様、相手は
ショックを隠し切れないフランツに、エマが力強い眼差しで微笑みかけていた。
◆
時は少々さかのぼり、ジョージとクロエの二人。
彼らはもう何年も空き家になったままの、ジョージの
「ジョージ、とってもきれいなお家ね。いいなあ、ここで暮らそうよ」
何1つマトモではない集落で生まれ育ったクロエが無邪気にはしゃいでいた。クロエとレイラの両親は、揃ってギャンブル狂だった。子供を売ったお金は全てギャンブルに消えてしまう。結果、雨すらまともにしのげないあばら家で彼女は育った。
両親は、中が丸見えの家をショーの場としていた。子供たちへの性的な暴力も見せ物にすれば金となる。
クロエの
ジョージはクロエの頭を優しく撫でると、父の書斎に足を踏み入れた。二人の足跡がそこで途切れている。
「なんだこれ……」
部屋を見たジョージは言葉を失っていた。物取りでももう少し丁寧に荒らすだろう。姉のユカリは生まれつきの盲目だ。部屋をここまで荒らしたのは、母のヒサエ・モリシタで間違いなかった。
金庫の前に雑然と捨て置かれた電話帳を拾い上げたジョージは、首を
金庫の中身は親父が自殺をした時、とうに確認したはずだ。お袋は空っぽの金庫まで開けて何かを探していた。めぼしい情報と呼べるものは、この電話帳くらいしかないのに。一体、何を探していたんだろう。
ジョージはオリヴァー・キンドリー宅の電話番号が記載されているページを破ると、失くさぬよう大切にしまった。父と親交のあった州知事なら、事情を話せば力になってくれるかもしれない。
その時だった。金庫に首を突っ込んでいたクロエが声を上げたのは。
「ねえ、ジョージ。穴の奥で何か光ってるよ」
「穴?」
はたして金庫の奥にあったのは隠し扉であった。二重壁になっていて、それが外されている。しかし母は、隠し扉までは開ける事が出来なかったようだ。
ジョージが覗き込んでも当然のごとく無反応。子供の指がようやく通る程度の穴には鍵を差し込むような引っ掛かりもなかった。
「もっかい、私に見せて」
「何回見ても変わらないぞ、クロエ」
「違うの。さっきは左目で見たから! 右目なら違うかもしれないじゃない」
クロエはジョージの身体を押しのけると、いそいそと右目で覗き込んだ。彼女にとってみれば、夢にまで見た遊園地くらいの感覚なのだろう。その愛らしい姿にジョージは笑みを
しかしそんな微笑ましい光景とは対照的に、事態は一転して奇妙な方向へと進展を遂げる。
「あれ? 光の色が変わった」
クロエの声と共に仕掛けの動く機械音が金庫内でこだまする。次の瞬間、確かにカチリという鍵の開く音がした。二人は顔を見合わせると、その扉に手をかけた。
「開いた……」
隠し扉の中にあったのは、資料をまとめたファイル数冊のみであった。表紙には『プロジェクト・エデン』と書いてある。作成者は医師の父、ノブヒコ・モリシタであった。
ジョージが重たいファイルを取り上げると、中から写真が一枚落ちてきた。
10歳前後と
ジョージの本能が
不安が
(XX年X月X日:移植に人種遺伝子が関与している可能性。白人被検体死亡率98%)
(XX年X月X日:解析チームより試算結果あり。アジア人遺伝子との適合率67%。しかし、被検体が圧倒的に不足)
(XX年X月X日:ジョージ・モリシタにて実験開始。輸血量150mlより始める)
(XX年X月X日:ジョージ・モリシタ、輸血の副反応確認。エヴァの奇跡を願う)
輸血、アジア人遺伝子、移植……ノブヒコ・モリシタが人体実験に手を染めていたのは明らかであった。
『
(XX年X月X日:アジア人遺伝子との適合率は
(XX年X月X日:乳児(女)に挿入成功。
(XX年X月X日:
人体実験に加えて違法な臓器移植。我が子のジョージとユカリすら実験体とした男。それがノブヒコ・モリシタという医師の正体であった。姉ユカリはおそらく、この隠し扉を開けるために母親から連れ出された。
狂ってる
親父も、お袋も……
「うわあ! ジョージ! 大丈夫?」
「え?」
クロエの声に反応したジョージは、鼻の下が温かく濡れている事に気づいて手をやった。真っ赤に染まった
鼻血だ。鼻血が止まらない。
(XX年X月X日:ジョージ・モリシタ、輸血の副反応確認。エヴァの奇跡を願う)
ボタボタと床に垂れだした大量の血液。ぼんやりとそれを見つめていたジョージは、全ての記憶が
◆
冷たい雨の降る産業廃棄物処理場。
その
コマンドは
身勝手極まりない破滅願望の道連れは、洗脳されきったアダムの子たち。コマンドは咳ばらいをすると、淡々と任務を告げた。
「いいか、死神が現れたら
「イエッサー! コマンド!」
「お前らの母親は誰だ?」
「エヴァ様!」
「お前らはなんのために生まれてきた?」
「死ぬため!」
「嫌だなあ……俺たちってここにいる必要あるんですかね、先輩」
「ないと思うぞ。こっちの署長って変だよな?」
ユカリ・モリシタ殺害事件の担当であり、ハイスクールではノーマン達を確保していた二人組の刑事。ホワイト警部とブラック警部補は浮かない
これではまるで、事件に巻き込まれて死んで来いと言われているのと同じだ。
「私語は
スネークを処刑した若い警官が声を掛ける。彼は通称
今回の一掃作戦は、トロイによる自作自演そのものと言い切ることが出来た。
同志による潰し合いも
自作自演に気づいていないキングは、アダムの子を救おうと
今作戦の立案者はヨシュア・キンドリー。非常に彼らしい作戦内容である。若い警官
上空ではマスコミのヘリコプターがひっきりなしに
硬直しきった冷たい沈黙を引き裂いたのは、白マントに大鎌を担いだ美しき死神。キングの到来であった。
産業廃棄物処理場にいるアダムの子たちが一斉に声を上げる。
「来たぞ! 死神だ!」
州警察サイドでは、何も知らないホワイト&ブラックが
「ありゃハイスクールにいた学生じゃないか! 何が起きてんだ?!」
コマンドは今日を命日と出来る事に笑みを浮かべ、
これで役者は揃った。主役のキングも
マスコミのヘリコプター。その乗降用ステップに足を乗せながら
想定外の出来事に
「直接会うのはお久しぶりですな。死神界の若き貴公子、キング。私を覚えておいでですかな? 魔術師です。貴方の良き友人ですよ」
ーつづくー
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