第二話 笹森美咲



「休憩三万でホテル代は別。もしくは、お泊まり六万でホテル代別」


 そう言うと、大抵の男は笑顔を向け、自分を見てくれた。それがたとえ、下心だけの目線であったとしても。


 北海道の大都市にある、繁華街──しろがねよし野。


 笹森美咲ささもりみさきは、そこで客を探していた。


 売春の客。


 狙いは、ある程度金を持っていそうな中年の男。


 季節は春先の四月。まだまだ寒い季節。時刻は、午後十一時。


 週末のしろがねよし野は大勢の人が行き交っている。仕事後に呑みに来ているサラリーマン。デートをするカップル。遊び歩く若い人々。


 飲み屋や風俗店が入ったビルが立ち並ぶ街。夜だというのに、眩しいくらいの人工的な明かりで照らされている。


 酔った人は声を張り上げてはしゃぎ、遊び歩いている人達は笑いながら歩き、カップルは飲み屋街の奥にあるラブホテル密集地へ向かう。


 そんなしろがねよし野で、美咲は、客になりそうな男を物色しながら歩いていた。


 気の強そうな顔立ちの美女──まだ十五歳の、美少女である。アーモンドのように綺麗な形の目に、鋭い印象を受ける二重。背中まで伸びた長いストレートの黒髪。やや小柄だが、体つきは平均以上に発育していた。高校一年。市内の公立高校に通っている。もちろん、今は私服だが。


 美咲が初めて体を売ったのは、今から二年ほど前──中学二年のときだった。あのときはまだ何も分からず、年齢を十九歳と偽った。それから売春を繰り返すうちに、女子中学生や女子高生という肩書きが男達の嗜虐心しぎゃくしんを刺激することを知った。


 若く純粋そうな少女を汚すことに悦びを覚える、下衆とも言える男達。


 そんな男達でも、自分を見てくれればよかった。そうすることでしか、自分の価値を感じられなかった。無価値な、必要のない人間でいたくなかった。


 美咲は、裕福な家庭で育った。両親は離別。


 母親は、父親の浮気を離婚原因として多額の慰謝料を奪い、出て行った。母にも、父以外に男がいたのだが。


 父親は、豪邸とも言える家に複数人の女を連れ込んでいた。


 そんな家庭だから、美咲は、父や母に見向きもされなかった。


 幼稚園のときのお遊戯会にも来てくれなかった。

 小学校の参観日や運動会にも来てくれなかった。

 褒められたくて一生懸命料理を勉強し作ったが、食べてもらえたことはない。

 学校で優秀な成績を修めても、褒めてもらったことはない。


 裸の女を家の中で連れ歩く父を見て、自分も裸になれば構ってもらえるかも知れない、と考えたことがあった。当然、構ってくれなかった。冷めた目で全裸の美咲を見た父は「馬鹿かこいつ」とでも言いたそうな顔をしていた。


 この街で探す男達は、美咲を見てくれる。初めて男を自分の上に乗せたとき、裂けるような鋭い痛みを感じた。だが、それ以上に、自分を見てくれる目があることに喜びを感じた。


 金に困っているわけでは、もちろんない。父は、金だけはくれる。売春で受け取る金は、男達がつけた美咲の価値。自分にこれだけの大金を出してくれるという物差し。


 男達は、金というもっとも分かり易いかたちで自分の価値を証明してくれる。無価値ではないと。誰にも見てもらえない人間ではない、と。


 だから美咲は、毎週末、必ずしろがねよし野に足を運ぶ。だから、体を売っている。


 客を探しながら歩いていると、後ろから声を掛けられた。


「いいか?」


 美咲は足を止め、後ろを振り向いた。


 美咲に声を掛けてきたのは、ややいかつい外見の男だった。五分刈りの頭に、スーツ姿。大柄ではない。しかし、肩や腕の肉付きがいいことが、スーツの上から羽織ったジャケット越しでも分かる。前を開けたジャケットから、スーツに付けたバッジが見えた。


 しろがねよし野は全国でも有数の繁華街だ。当然、暴力団の出入りもある。男のスーツの胸元についているバッジは、暴力団組員のものだった。


 美咲は記憶を探った。あのバッジは、確か檜山組の物だ。


 普通であれば、ここは危機感を覚えるべきところだ。誰の傘下にも入らず体を売って歩いている。そんな女は、性的サービスを提供している者にとっては邪魔以外の何者でもない。


 だが、美咲には、危機感も恐怖もなかった。


「何?」


 歳に似合わない艶っぽい笑みを、美咲は男に向けた。


「間違ってたら悪いけど──姉ちゃんじゃないのか? この辺で売春ウリをやってるってのは」

「そうだよ。お客さん?」

「ああ。いいか?」

「休憩ホテル代別で三万。泊まりならホテル代別で六万だけど。大丈夫?」


 いつもと同じ調子で、美咲は自分の値段を伝えた。自分の価値を。


「ああ、それだけどな」

 

 男は、どこか照れたように頭を掻くと、しろがねよし野の奥の方を見た。


「俺な、ホテルとか駄目なんだわ。他人がヤッたベッドでヤるってのが、どうもな。だから、俺の家に来ないか? ここから近いんだ」


 男はこの辺に住んでいるらしい。もちろん、素直に彼の言うことを信じるのであれば、だが。


「もちろん、泊まりのコースで。ホテル代がかからない分、金は出すぞ」

「……」


 見ず知らずの男の家に入る。それがどれだけ危険なことか、美咲は理解しているつもりだ。美咲と同じように体を売り、誘われるまま入った男の家で、サディスティックなことをされたという女の話も聞いたことがある。

 

 女は、一生消えない傷を体に負わされた。


 そんな事件の存在を知りながら、美咲は、あっさりと男の申し出を受け入れた。


「うん、いいよ」


 自分が誰かに認められるのは、男と寝ているときだけ。それだけが、自分の価値。自分の価値を確かめられるのなら、どんな危険も危険とは思わない。自分には、それ以外に価値も存在する意味もないのだから。


「じゃあ行こうか」


 男が歩き出し、美咲も付いて行った。


 道中、男は、外見からは想像もつかないほど饒舌に話していた。低く迫力のある声だが、話の内容は面白かった。どこまで本当かは分からないが──自分は性欲が強すぎて妻にも愛想を尽かされた、などと語っていた。


 しろがねよし野の飲み屋街を抜け、奥にあるラブホテル密集地も抜けた。


 この街の地理は、碁盤の目状になっている。男と美咲は南に向かって真っ直ぐ歩き、しろがねよし野を抜けた。


 繁華街を南に向かって抜けると、大きな道路を一本挟み、住宅街がある。


 すぐ近くにある繁華街とはまるで雰囲気の違う、閑静な住宅街。一戸建てやマンションは、そのほとんどが塀に囲まれている。そこにある道路は、まるでレジャー施設にある迷路のようにも見えた。


「この辺、家賃高いんじゃないの? それとも、持ち家?」

「ああ。まあ、金には困ってないからな。サービスしてくれたら、チップも出すぞ」


 道路を渡り、住宅街──塀が続く道に入った。街灯はあるが、薄暗い。夜なのだから当然だが。周囲のマンションや一戸建てからは、カーテンの隙間から光りが漏れている。


 男は、美咲の肩を抱いてきた。先ほどの男の話を信じるなら、性欲が我慢できなくなってつい美咲の体に触ってしまったと考えられる。これから始まる快楽の時間が待ち切れないというように。


 実際に、そんな行動を取る客はたくさんいた。歩きながら肩を抱き、胸にまで手を伸ばしてくる男達。


 だが、この男の手つきは、美咲を逃がさないために捕まえているようにも感じられた。そんな予感を覚えるほど、この男の手つきは、今までの客とは違っていた。先ほど、自分の性欲について語っていたのに、この男の触り方には情欲を感じないのだ。


 美咲の予感は、見事に的を得ていた。


 住宅街の路地の曲がり角付近で、塀の影から二人の男が姿を現した。


 男達はあっと間に美咲を塀に追い込み、三人で取り囲んだ。


 現れた男二人も、厚みのある肩や腕をしている。着ているスーツの胸あたりには、檜山組のバッジ。


 三人とも、大柄ではない。一番長身の男でも、一七五センチもないだろう。しかし、彼等には、場慣れしたような威圧感があった。明らかに、人を脅すことに慣れていた。美咲を追い込んだ手際のよさや恐怖を与えるように睨む目から、それがよく分かる。


