心を縛るXXX
一布
プロローグ~暗い部屋~
「兄ちゃ……痛い……よ……」
あまりにも弱々しい弟の声。まだたった四歳の、弟の声。
その口や鼻から、痛々しいほど出血している。目からは、血が混じった涙がこぼれていた。
北海道の大都市にある、1LDKのアパートの一室。そのリビング。
季節は冬──一月。
暖房を点けていない夜のリビングはマイナス近くまで室温が下がり、涙すら凍り付きそうだ。暗く寒いリビング。吐き出す息は湯気のように白い。
明かりも暖房も点けることを許されず、絶えず父親の暴力に晒される。
洋平と弟が育った環境は、そんな地獄だった。
地獄の中で、今日まで生きてきた。弟を守りながら。それが洋平が生まれてきた理由であり、生きる目的だったから。
──洋平が弟を初めて見たのは、彼がまだ赤ん坊のときだ。父親の奴隷として風俗で働く母親が妊娠し、弟を産んだ。
弟と出会ったとき、洋平は五歳だった。父親の暴力ですでにボロボロの体。痣や煙草の痕は、体中に無数にある。弱く、ただ父親の暴力に耐えることしかできない自分。
そんな自分の前に現れた、明らかに両親に望まれていない赤ん坊。
初めて目にした弟は、お世辞抜きに可愛かった。小さな手足。生きようと必死に絞り出す泣き声。まだ曖昧な、それでも見ていると心が温まる笑顔。パタパタとよく動く手足。
人差し指を近付けると、その小さな手でキッュと握ってきた。
直感的に、洋平は悟った。弱い自分。父親の暴力に耐えることしかできない自分。そんな自分は、この小さな弟を守るために生まれてきたんだ。弱い自分よりさらに弱い、この弟を。
だって俺は、こいつの兄ちゃんなんだから。
その日から今日まで、洋平は弟を守り続けた。父親の暴力から。自分の体を盾に使って。自分を犠牲にして、弟を守り続けた。
弟が乳離れし、離乳食ではない食事ができるようになると、母親は洋平のときと同じように育児を放棄した。まるで「あとは勝手に生きろ」とでも言いうように。
弟に食べ物を与えるため、洋平は、学校で出た給食をこっそりビニール袋に入れて持ち帰った。袋の中でグチャグチャになった給食。それを弟は、旨そうに食べていた。
洋平は、生ゴミとなった両親の残り物を食べていた。口の中に入れると腐敗臭が口内に広がることもあった。弟を守る自分が飢え死にするわけにはいかないから、吐き気を堪えて飲み込んだ。
父親の暴力は、洋平の成長に比例して苛烈になっていった。
弱い自分では、弟を庇い切れなかった。
弟にも、生傷や火傷の痕が増えていった。
限界を感じた洋平は、ある日、助けを求めて学校帰りに交番を訪ねた。
警察には、超能力者で編成された特殊な部隊があると聞いた。危険性の高い事件に駆り出される、特殊な部隊。
一度だけ、テレビで、彼等の強さを見たことがあった。テロリスト紛いの集団を鎮圧する場面。彼等は触れてもいないのに、まるで銃でも持っているかのように凶悪犯を攻撃していた。凶悪犯が撃った銃も、彼等には通用していなかった。
自分とは違う、強い人達。そんな人達なら、あんな父親など問題にせず弟を守ってくれると思った。
だが、洋平の期待を裏切るように、交番にいた警官は言った。
「警察は、事件が起きてからじゃないと動かないんだよ」
「君や弟にも、悪いところがあるんじゃないのか? ちゃんとお父さんと話し合ってごらん」
面倒臭そうな表情だった。子供の戯言なんて相手にするだけ無駄だ──そう確信しているような表情。
ギャンブルで負けた腹いせに殴り、ゲームに負けた八つ当たりで煙草の火を押し付けてくる父親と、何を話し合えと言うのか。
ただ必死に生きようとしている自分達の、どこに悪いところがあるというのか。
誰も助けてくれない。誰も守ってくれない。そう悟った。
だから洋平は、必死に、自分の力だけで弟を守ろうとした。弟に覆い被さり、降り注ぐ雨のような父親の暴力から、弟を守った。
しかし、駄目だった。
今日の父親は、ひときわ機嫌が悪かった。理由は分からない。おおかた、ギャンブルで負けたとか、そんな理由だろう。
凄惨な父親の暴力。
弟に覆い被さっていた洋平の足を、父親は思い切り踏みつけた。ボキッという音が、骨の振動となって洋平の頭に響いた。あまりの痛みに転げ回り、弟から離れてしまった。激痛で、立つことさえできなかった。
父親は、震えている弟に視線を向けた。暴力を楽しんでいる目。人の痛みに快楽を覚える目。
弟が震えているのは、決して寒さのせいではない。
父親は足を大きく振りかぶり、まるでサッカーボールのように弟の頭を蹴った。
蹴り飛ばされた弟は壁に頭をぶつけ、直後、ビクンビクンッと痙攣した。明らかに普通ではない反応。
命に関わることが明らかな、弟の挙動。
何が可笑しいのか、父親は、痙攣する弟を見て大笑いした。腹を抱えて一通り笑うと、ストーブを点けている部屋に入っていった。ピシャリと、暖かい空気がリビングに逃げないように、襖を締めた。
静まり返ったリビングに残された洋平は、体を引きずり、弟に近付いた。暗がりの中、冷たい床に腹を擦りつけ、必死に。
弟の側まで来て、奇妙な方向に曲がった足の痛みを堪え、座り込んで弟の頭を抱きかかえた。
弟の目は虚ろだった。虚ろな目から、血の混じった涙が流れていた。鼻や口からも、大量の出血。喉からは、ヒューヒューと音が漏れていた。
抱え上げた弟の頭から──体から、少しずつ体温が失われてゆく。少しずつ、命が失われてゆく。
守れなかった。こいつを守るために俺は生まれてきたのに。それなのに。
どうして俺は、こんなに弱いんだ。守りたかったのに。守らなければいけなかったのに。それなのに、どうして。
かすかに動く弟の口から、言葉が漏れる。白い息に混じって。赤い血を吐き出しながら。
「兄ちゃ……痛い……よ……」
それが、弟の最後の言葉だった。
洋平は、生まれてきた理由も、生きる目的も失った。
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