第10話
「さて、練習記号Hからだけど」
演奏会に向けた集合練習。
今は『南風のマーチ』を練習しているところだ。
「ツッタラタッタットッテットッテットッタララッタラララララ……このメロディを演奏している楽器が分かる人はいるか?」
宗太郎がメロディを歌ってみせた。
その質問に手を挙げたのはフルートパートのひとだけだった。
「楽曲は基本的に四つに分解できる。練習記号Hでは通常のマーチだから低音楽器が頭打ちでホルンが裏打ちをしている」
それらの楽器が伴奏を担当するのは行進曲のセオリーだ。
彼らのパートを除けば残りのパートはふたつ。
「パラパーンパッパラパパパーンパパン。これが主旋律でクラ、サックス、ペット、ユーフォが担当している。それならば残り一つの
宗太郎がそれぞれのパートを歌ってみせる。
それにしてもこのような歌い方をする指揮者は初めだ。吹奏楽部時代の顧問はほとんどの音を「パーンパーンパーン」と歌っていた。鮫島が知らないだけで「ヤーンパーンパーン」と歌う指揮者も多いのだろうか。
「ほとんどの人がフルートパートの動きを知らなかったようだがそれでいい。いや、知っておいてほしいが演奏では気づかないふりをしてくれ」
気づかないふりをするようにだなんて。
通常ならば全ての楽器の動きに耳を傾けるように指導される。
気づかないふりを指示する宗太郎は何か考えがあるのだろう。
「主旋律、対旋律、頭打ち、裏打ちの四つのパートはロミオたちを表している。そしてフルートパートは尾神樹里の声を表している。すぐそばに尾神樹里がいることに気付かないまま俺たちは歩いている。しかしそばでは彼女が私に気付いてと叫んでいる。最後のトリルはロミオたちの肩を揺すっているんだ」
すぐ近くにいる彼女の存在に気付かないまま歩き続けるロミオたちを表しているからこそフルートパートに気付かないふりをするのか。
それにしても自分たちのパートがまさか彼女の声を表しているとは。
鮫島の士気は高くなっていた。まるでこの楽団の結成を呼び掛けたときのように義務感に駆られていた。
「しかし五小節目。前のフレーズが終わった後にロミオたちは立ち止まる。過去を思い出して寂しくなるんだ。そしてすぐそばにいた尾神樹里の存在に気付く。ここで尾神樹里の喜びを表す鮫島のピッコロソロが始まる。フルートパートの旋律ではなくピッコロソロだ。これは高音のピッコロだけで演奏することで尾神樹里の絹を裂くような嬉しい悲鳴を表しているんだ」
楽曲解釈の途中に突然鮫島の名前が飛び出した。
ここが自身のソロパートであることは理解していたが、まさか宗太郎はそういう意味を見出していたとは。喜びのあまり号泣する彼女を表現するなんて鮫島にはとんでもない重大任務だ。
「そしてピッコロソロが終わり練習記号I。ここではHと似たようなフレーズで始まるが、
そこまで説明したところで今回の合同練習は終わった。
次の合同練習ではさっき説明されたところを徹底的に練習するようだ。
他の団員たちはそれぞれが楽器の片付けを始めている。
「宗太郎さん」
「なんだ、ピッコロソロは荷が重いか?」
正直図星だ。
彼があのような説明をしなければ鮫島はもっとのびのびとソロを演奏できたかもしれない。
「それもあるんですけど、宗太郎さんのチューバの件です」
「おお! とうとう届いたか!」
これまでに多くの楽器を取り寄せてきた。そしてそれに喜ぶ多くの客の表情を見てきた。
宗太郎もこんな子供のように無邪気な表情ができたのか。
「チューバがどうしたの?」
話に入ってきたのはタシロンだった。
同じ楽器ということで無意識のうちに耳に入ったのだろう。
「注文していたチューバが届いたんだよ」
「へぇ~。どんなの?」
「国産の
「どっちの?」
