第二十五話
Aさんが祖父に連れられて川釣りにいったとき。
日の明けるまえの山は涼しくて薄暗い。
そのおかげか、昼間は耳障りな虫の鳴き声も心地よく聞こえた。
釣り始めると、最初は我慢を強いられた。
しかし、あるときを境に面白いように釣れ始めた。
興奮さめやらぬなか、Aさんの手に引く釣糸に違和感があった。
いままでとは違う、なにか重たく生気のない手応え。
日も昇り、乱反射する水面のなかから浮かび上がってきたのは、和服を着た両の手ほどのおかっぱ人形。
着物の首もとが針に引っ掛かったそれは、濡れた重みでぐるりと回り込んだ。
それは、顔のないおかっぱ人形だった。
Aさんは思わず釣糸を握りしめながら、ぐっしょりとしたそれを祖父にみせて「おじいちゃん」と声をかけようとした、が
祖父が頭をねじ切らんばかりの勢いで、Aさんの口許を鷲掴みにして、言葉は掻き消えた。
いままでみたことのない怖い顔をした祖父は、首を横に振って、もう片方の手で自身の唇のうえに人差し指を置くと、ゆっくりと、やさしく、両手を退けた。
そうして、孫が吊りあげたお人形をうやうやしく手に取ると、そのまま川にとぷりと浸からせて流した。
流れに身をまかせていく人形を、祖父は見えなくなるまで見送った。否、見えなくなったあとも暫く見送っていたかもしれない。
人形を見送ったあとの祖父は、黙ったまま釣具もそのままに、その日吊り上げた魚を全て川に放すと、孫の手を引いて帰路についた。
Aさんも終始無言だった。ただ山を降りてから一言だけ「おじいちゃん・・・」と口にした。
「ながしびな だよ」
祖父は視線は前に向いたまま、先の言葉を掻き消すように、そう呟いた。
思い返せば、夏に「流し雛」というのもよくわからない。
ただ、Aさんがこの体験で一番怖かったのはお人形ではなかった。
川を流れる人形を見送ったときや、無言で魚を放す際、そして山を降りるときも、Aさんはときどき祖父の顔が、あの人形のように目鼻口がなくなっているように見えたそうだ。
だから、そのときのAさんは終始無言だったという。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます