Lie:verse Liars
鳳乃一真(原作:Liars Alliance)/MF文庫J編集部
Lie:verse Liars 俺たちが幸せになるバッドエンドの始め方
1.プロローグ 元・天才少女の場合
なんか別世界にワープできそうな入口みたいなヤツがある。
三月某日。春休みの午前中。
最近通っている図書館への道すがら、ビルに囲まれた緑を意識できる広い空間。中央にある目立つ時計のオブジェは待ち合わせ場所として親しまれ、近隣の住宅街から駅へと向かう近道という立地から人の流れも多い。
そんな場所にソレはあった。
比喩的な表現では「空間がガラスのように割れて姿を現した隙間」といったところ。
優良希的に言えば「これを通ったら絶対に変なところに行けてしまう入口」だ。
なんにしても、とんでもないものがあった。しかも人の往来がある街のど真ん中に。
明らかに普通ではない。それはまさに異常事態だ。
――だが優良希にとって驚くことは別にあった。
これだけ目立つモノがあるにも拘わらず、周囲にいる誰もが何も反応していないのだ。
近くのベンチに腰掛けている頭の軽そうな茶髪男が欠伸をしながらスマホを弄っている。時計のオブジェ前に立っている派手な女性が待ち合わせ相手を探すように周囲を見回している。スーツ姿のサラリーマンが駅に向かうべく早足で通り過ぎていく。
動揺する優良希と異常事態であるはずのソレ以外、世界は変わらず平常運転。
――どうやらソレは、優良希以外の誰にも見えていないようなのだ。
だから優良希はマスクの下で思わず呟いた。
「……マジか」
もしかしたら自分は『特別』かもしれない。
そう思える瞬間はいつだろう?
初めてやったことが誰よりも上手に出来た時。難しい問題の答えが一瞬で閃いた時。誰かが手放しで褒めてくれた時。
他にも色々あるけど、総じて言えるのは「他の人にはないナニカが自分の中にあるかもしれない」と感じた時ではないだろうか?
だけどしばらくすると、それが単なる錯覚であったと思い知らされる。
上手く出来ずに失敗ばかりを繰り返すことによって。幾ら考えても答えが分からない問題ばかりを目の当たりにすることによって。他人からの批判され続けることによって。
「自分は特別でも何でもなかった」と自覚させられる。
そうなったら最悪だ。後に残るのは嫌な記憶と体験だけ。
楽しかった時のことは思い出せない。
それなのにそうでなくなった時のことだけは、なぜか忘れることができない。
嫌な思い出は、何かのはずみで記憶の中から顔を出しては優良希を嫌な気分にさせる。
恥ずかしいならまだマシで、時に苦しく、時に悔しく、時に死んでしまいたくなる。
優良希はその度に神様に対して文句を言っている。
人間の脳に搭載されている記憶システムには致命的な欠陥があるようなので、さっさと直してください。
心の中で神様へ苦言を述べながら、優良希はいつも思うことがある。
『特別』によって強制的に課せられるメリットとデメリットは釣り合っていない。
まあつまり、何が言いたいかと言うと――
『特別』とは、憧れるモノであって自分がなるモノではない。
それこそ雉子優良希が16年にも満たない人生経験でたどり着いた『真実』である。
コーヒーショップの二階にある一人掛けの窓際席。
公園広場を一望できる席に陣取った優良希は、
オチが決まっている。なんだかんだ嫌な思いと共に自分の心に傷が増え、後悔と共に悪い思い出が上乗せされ、そして今よりもっと他人のことが嫌いになる。
好きな漫画や小説と違って非常に楽しくない結末だ。それが予め分かっているのならページを捲る意味はない。動画ならさっさと別の動画を見始めた方が建設的なわけで。
だから優良希は、そんな「特別かもしれない」を感じたら、深入りせずに距離を取り、関わらないことにしている。
それが優良希の常識である。
「……なんだけどなぁ」
ただ今回の「かもしれない」はそんじょそこらのモノとは訳が違う。
優良希には「素直に憧れられる特別」というモノが3つある。
1.ありえない存在を目撃する。
2.不思議な能力が使えるようになる。
3.運命的な出会いをする。
はっきり言って、これらは全てフィクションであって現実には起こりえない。
だから素直に憧れられた。
――しかしありえないことにこうして目の前に現れてしまった。
「どうしよう?」
そう自問しつつも、すでに優良希の中で答えは出ている。
少なくとも、今回ばかりは自分ルールを放棄しようと思うくらいには、目の前に現れた不可思議な現象に興味を抱いてしまっていた。
そんな訳で優良希はこの窓際席から、かれこれ一時間ほど『自分にしか見えていないらしい例の入口』を観察していた。
なぜ距離を取って、ここにいるかと言えば、興味対象が存在する公園広場はとにかく人が多いからだ。
優良希は人の多い場所が好きではない。もっと言えば他人から注目されるのがとにかく好きではない。
日中、人の往来が激しい広場のど真ん中で、どうやら自分にしか見えないらしい謎現象を調査し始めたら、その姿は他人からどのように見えるだろうか?
