第二章

第48話 憂鬱と大切なもの

「――やめ」


 いつも通り、決まったタイミングで入る言葉に、レイナルドは表情を変えずため息をついた。


 目の前には、刃を潰した剣を離れた場所に落とし、しりもちをついた姿勢から立ち上がろうとする若い騎士がいる。


 悔しそうな表情の彼の首元には、同じように刃を潰した剣の先が突きつけられていた。それを持つのは、レイナルドだった。


「さすが王太子殿下」


 誰かが発した言葉を皮切りに、見守っていた周囲の騎士たちからわぁっと歓声が上がる。


 レイナルドは空色の瞳を濁らせたままにこりと形式的に微笑んでから、座り込んで立ち上がれない自分よりも少し年上に見える騎士に手を差し出し、ぐいと引っ張る。


「……悪い」


 立ち上がらせた拍子に耳元で呟くと、彼が身体を強張らせる気配がした。






「うっわ。朝からそんなに汗かくとかよくやるね。執務の前に湯浴み行ってくる?」

「ああ。少し待たせる」

「おっけ。……ていうか、騎士団の朝練なんて見に行くなって言ってんじゃん? いつもこの展開になるんだから」

「……」


 レイナルドは側近・クライドからの問いを無視し、中庭をずんずんと歩く。視界の端に映る樹々からは葉が落ち、足元でさくさくと音がする。


 このアルヴェール王国には四つの季節があるが、まもなくその中でも一番長く寒い季節に差し掛かろうとしていた。


 今朝、騎士団の朝練に誘われたのはいつものことだった。


 週のはじまりの日には朝の訓練を見に来てほしい、と騎士団長のトゥーレに言われている。「王太子殿下が来てくださるだけで隊員の士気が上がる」のが理由なのだという。レイナルドの剣の師匠でもあるトゥーレに頼まれたら、断る理由がない。


「あ、また対戦相手に悪いなって思ってんでしょ? 向こうだって本気で向かってこれるはずがないから。レイナルドに怪我させるわけに行かないもんね。勝ちは当然の茶番、罪悪感だけが積もる。だから行くなっつってんのに」

「わかってるならそこまで言わなくていいんじゃないか?」

「あ、ごめん。誰かの言葉で説明されるのを聞きたそうにしてたからさ?」

「……」


 ぎろり、と睨んだレイナルドにクライドは茶化すように、でもそれなりに真剣な声色で告げてくる。


「けど、レイナルドだってかなり強いのは本当だよ? ま、俺のが上だけどね」

「慰めろとは言ってない」


 レイナルドが騎士団の訓練に加わるのが苦手なのは、まさにクライドが言うことが理由だった。立場上、訓練に参加すると実力以上の扱いを受けてしまう。


 自分の立場をわかっていれば参加しないわけにはいかないし、父である国王も若い頃は同じようにしていたという。「適当に付き合って、こっちも気持ちよくなっておけばいいんだ」と訳の分からないアドバイスを受けたこともあるが、レイナルドにはなかなか受け入れがたくもあった。


 はいはいかわいいね、と宥めるような相槌を挟んだ後でクライドが告げてくる。


「で。今日の執務室はいつものとこでいい?」

「いや、共有スペースのほうを頼む」

「へえ」


 クライドの琥珀色の目が一瞬見開かれた後で、納得したような余裕の笑みが見えた。それに、レイナルドは心の中で舌打ちをする。


 レイナルドに使える執務室は二つ。自分専用の個室と、図書館近くに設けられた巨大な共有スペースを備えた執務室だ。気分や執務の内容に応じて使い分けるが、普段は個室を使うことが多い。単純に、集中しやすいからである。


「フィーネちゃんか」

「……」

「共有スペースのほうだと、フィーネちゃんが働く薬草園が見えるもんね。三階の窓から、あの辺まで見渡せる」


「……今日は、文官に意見を聞きたい案件が多い。スムーズに進められるよう共有スペースを選んだっておかしくないだろう」

「そうかなー? フィーネちゃん、昨日休暇を終えて寮に戻ってきたんでしょ? あーあ。俺も昨日の夕方、アトリエに行けばよかったな」

「……」


 レイナルドもクライドも、フィーネとフィオナが同一人物だと知っている。けれど、二人は本人が名乗らない限りは完全に『フィーネ』として扱うことに決めていた。


 だから、こうしてフィーネがいない場面でも本当の名前を呼ぶことはない。


 全てを見通す顔で得意げについてくるクライドを、レイナルドは微妙に頬を染め苦々しい気持ちで睨みつけた。


「……気持ち悪いとか言うんじゃないぞ」

「ああ、大丈夫。ちょっと思ってるけどさすがに本人の前では言わないわ」

「……」


 今日も、執務は捗りそうである。

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