「イエローだ」
「たしかアレってボアが大きかったよね」
「二〇・七ミリだ。普及品よりも〇・一ミリ太い」
「あのサイズにしては太くない?」
「アレキカイザーよりかは細いけどな」
その会話はチューバ奏者にだけ分かるものだろうか。
さすがにボアという単語が何を示しているのかは知っているが、その型番の楽器のボアサイズが何ミリかなんて鮫島は即答できない。おそらく店長でも即答することは難しいのではないのだろうか。
「宗太郎さん、予定が空いているときでいいので引き取りに来ていただければと」
「よし、じゃあ今から行くか。鮫島は俺の車に乗っていけ」
「……僕も行くんですか?」
「注文を受けたのは鮫島だろう?」
休みの時まで職場には行きたくない。
別に職場が嫌いというわけではないが仕事とプライベートは分けておきたい。
しかし宗太郎の押しに打ち勝つことはできなかった。
「ところで何でタシロンもついて来たんですか?」
「だって新品の楽器を見てみたいじゃない」
その気持ちは分からなくもないが彼女には事情があるはずだ。
「運転手はどうしたんですか?」
「どこかで待機中」
実家に使っていない部屋があるというタシロンに楽団の楽器を預かってもらっている。しかし彼女は打楽器を輸送できるようなトラックには乗れない。そのため中型免許を持っている団員がレンタカーで打楽器を輸送しているのだ。
どうせなら駐車場にトラックを止めて一緒に来ればよかったのに。
そう思ったがこのショッピングモールのお客様用駐車場にはトラックが駐車できるような場所はない。きっとこのショッピングモールの敷地ではない、別のどこかで待機しているのだろう。もしくはドライブで時間をつぶしているか。
レンタカーの返却時間に間に合えばいいのだけど。
楽団の資金の事を考えながら鮫島たちは目的の店舗にやってきた。
「お疲れ様です」
鮫島は気まずかった。
彼は客としてやってきたわけではない。しかし労働する以外の目的で職場に来るなんて言葉に言い表せない気まずさがあった。
「あら鮫島くん、今日は休みだけど働きたいの?」
「いえ、付き添いで来たんです」
正確に言うと強制的に連れてこられたのだけども。
「おう店長、チューバを受け取りに来たぞ」
「どうもお世話になっています」
「防音室は借りられるか?」
どうやら宗太郎はこの場で吹いてみるようだ。
その気持ちが鮫島にはよく分かった。彼もフルートを手にした直後に防音室をレンタルした。手にした楽器を一秒でも早く吹いてみたいと思うのは楽器を嗜む者の本能なのかもしれない。
店長がバックヤードに入ると中から巨大な段ボールを抱えてきた。その箱にはメーカーのロゴが印刷されている。
複数人で防音室の中に搬入し段ボールを開封する。
商品が動かないように固定していた緩衝材を宗太郎が取り出して放り投げる。鮫島はそれを回収する。段ボールや梱包材は店舗で廃棄することになったのだ。
「ほら見てくれよこの小豆色のケース」
彼が自慢したケースは学校に普及しているものと外観はほとんど同じだった。
しかしその中身は普及品とは異なる。
宗太郎がケースを寝かせると金具をパチンパチンと開けていく。
巨大なケースがガパッと開かれると、水色のテープで防護されたチューバが現われた。傷から楽器を保護するテープ越しでもその楽器の輝きが分かる。
日本製で最高級クラスのチューバが目の前にあるのだ。
たとえ担当している楽器ではないとしても、その圧倒的な存在感に恐れおののくのは当然の事だった。
保護テープを何の躊躇もなく宗太郎がはがしていく。
放り投げられたゴミを再び鮫島が回収する。
新しい自分の楽器に興奮して子供のようにはしゃぐのは分かるけども、もう少し客演指揮者としての威厳は保っておいてほしかった。