その結果、どれだけの他人からどのような視線を向けられることになるか?
想像しただけで吐き気がしてくる。
「まあ得体の知れないモノだし、警戒することを忘れちゃダメだよね。まずは距離を取ってじっくり観察する所から始めようっと」
そう理論的に考え(決して日和った訳ではない)優良希が選んだ場所が、公園広場の近くにあるかなり不人気そうなコーヒーショップであった。
スマホを片手に選んだ優良希のチョイスは完璧で、昼前のこの時間、Wi-Fi設備もなければ、狭くて居心地も良くない二階スペースは、優良希以外に誰もいない。
なまじいたとしても、しょっぱ過ぎるホットチョコレートを出す店になど、余程の理由がなければ長いしたいと思わないだろう。
そんなコーヒーショップ二階の窓際席から観察していて、分かったことが3つある。
・その1:やっぱり目の錯覚でもなければ、やっぱり他の人には見えていない。
場所を変えても何度見返しても『空間に出来た隙間みたいなヤツ』は変わらずそこにあるし、観察を始めてからも何百人という人間が公園広場を通り過ぎたが、誰一人としてソレに気付き驚く素振り見せた者はいなかった。
・その2:普通の人はアレに触れてもすり抜ける。
人の往来が多い駅前の公園広場にあるのだから『なんかどこかの異世界に繋がっていそうな入口みたいなヤツ』に体が触れた通行人は何人もいた。
しかし触れた人たちは何事もなくソレを素通りし、ソレ自体にも変化がない。
これだけ見ていれば「見掛け倒しか」となるが、そう決めつけるのは早計だ。
『見えない人間がすり抜けている』というだけで『見える自分も同じ』とは限らない。
とにかく見た目は『入れそうな隙間』なのだから、何かが出入りする可能性はある。
まずはそれを見てみたい。最終的には自分も向こう側に行ってみたい。
・その3:スマホに映らない。
目の当たりにした異常事態を記録しようと、優良希はスマホで写真を撮ろうと試みた。
しかしスマホの画面の中に『こんな色のジュースが出てきたら絶対に飲んじゃいけない色の入口』は映らなかった。当然録画のしようもない。
どうやらアレは文字通り、優良希の瞳にしか見えておらず、優良希にしか認識できないらしい。
「本格的に訳が分からないんだけど」
もしかしたら霊的なモノだろうか? ということはアレの向こうは天国とか地獄とかそういう場所なのだろうか?
思いつくことはどれもこれも荒唐無稽で馬鹿らしいモノばかり。だけど窓の外にあるソレを見ているだけで「ありえないはずのこと」が全て「あるかもしれないこと」になる。
考え出したらキリがない。つまりそれは、いつまでも考え続けられるということで、ずっとこの時間に浸っていられるということでもある。
もちろん必ず終わりはやってくる、だけど終わるまでは終わらない。
「コイツはちょっと手ごわそうだな」
久しぶりに楽しい気分である。
最初はなんだかんだと考えていた優良希だったが、今は純粋にワクワクしていた。
閉塞的で時間が過ぎるのを待つだけの日常。これ以上何も良くはならないだろうと思っていた日々の中で、もしかしたら何かが始まるかもしれない。
そんな予感を感じたからだ。
「……!」
その瞬間は、何の前触れもなく訪れた。
昼を過ぎ、人の流れが多少落ち着いた午後の公園広場に、4人組の男女が入ってきた。
平日とはいえ春休み。服装からでは判別できないが、見た目や体格からおそらく高校生と大学生の組み合わせだと思われる。
なぜ優良希がその4人組のことが気になったのかといえば、4人がまっすぐ『なんだか別の世界に繋がっていそうなヤバい入口』に向かって歩いているように見えたからだ。
たまたまそちらに向かって進んでいる? いや違う。明らかにソレを認識し、ソレを目指して進んでいる。
「私と同じように見えている?」
先頭を歩く男が歩きながら操作していたスマホをポケットにしまうと、そのままの足取りでソレに向かって手を伸ばした。
――ガタン!
