第二章 拳聖の弟子

魅惑の微笑み

「ハァ……ハァ……ッ」



 目の前に迫りくる木の枝を跳ね除け、存在しない活路を切り開いて野山を駆ける。

 額に浮かぶ汗が目に入らないように気を付けながら、大きな岩を足場にして、樹上に飛び乗った。



「ブモオオォォォォォォォォォッッ!!」



 瞬間、俺が降り立った木を折らんと、もはや小山のような巨体を持つ猪が頭突きをかます。俺は振動で落ちないように、親しい人にするように巨木に手を回した。まぁ俺にそんな事する相手はいないけど。

 自嘲するように笑うが、それも恐怖で引きつってしまう。

 樹の下を見れば、未だ俺を殺そうとする猪の曇りまくっている眼と、俺のお目々がゴッツンコ。相手を怒らせないようにと、愛想笑いをしてみたが重機のような鳴き声によって打ち消されてしまった。



 このゲーム、どうやらHPとかではなく、「体力」という隠しステータスがあるらしい。

 証拠に、あいつに追いかけ回されて全力ダッシュしているうちに、だいぶ息が上がってしまった。このような馬鹿げた「修行」を行ううちに、体力がついてきたのか、あまり疲れることはなくなったが。



「おい、ポチ! お前はお母さんの胸の中で守られるのが仕事のガキンチョなのか!? そうなんだったらそうやって思い切り木を抱きしめていればいいさ! だが、違うんだったら、相手に背を見せずに戦え!」



 頭上、突然響いてきた高い声に、思わず顔を歪めてしまう。

 見上げれば、そこには一際大きな枝に腰掛ける赤い少女。まるで血に濡れたように輝く髪に、嗜虐を楽しむかのように細められた同色の瞳。見た目は、木に登って遊ぶ幼女か、それこそ木の精といった感じだが、中身を知っているこっちからすれば顔を歪めざるを得ない。



 彼女の名は、ライン。



 かの強敵、スライムを拳一つで爆発四散させ、俺を殺そうとしているかのような修行を課す、俺の師匠。というか実際に何回か死んでいた。

 見た目はロリ、中身は悪魔。何故あの時、俺は何も考えずに弟子入りしてしまったのか、と今でも後悔している。



 俺はため息を付きながら、樹下の猪を見つめる。



 狂乱に濁った瞳、口からはよだれが垂れ流され、とてもじゃないがまともとは思えない。

 しかも、その体が馬鹿みたいにでかい。軽トラックくらいはあるんじゃないだろうか。そんな存在が、とんでもない速さで自分に突撃してくるんだぞ? 体感としては小さな山が迫ってくる感じだ。



 あれを、倒せと。

 確かに、「倒せ」とは言わずに「戦え」とは言った。しかし、ラインの「戦え」はそれすなわち、死闘を繰り広げて勝利しろ、だ。これまでも死ぬ気で逃げてきた相手に、正面から勝てと。そう言っているのだ。



 ――あぁ、もう、諦めてしまいたい。



 無理だろ。あんなん相手に戦ったら、俺は死んでしまう。

 そんな抗議の意味を込めてラインを睨んでみたが、こちらが見惚れるような笑みで返された。つまり、これは「は? 逃げるとか、そんなのあり得ねぇよなぁ?」ということだろう。逃げればラインに殺され、戦えば猪に殺される。実質詰み。



 俺は絶望に背を震わせつつ、樹下の敵を観察した。どうせ死ぬなら、戦って死にたい。ラインと戦おうとしたら、数秒で殺されかけたのは嫌な思い出だ。

 俺の命を何だと思っているんだ。生き返るとは言え、死ぬのは嫌だし、デスペナルティもあるんだぞ。これだから戦闘狂は。



 俺は全てを諦めて、猪目掛けて飛び降りた。



 空気が耳を震わせる。

 自由落下に身を任せて、迫りくる地面と流れていく景色を意識から外した。そんなもの気にしていたら、恐怖で体がすくんでしまう。そうなれば、やつ・・に一瞬で命を刈り取られるだろう。



 俺が飛び込んだ先には、俺の到着を待ちわびている獣。下手な刃物よりも長く、鋭い牙を自慢気に光らせ、俺を食い殺してやろうと息巻く猪。通常であれば、山でそいつを見かけただけで回れ右するものだが。

 何の因果か、俺はそいつに戦いを挑もうとしている。

 


 やめろ、馬鹿げてる、死ぬぞ。



 俺の理性が満場一致のストップコールをしている。出来れば、俺もそれに従いたい。

 だが、頭上にいる悪魔ことラインさんが、「行け」と言ったのだ。行かねば殺される。何回か抵抗してみたが、全て無惨にも失敗している。であれば、多少なりとも生き残る可能性がある敵の方へ向かうべきだろう。



 空中にいる僅か数秒でそんなことを考えて、自分の諦めの良さにため息を付きそうになった。

 すぐ目の前に、猪の姿。確か、ロックボアとかいう名前だったはず。岩猪、ね。なるほど見た目は岩のように立派な体皮に、我こそこの山の王なりと主張するかのような牙。そんなやつに戦いを挑むなんて、数日前の俺なら考えられなかった。

 


 しかし、今となってはこうしてロックボアに挑んでいる。

 どうしてこんな事になったのか。



 俺はロックボアの頭に着地すると、奴が頭を振って落とそうとする前に、自ら飛び降りた。



 待ちわびた時が来た、と言わんばかりにロックボアは高く鳴くと、その鋭い牙で俺を貫こうと突進してきた。

 俺は手にろくな武器も持たず、身に纏っているものと言えば真っ黒な布切れ一枚。

 まぁそれは某魔王様の体の一部らしいから、考えようによってはとんでもない代物だが。もちろん俺にとってもとんでもない代物だ。ロリコンと言うか、そういう犯罪方面で。



 ロックボアをギリギリまで引き付けると、丁度前面に飛び出た牙を足場として、前宙。

 現実では到底このような動きは出来ないが、流石はゲーム。

 靴を履いていないから皮膚が切れるかと思ったが、そういうシステムなのか無事だった。というか、裸足で野山を走らせるとか、ラインは鬼畜か?



 勢いそのまま再び頭に着地すると、今度は振り落とされないようにうつ伏せになり、ロックボアの毛を掴む。比較的短くて、下手すると吹き飛ばされかねないので、全力で腕に力を込めた。

 背中に張り付いた異物を吹き飛ばそうと、奴は暴れ馬のように周囲を暴力の嵐に巻き込む。

 もしも落ちれば、その瞬間俺のHPはゼロになり、もはや見慣れた死に戻り地点で不審者を見るような目にさらされることになるだろう。



 俺は位置を調整して、右足を後ろに引く。

 そのまま爪先をロックボアの顔面に向けて出すと、グチャ、と半熟卵を貫いたかのような感触。



「ブモオオォォォォォォォォォッッ!?」



 左目を潰されたロックボアは、狂乱したかのように叫び、その身を周りの木にぶつけ回る。

 俺は奴と木でプレスされないように、慎重にもう片方の目も潰した。



 それさえ成せば、あとは背中に用は無い。

 俺は頭を蹴って出来の悪いロデオマシーンから脱出すると、万が一にも攻撃が届かないように距離を取った。



 そのまま数分が立ち、ロックボアは多少落ち着いたのか鼻を鳴らし、俺の方へと顔を向けた。



 目はその働きを失ったようだが、鼻がその代わりをして、眼球を抉った俺を殺そうとピクピクしている。



「第二ラウンド開始……ってことで良い?」



 俺の言葉に反応したのか、ロックボアがまた突進してきた。

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