「それじゃあ俺は帰る」
「私も迎えを呼んで帰るから」
宗太郎もタシロンも満足した様子で楽器店を後にしようとする。
「鮫島はいいのか? 送っていくぞ?」
「いえ、僕はちょっと練習して帰りますので」
リュックサックにはフルートとピッコロが入っている。
せっかく楽器店にいるのだから一時間だけでも練習して帰ろう。
今日は自転車ではないが、ショッピングモールから出ているバスを使えば自宅の近くまで行ける。あとは散歩としてゆっくりと歩いて帰ろう。
「それでは次の練習で」
鮫島は彼らと別れて楽器店内に戻った。
防音室をレンタルするためにレジに向かったが防音室が使用中になっていた。レジコーナーに設置されたホワイトボードにはそれぞれの防音室の使用者名が書かれている。外で雑談しているうちに予約されてしまったのだろう。この時間帯は全部埋まっていた。
仕方なく鮫島は次の時間帯を予約した。
さて、時間がくるまでどうしよう。
これから楽器を吹くのだ。歯磨きができない状況で食事をすることはできない。かといってこのショッピングモールには他に鮫島の興味がそそるようなテナントは入っていない。
深く考えることなく鮫島は楽譜コーナーでフルートの楽譜を漁る。このあたりは鮫島が陳列したコーナーだからある程度のラインナップは把握している。しかしこのように立ち読みとして楽譜を眺めたことはなかった。
気になった楽譜を取り出して裏表紙の収録曲を確認する。その中から気になったページを開いてメロディを確認する。
今度この曲を吹いてみようか。
楽譜にかじりついていると誰かから声を掛けられた。
「鮫島じゃね?」
はっと振り返るとそこには懐かしい顔。
大学時代の同級生だった。
鮫島はわずか数カ月しか大学に通っていなかった。それなのによくお互いの顔を覚えていたものだ。
「鮫島っていま何してんの?」
「ここでアルバイトしてる。今日は休みだけど」
平静を装いつつ鮫島は近況を話していたが気が気ではなかった。
かつての友人は腕を絡めた女性を連れている。
そしてその女性のことをよく知っていた。
そして彼女も鮫島のことを覚えていたようだ。
「あ~、鮫島じゃ~ん」
彼女は高校の同級生。そしてゴールド金賞を目指して共に吹奏楽に打ち込んだかつての仲間でもある。しかも彼女の担当楽器はオーボエだった。他の学校の事はあまり知らないが、鮫島のところではフルートパートに含まれていた。
彼女とは業務連絡以外で話すことはめったになかったが、それでもお互いが今も楽器をやっているか気になるのは経験者の性分なのだろう。
「今も楽器とかやってるの?」
「まぁ、フルートとピッコロをそこそこに……」
「それなら大学でも続ければ良かったのに」
「でも僕、大学になじめなくて中退しちゃったしさ」
「まぁ大学を出ていなくても立派に生活できているならいいんじゃない」
会話を引き継ぐように元同級生に慰められた。
彼は大学でできた唯一の友人といっても過言ではない。講義の空きコマでよく談笑したものだ。大学を中退してから彼に連絡を取るのは気が引けていたが、まさかここで偶然再会できるだなんて。
元同級生は自身の彼女へと話を振った。
「私はもう高校だけで十分だったかな~?」
「難しい楽器をやっていたんだろ?」
「なんか高校の時の私って、いつもオーボエオーボエって連呼していてさ。いま振り返ると何でそんなに執着していたんだろうって恥ずかしくなるんだよね」
「え~せっかく楽器をやっていたんだからもったいなくない? 全国大会を目指してバリバリ練習じゃなくてもいいのにさ。そういえばなんか宮崎市で社会人吹奏楽団を作るとかで募集をやっていたらしいじゃん。それに参加すれば良かったのに」
何か知らない?