音がした。いや、音がしたのは驚いて立ち上がった優良希が思いっきりテーブルに足をぶつけたからだ。
「……っっっ痛いよぅ」
メチャクチャ痛い。骨に当たって、ジーンときた。涙が止まらない。
その場で一人もがき苦しむ優良希。
だけど安心、周囲に誰もいないから。朝からこの店の二階はほとんど優良希の貸し切り状態だ。
いや、今そんなことはどうでもいい。問題なのは4人組が消えたことだ。
消えたのだ。ソレに触れた瞬間、スッといなくなったのだ。
たまたま現場近くに立っていたサラリーマンがそちらに視線を向けている。だがしばらくすると「気のせいか」といった様子でスマホに目を落としてしまった。「何もない場所で人が消えるなんてありえない」と言わんばかりに。
だがそこに何かの入口があるのが見えている優良希は違った。
あの4人はどこに行ったのか?
決まっている。アレの向こう側に違いない。
どうしてアレの向こう側に行けたのか?
決まっている。自分のようにアレが見えていたからだ。
優良希は確信した。
「私もアレの向こう側に行ける」
――それから二時間後、薄暗くなった頃になって4人組は『天国あるいは地獄に繋がっているかもしれない入口』から出てきた。
戻ってきた時も突然だった。
何かのゲームや映画みたいに「ピカッ」と輝くこともなければ、電撃みたいなエフェクトが「ビリビリビリ」と発生することもなく、その場にフッと姿を現した。
少し疲れた様子で何かを話しながら、来た時と変わらぬ足取りで公園広場の出口に向かって歩いていく。
近くにいた人たちの反応も興味深かった。
突如視界の中に現れた4人に対して驚いた様子だったが、普通に去っていく4人を見て「突然、人が降って湧いたなんてことはありえないし、気のせいか」とでも思ったようで、再びスマホに目を落とし、何事もなかったかのように歩き出す。
優良希が思っていた以上に、人というのは他人に対して無関心であるらしい。
「さてと」
観察場所を移動し、公園広場にあるベンチに座っていた優良希の視線は、公園広場から出て行った4人の背中を追う。
『何処かに繋がっているっぽい入口』の向こう側に行く前の4人の恰好から、比較的早く戻ってくると予測していた優良希の読みは間違っていなかったようである。
あとは4人を追いかけ、こう尋ねればいい。「『あの入口』はいったい何であり、その向こう側にはいったい何があるのか?」と。
「……」
しかしベンチに腰掛ける優良希のお尻は、まるで根が生えたかのように動かなかった。
理由はいたってシンプル。
これから見知らぬ相手に話しかける、というプレッシャーに押しつぶされて動けなくなっていたからだ。
そうこうしている間に4人の姿は完全に見えなくなってしまった。
優良希はマスクの下で深いため息を
「……やっぱ無理だよなぁ」
理解しているし、自覚もしている。それでもやっぱり今の優良希にとって、他人に話しかけるという行為は、とてもハードルが高い行動だった。
「あーあ。折角、貴重な情報を得られるチャンスだったのになぁ」
だがそこまで悲観はしていない。人生が思った通り運ばないことなど優良希自身が一番理解している。むしろ最良と思われる選択肢を選べる方が珍しい。
この世の中、そうなって欲しいと願ってもならないことばかりで、そうしたいと行動しても望まない結果になることばかりだ。
なんにしても、自分の目に映る『奇妙な入口』について分かったことがある。
『あの入口』は普通の人には見えないし、入ることも出来ない。
だけど『あの入口』は特別な人間には見えて、入ることも出来るし、戻ってくることも出来るらしい。
改めて自分の瞳に映るソレに目を向ける。
絶対に普通ではない、ここではない何処かへ繋がっているであろう空間の隙間――
「アレってなんだろうね」
自分の考えと重なるような声がした、真後ろから。
思わず振り返ると、そこには知らない青年が立っていた。
「ふぎゃー!」
優良希の口から変な声が出た。
そのままベンチから転げ落ちるようにして距離を取る優良希を見て、青年が笑い始める。
「ごめんごめん、驚かせた」
おそらく少し年上の高校生だと思う。スラっとした背丈、切れ長の目元が特徴的で、なんというかちょっと悪そうな人に見える。
「大丈夫、怪我してない?」
ただそんな見た目の印象とは裏腹に、地面にへたり込む優良希に向かって、青年は笑顔で手を差し出してくる。
その手を前にし、優良希も反射的に手を出そうとしたが、途中で止まる。
「……」
中途半端に反応してしまった手前、非常に気まずいが、別に手を借りなくても大丈夫なので、自分で立とうと考え直す。
――だったのだが。
「ほい、失礼」
「!」
気が付くと優良希はベンチに座っていた。
「……」
なんだ? 今、いったい何が起こった?
