第49話 憂鬱と大切なもの②
私室に戻って簡単な湯浴みと着替えを済ませたレイナルドは、執務室へと向かっていた。
いつもはその前にアトリエに寄るのだが、週のはじまりの朝はこんな風に過ごすのでなかなか時間が取れない。
(フィーネはアトリエに寄ったのだろうな。昨日、『味2』のポーションができたとはしゃいでいた)
ガラス瓶を握りしめたフィーネが、めずらしく頬を上気させて喜ぶ姿が脳裏に蘇る。それだけで、さっきまでレイナルドを支配していた捻くれた気持ちが真っ直ぐに落ち着いていく気がする。
大理石の回廊をコツコツと足音を立てて歩いていると、正面から従者を連れ着飾った令嬢がこちらへと向かってくるのが見えた。
(――あれは)
レイナルドが彼女の名前を思い出す前に、彼女はニコリと可憐な笑みを浮かべて立ち止まり、淑女の礼をした。
丁寧にゆるく巻かれたキャラメル色の髪に、濃いルビーをした印象的な瞳。背後のクライドが彼女に笑みを返すため、表情をやわらげた気配がする。
得意げな彼女のオーラを見ながら、レイナルドは全く別のことを思い出していた。
(フィーネもこんな礼をするな。もっと楚々として穏やかだが)
「……」
「レイナルド?」
ここでは、立場が下の者から話しかけることは許されない。彼女は、美しい礼をしてレイナルドから話しかけられるのを待っている。
そんなことはわかりきっているのに、レイナルドは当たり障りのない挨拶の言葉が出てこなかった。不思議そうなクライドに背中を軽く押され、はっと我に返る。
「……お久しぶりです、ウェンディ・エリザベス・サイアーズ嬢」
「レイナルド殿下! 私を覚えてくださっていたのですね! うれしいですわ」
「アカデミーで二年間もご一緒していたのですから、当然です。アカデミーに変わりはありませんか」
「はい、もちろんでございます。生徒会では本当にお世話になりましたわ」
彼女はサイアーズ侯爵家の令嬢、ウェンディ・エリザベス・サイアーズ。レイナルドやクライドよりも一歳年下で、現在は王立アカデミーの最終学年に在籍しているはずである。
在学中は生徒会活動で一緒だったレイナルドにこのような声かけをしてくるのは白々しくも思えたが、立場上無下に振る舞うことはできない。
なぜなら、サイアーズ侯爵家は王家ともつながりを持つ名門だからだ。
「王宮でお会いするとは珍しいですね」
「はい! アカデミーは試験休みに入りましたので、お父様に付いて登城してしまいました」
「将来のために勉強されるのは良いことだ」
「先ほど、騎士団の訓練場でレイナルド殿下が鍛錬をされていらっしゃるのも拝見いたしました。とても素晴らしい腕前で……さすが王太子殿下ですわ」
「ありがとうございます」
内心うんざりはしたが、レイナルドは当たり障りのない返答をした。
「あの、もしよろしければこれから、」
ウェンディは小首をかしげて大きなルビー色の瞳を輝かせる。
その瞬間、にこやかな表情を浮かべているように見えたレイナルドの視線がわずかに鋭くなったのを、隣で見守っていたクライドは察したようだった。
「ウェンディ嬢。王宮内の案内は私が承りましょう」
「クライド様。あの、でも私は、」
ウェンディの視線がクライドのほうに向いた隙に、レイナルドは歩き出す。
「クライド。頼むな」
「おっけ。後で行くからちゃんと仕事しててな?」
「当然だろう」
「えっ? ……あの、あっ……レイナルド殿下……!」
ウェンディの呼びかけを真っ白い微笑みでねじ伏せ、二人を回廊へ置き去りにしたレイナルドは広い共有スペースを備えた執務室に入室する。
図書館のような背の高い書架に囲まれた広い空間。図書館と違うのは、明らかに机と人が多く、ざわざわしていること。中央のスペースでは小さな会議も行われているようだった。
そして、窓に面したエリアに本棚を衝立にしてつくられた個室はどれも特別な人間専用である。もちろん、その中の一つはレイナルドのものだった。
周囲からの「殿下おはようございます」という声をくぐり抜け、広い執務机に着く。そして書類に手を伸ばすとすぐに影ができた。
「……何か」
「これはこれは、レイナルド殿下。朝からこちらでお目にかかれるとは」
「私が朝はここに来ないと思っていたかのような口ぶりですね、サイアーズ侯」
「いえ。まさかそんな」
さっそくやってきた彼は、先ほど大理石の回廊で会ったウェンディの父親だった。この執務室に入ってきたレイナルドを見つけてすぐに飛んできたのだろう。息が切れている。
先ほどの邂逅とサイアーズ侯の口振りから意図を察したレイナルドは不満を覚えた。しかし、表情には出さずにこやかに対応する。
「それで何か。生憎、側近のクライドはここに来る途中で偶然会ったウェンディ嬢を案内しています。執務に関わることはクライド経由で優先順位を決めた上で対応しますので、改めてもらえると」
「……我が娘、ウェンディはカルヴァリー家のクライド卿と一緒だと仰るのですか?」
「はい。アカデミーでも仲の良かった二人だ」
そっけないレイナルドの返答に、サイアーズ侯は片眉をあげショックを隠さない。
(当然だな。今日、ウェンディ嬢が王宮を訪れていたのは、偶然を装って俺に近づき距離を縮めるためなのだろう。彼の予定では、俺はウェンディ嬢の案内をして午前中を過ごし、この執務室にくるはずがなかった)
レイナルドにもウェンディに同情する気持ちはあるが、そこに付け込まれるのはごめんである。これ以上面倒な話題になるのを避けたかったが、サイアーズ侯のほうも一歩も引く気はないようだった。
軽く腰を折り、レイナルドに近づいて小声で聞いてくる。
「レイナルド殿下には……どなたか心に決めた方がいらっしゃるのでしょうか」
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