かつての同級生は鮫島に質問してきた。
楽器店のアルバイト店員という職業柄、吹奏楽に限らずどこのバンドが何の楽器の演奏者を探している、という情報はよく入ってくる。
元同級生の言っているような社会人吹奏楽団を設立するという大きな情報を聞き逃すわけがない。そしてその設立される、いや設立された社会人吹奏楽団は鮫島がよく知っている楽団だけだった。
「団員募集ならずいぶん前の話だけど、あれのことじゃないかな?」
そう言って鮫島は店内に貼られたポスターを指さした。
ロミオウィンドオーケストラ
尾神樹里お別れ演奏会
令和9年4月10日(土)
宮崎市民文化ホール
17時開演
それは目前に迫ったロミオウィンドオーケストラの演奏会の告知ポスターだった。イラストやデザインが得意な団員たちが試行錯誤して作ったものであり、日程や会場といった情報に加えて演奏する曲名が記載されている。端っこには「協力:株式会社川崎楽器」と記されており、これも川崎社長の協力で全国に展開している支店に掲示されているようだ。もっとも北海道の支店でこのポスターを見たロミオが宮崎県まで飛んでくるかどうかは疑問だけども。
「それそれ。なんかバンド仲間から噂を聞いていたんだよ。宮崎市でなんかバーチャルアイドル関係の大きなオフ会があるって」
「あ~、尾神樹里ってアレでしょ? なんかホワイトデーの投げ銭は三倍でって要求して炎上したあげく、所属アイドルの卒業情報とデビュー情報をダブルでフライング公開して事務所をクビになったやつでしょ?」
「まぁまぁ、誰がどこで聞いているか分からないからさ?」
元同級生が彼女を諫める。
誰がどこでも何も、その楽団長が目の前で聞いてしまっている。
たしかに彼女が言っていることは尾神樹里が事務所から契約解除された理由でもあるが、それはロミオにとって非常に聞きたくない話だった。
「でもさ~、なんか気持ち悪くない?」
「え?」
「お別れ演奏会って言ってもただの絵じゃん。絵のためにわざわざ楽団を作って演奏会をするだなんて、なんか気持ち悪くない? 要するにガチ恋オタクのV豚ってやつでしょ」
「おい、ちょっと」
「それにほら、大学生って就活とかで意外と忙しいじゃん。そろそろ採用情報の解禁だしインターンシップとかもあるしさ」
「分かった、分かったから」
「これから先の人生の問題に比べたら、ただの絵にお別れ会なんてしてる暇はないよね~?」
「よし、コーヒーショップに行こう。フラペチーノが好きだろ? 奢ってやるから」
「ただのフラペチーノなんかと一緒にしないでくれる? 私の推しはホイップマシマシキャラメルカラメスコシフラペチーノグランデだから」
「なんでもいいから早く行くぞ」
元同級生は一刻も早くここから彼女を移動させたいようだった。
それも当然。宮崎市で大規模なお別れ演奏会が開催される。そしてそのポスターが店内に貼られている。ネットで告知はしているが、直接情報収集しようとするロミオが来店してもおかしくはない。
それに彼は知らないが、毎日のようにロミオウィンドオーケストラの団員の誰かが防音室を借りにやってきている。そんな彼らが彼女の話を耳に挟もうものならば、過去の鮫島事件のようになりかねない。
「鮫島、俺社会人になってもバンド続けると思うから、その時は楽器の買い替えの相談に乗ってくれよ」
「もちろん。中古のビンテージも見ておくから残業頑張ってよ」
「ちょっとそこまで高いのは無理だわ」
元同級生は単なる冗談だと思って笑い飛ばしていた。
しかし鮫島は半分本気だ。彼の頭の中では川崎楽器が展開している楽器ローンのプランについて考えていた。
「鮫島ごめん。もう行くわ」
このままじゃ関係者に聞かれるかもしれないからさ。
そういって元同級生は彼女を店外に連れ出そうとした。
関係者に聞かれるもなにも、目の前にいたのだけども。
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