たった今、自分がされた行為について頭が追いついてこない。
とにかく冷静になって、起こったことをありのまま振り返ってみる。
反射的に手を出したが、やっぱり自分で立とうと思った。そんな優良希の手を青年が掴み、強引に立たせてベンチに座らせた。その際、青年の顔が結構間近にあった気がするし、反対の手が自分の腰に回された気もする。
「!!!!!」
帽子とマスクの下で顔を真っ赤にしながらパニックになる優良希。
よく分からないけど、知らない男の人になんだかトンデモナイないことをされたんじゃないか、私!
一方、それをしてみせた青年は、何事もなかったかのように優良希の隣に腰を下ろす。
「キミもアレが見えてるんでしょ?」
青年が指差した方向を見て、混乱状態だった優良希は正気に戻る。
その先にあったのが、『例の入口』だったからだ。
「俺と同じでキミもそうなんじゃないかと思って、勇気を振り絞って声をかけてみたんだけど、違った?」
言葉とは裏腹に緊張した様子なんて微塵もない青年に対して、「明らかに嘘
「? もしかして日本語通じない人だった? ハロー」
帽子にマスクと顔を完全に隠している優良希に向かって手を振る青年に対し、優良希は両手で必死にアピールする。
「……別にそういうのじゃ……ない……です」
ようやく、掠れるように声が出た。
そんな優良希の様子を見て、青年は黙って優良希の次の言葉を待ってくれている。
「……すいません、私。ちょっと……喋るの、苦手で……」
今の優良希は、人と喋るのがとても苦手だ。
他人の視線を意識すると、喉が縮こまって声が上手く出て来ない。その視線が自身に対してネガティブな感情含まれたモノだとさらにダメで、何も喋れなくなってしまう。
「そっか。まあ、ゆっくりでもいいからさ、ちょっとアレについて話さない?」
青年はそう笑いながら、ソレに視線を向ける。
「あなたにも……見えているんですか?」
恐る恐る訪ねる優良希の質問に青年は頷く。
「うん、見える。でもさ、絶対に他の人には見えていないよね」
「わ、私もそう思います!」
妙に大きな声が出た。普段、他人と話すことなどないので声の音量調整が完全にバグっていたらしい。自分と同じ境遇。同じ見解を持った相手を前にし、どうやら柄にもなく浮かれてしまったようだ。
そんな自分をどこか楽しそうに見ている青年に、咳払いをした優良希は重ねて尋ねる。
「その……なぜあなたは、私が……アレを見えていると?」
青年は不敵に笑い、電灯で照らされる薄暗い公園広場を見回した。
「なんとなくだよ。これだけ人がいる場所で、キミだけが俺と同じように自分だけにしか見えないナニカを見ていると感じたからかな」
「……目立って、ました?」
「少なくとも俺にはね」
青年の答えに何か落ち着かない気がして帽子の鍔に手が伸びてしまう。
気配を消してその場に溶け込むのは得意なつもりだったので、ちょっと悔しい気もする。
「キミはアレをなんだと思う?」
「……たぶん、何かの入口で……どこか別の場所に行ける……みたいです」
「もしかして、もうあっち側に行ったことあるとか?」
「私はまだ。……でもさっき、アレの向こう側に行って戻ってきた人たちがいました」
優良希の言葉を聞いた青年は「そりゃ興味深い」と自分の首に右手を添えると、トントントンと指で首を叩いた。
「ならさ、今から一緒にアレの向こう側に行ってみない?」
青年は突然そんなことを言い出した。
「い、今からですか!?」
「キミも気になっているんだろ? あっち側がどうなっているのか?」
「そりゃ……気になります……けど」
