催涙雨
江坂 望秋
一
プールの水温は二十二度。冷水の中で無酸素運動はするものじゃないよ。でも、仕方ないか。あぁ、水面に蚊の死体が五、六個浮いてる。お前たちは無理しなくていいのに。
中学校の水泳部に入っている僕は、入部して一年と三ヶ月、とうとう主将となって部を引っ張る立場となった。泳ぎが大して速いわけではないが、人当たりが良いと、顧問が勝手に決めた。勿論、嫌じゃない。一度は責任を持ってみたかった。
今日は六月の終わり。梅雨は未だ続いていて、今は夕立が降っている。いつも男たちが、ビート板やプルブイなどの道具を片付けるのだが、疲れたのか寒いのか分からないが、ひどく気が立っていた。男と女の言い争いが始まった。
「いつも片付けているのに、何故ありがとうの一言もない?」
「心の中で言っているわ」
「嘘をつけ!」
「何よ!えぇ、嘘よ!」
「何だと!じゃあ、今日はお前らがしろよ」
「嫌よ、雑用はあんたらの仕事でしょ」
「雑用って言ったか!」
殴り合いに発展しそうだった。僕は透かさず仲裁に入った。話し合いをさせようと思ったが馬鹿馬鹿しい。
「今日は俺一人でするから、お前らは帰れ」僕は面倒臭がりだ。甘やかすことは良くない。かといって、部活内で対立を煽りたくはない。
部員たちは着替えに向かった。しかし一人、同級生の初瀬がプールに残った。
「手伝うよ」
物静かな彼女は、地面に散らばる道具をまとめ、倉庫へ戻し始めた。
「ありがとう」彼女の後を追うように、僕も片付けをした。その作業は静かに、素早く行われて、僕はげんなりした。
片付けを終えると初瀬は水着一枚、静かなプールに飛び込んだ。そして、対岸までの十二メートルを一息吸って、潜っていった。僕はそんな彼女の姿に見とれていた。対岸の初瀬は、濡れた髪を掻き上げて、額をむき出しにし、僕を見つめた。その時、何かしらの意思疏通が行われていた。しかしそれは、日本語ではない、僕たちにしか分からない言語だった。
夕立は止んでいた。雲は途切れ途切れになり、星空が見え出してきていた。その真上、星の粒の集まりがある。天の川だった。
「今日はありがとう」
「もしもの時は、私を頼っていいんよ」
「うん、分かった」
僕たちは一歩近付いた。ようやく見えたような、そんな気持ち。
僕と初瀬の帰りの方向は一八〇度違う。だけども、僕は初瀬の方に歩いていた。
「同じ水泳部だけども、僕たちってあんまり話さないよね」
暗くなって、星空と街灯のみが照らす世界で、僕は彼女を慕っていることを確信した。
「そうだね。私は何度も話し掛けようとしたのよ。その度、村川くんはどこかへ行くの。悲しかったわ」彼女は僕の目を見た。いや、見つめているんだ。二人とも歩みを止めた。
「ごめんね」──歩きはじめた。
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