 ──ああ。輪姦まわされるんだな。


 それでも美咲は、恐怖を感じていなかった。冷めた頭で、そんなことを考えていた。輪姦されるのは構わない。けれど、あまり痛い思いはしたくない。


「どこで輪姦まわすの? おじさんの家? 抵抗はしないから、殴ったりしないでね。痛いのは嫌だから」


 男達がつい呆然としてしまうほど、美咲はあっさりと言い放った。


 美咲は、別に金が欲しいわけではない。だから、無料で犯されたからといって、怒りも悔しさも感じない。金は、ただの確認手段。自分の価値はいくらなのか、という。


 男達に犯されるということは、美咲にとって、万引きに等しかった。金を払いたくないから物を盗む。金を払いたくないから無理矢理犯す。値段のついた物を無料で手に入れるという意味では、その両方は同じと言えた。


 美咲の言葉にほんの数秒驚いた後、男達は、再び凄みを利かせた表情になった。


輪姦まわされるだけで済むと思うなよ」

「こっちはな、お前のせいで稼ぎが減ってるんだよ。分かるだろ?」


 風俗店経営の暴力団。男達の商売がどのようなものか、簡単に想像できた。


 近頃は、法律や条例の制定により暴力団に対する風当たりが強くなってきた。昔のように用心棒として周囲の店から金を得ることも難しい。そんな彼等にとって、経営する風俗店は大きな収入源となる。


 そんな風俗店にとって、美咲のように女子高生というブランドを武器に個人で売春をする者は、害悪以外の何者でもない。自分達の売り上げを奪う、可愛い姿をした害虫。男──風俗店をよく利用する男は特に、若い女が好きらしいから。


 男達が威圧してくる姿を見て、美咲は、なんだか可笑しくなった。高揚感に満ちた可笑しさ。自分には、暴力団員すら動かすほどの価値があるんだ。彼等の稼ぎすら揺るがすほどの。


 高揚感が興奮を生み、美咲の気持ちを大きくさせた。


「何? 悔しいの? こんな小娘に売り上げを奪われて!」


 美咲は笑った。笑いながら、男達を挑発した。それは、体を売る以外に自分の価値を見い出せないが故の強気だった。自分に価値を感じられないから、自分を大切にできない。自分を守ることができない。


「仕方ないよね!? あんた達の店よりも、私の方が価値があるんだから!」


 男達の顔色が変わった。美咲を脅すために張り付けていた凄みがなくなり、苛立ちと怒りに満ちた表情になった。


 男の一人が、美咲の胸ぐらを掴んだ。


「おい、姉ちゃん。いい加減にしろよ」

「うわ、恥ずかしいね。自分達が劣った腹いせに、私をどうにかしようっていうんだ?」

「ああ。お前の言う価値がなくなるくらいに──ふた目と見れない顔にしてやるよ」


 男の言葉に嘘はないだろう。暴力を自分達の仕事と直結して利用するからこその、暴力団なのだ。


 痛いのは嫌だ。体を売れなくなったら、本当に私の価値はなくなるな。美咲が思ったのは、そんなことだった。恐怖でも何でもなく。


 売春が終わって家に帰り、独りになると、たまらない虚しさが込み上げていた。それでも、売春はやめられなかった。その瞬間だけは満たされるから。


 それができなくなったら、これからどうしようかな。


 許しを請うこともなく泣き喚くでもなく、美咲はただ、そんなことを考えていた。


 ──ゴンッ


 自分がボロボロになった後のことを考えていた美咲の耳に、鈍い音が届いた。それから、ほんの少しの沈黙。美咲自身の体感では割と長く感じたが、実際は一、二秒程度の沈黙だろう。


 美咲の胸ぐらを掴んだ男の頭から、大量の血が流れた。ダラダラと流れた血は、瞬く間に男の顔を赤く染めた。


 男は美咲の胸ぐらから手を離し、自分の頭を押さえてその場に蹲った。男の倒れ込む動きが、スローモーションのように見えた。


 ゆっくりと動く、美咲の時間。男が倒れたことで、その後ろにいた人物の姿が美咲の目に映った。


 まだ若い──おそらく、美咲と同じくらいの年頃の男だった。

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