実際のところ、この後、こっそり一人で行ってみようと考えていた。
「じゃあ、さっそく行こう」
即断即決と言わんばかりに、青年は立ち上がった。
「ええと……」
突然の展開に戸惑う優良希を見て、青年がニヤリとイジワルそうな笑みを浮かべる。
「ああ、別に怖いなら来なくてもいいよ。俺だけで行ってくるから」
「行きます!」
思わず言ってしまった。
「はい決定」
「……」
決定してしまった。まさかの展開である。
「ああ、そうそう。あっち側に行く前に一つお願いがあるんだけど」
「? なん、でしょうか?」
「お互いに変な気を使うのはナシにしない?」
青年は突然、そんなことを言い出した。
「?」
「昔から堅苦しいのが苦手でさ。だから今から敬語とかそういうのもナシ、相手を気にせず自分が思ったことをただ喋る。俺たちは初めて出会った同士だけど、今回だけで終わるかもしれない仲だ。そんな相手に、いらない気を使うのは無駄だと思わない?」
「……そう、なんですかね?」
「それに今からなんだか分からないアレを通って、何があるか分からない向こう側に行こうっていうのに、上も下もないだろ? いわば俺たちは対等な立場ってヤツだ。だから俺はキミに対して気を使わないし、キミが俺に対して気を使わなくてもなんとも思わない。それだけの話。よろしいか?」
妙な手振りと不敵な笑みを浮かべる青年は、優良希に対してそんな提案をしてきた。
「……ふふっ、変なの」
青年のなんとも開けっ広げで自分勝手な物言いに、優良希は不覚にも笑ってしまった。
少なくとも優良希はこれまで、誰かから面と向かってこんなふざけた物言いをされたことはなかった。だけど不思議と嫌な気分ではない。
むしろ明瞭な青年の言葉は、素直に好感を抱けるくらい優良希の中にスッと入ってきた。なんだか気持ちが楽になった気さえする。
「分かりました、じゃなくて……その……うん、分かった」
優良希の返事を聞いて、青年は「いいね」と嬉しそうに笑う。
その笑顔を見ていたら、妙にホワホワしてきて、ちょっと落ち着かなくなる。
「では《俺たちは対等な関係条約》が締結されたところで、さっそく行こうか」
自分たちの目にだけ映る「奇妙な入口」へと向かって歩き出す青年。
優良希も立ち上がり、その背中を追おうとした。
なんだか素敵な展開である。
(本当に信じて大丈夫なの?)
だけどどこからか、そんな声が聞こえた気がして、優良希の足が自然と止まる。
(都合が良すぎる。この男はあやしい。信頼できない。どうせ理解されない。どうせまた裏切られる)
どこから聞こえてくるのか?
それは自分の中にある、過去の経験から聞こえてくる声だった。
目の前の青年が何者なのか分からない。そもそも本当に自分と同じく何も知らない人間なのだろうか? もしかしたら自分を騙そうとしている人間かもしれない。
優良希にとって『特別』とは危機的状況であり、警戒すべき事象だったはずだ。
まだ遅くはない。過去にあった辛く苦しい出来事がこの先にあるのだとしたら、今逃げ出せばそれらを全て回避できる。
それは最悪の可能性を遠ざける最も賢い選択だ。
――でも、それはツマラナイ。
そして優良希の足は再び動き出す。
未知とは魅惑であり、好奇心は媚薬だ。
人間とは愚かな生き物であり、少女はまたも同じ過ちを繰り返す。
ただこれまで違う事があるとすれば、そこに一人の青年がいたことだ。
こうして《偽世界》へと誘われ、雉子優良希のバッドエンドへと続く物語が始まった。
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