第8話
「この『センチュリア』というタイトル。これは百年という意味だ。スウェアリンジェンの楽譜を多く出版していた会社の創設百周年を記念して作曲された。世紀のことをセンチュリーというだろう? 百年というものは歴史のひと区切りだ。この曲は明日から始まる新しい百年に期待する様子。そして過ぎ去ってしまったこれまで百年を惜しむ気持ちを描いている」
ロミオウィンドオーケストラの集合練習の日。
今日の練習も終わり、この時間は次に練習する『センチュリア』の予習をしていた。
「この曲は序奏、主部、中間部、主部、コーダの五つによる構成。いわゆるコーダ付き複合三部形式だ」
楽曲の予習といっても実際に演奏するわけではない。
指揮者がこの楽曲をどのように捉えているのか。どのように表現したいのかを団員たちに言葉で説明している。
「最初の主部では明日から始まる新しい百年に胸を躍らせている。そして主部の途中では過去に寂しさを感じるが、次にはまた未来に向かって歩き始める。だけどこの中間部。ここでは過去に未練を感じて足を止めてしまう。立ち止まって過去を振り返ってしまうんだ。どうにかして前に歩きたい。しかしどうしても過去に縛られているようで前に進めない」
その中間部のメロディを宗太郎が歌ってみせた。
それに合わせて鮫島は目で楽譜を追う。
無意識のうちに指が動き、ピッコロのキーがパカパカと開閉される。
「そして最後の主部。ここではとうとう未来に向かって再び歩き始める。それは過去の未練を断ち切ったわけじゃない。過去を忘れ去ったわけじゃない。明日から始まる百年は過去の百年とは別物ではないんだ。過去の百年があったから明日からの百年がある」
この曲はそういう心情を描いていると俺は解釈している。
そう説明されたのちに今回の集合練習は終了した。
鮫島はその場でピッコロを分解。足元に置いておいた荷物から整備道具を取り出し、ピッコロの管内に残った水蒸気をスワブで除去する。他の木管楽器の人たちも同じだった。金管楽器奏者たちはバルブに注油し、打楽器奏者は楽器の搬出準備をしている。
いつもの片付け風景だが、それは一人の声によって空気が変わってしまった。
「大変だ! みんな!」
それはグロ中尉だった。
彼はトランペットを膝に置いたまま、スマホの画面を覗いていた。
「どうしたんだよ、グロ中尉」
呆れたように聞いたのはハルトマン軍曹。
付き合いが長いだけに彼のことはよくわかっているのだろう。
しかしグロ中尉から聞かされたものは最悪のニュースだった。
「樹里ちゃんの動画が二週間後に削除される! SNSも消されるって!」
練習会場は一瞬にして混乱状態になった。
所属事務所はこれまでに何も言っていなかった。彼女の放送チャンネルもSNSもすべてがあの公式発表が出る前の状態で止まっていた。彼女が契約解除された後も彼女のコンテンツはそのままだったから、これからもそのままの状態で放置されると思っていた。
「全員今すぐに帰れ!」
混乱している団員たちに指示を飛ばしたのは宗太郎だった。
「椅子も譜面台も俺が片付けておく! すぐに帰って一分でも一秒でも長く動画を見ておけ! 網膜に焼き付けておくんだ!」
楽器を壊さないように慎重に片付けるんだ!
気を付けて帰るんだ!
焦って事故ったら元も子もないぞ!
混乱しながらも帰宅を急ぐ団員たちひとりひとりに指揮者が指示を出していく。
「宗太郎さん、僕も片付けます」
「気にするな。俺がやっておく」
「でも――」
「俺はこの楽団の指揮者だ。いざという時に前線に出るのが指揮官の役目だ」
「僕だって一応は楽団長です」
「ほう、その役職を受け入れたか?」
「まだ納得はできていません。ですけど僕は一応楽団長なんです」
鮫島はまだ自分の役職を受け入れることはできていない。
どう考えたって、自分には荷が重すぎる。とうてい自分の能力では力不足だ。
しかし片付けをひとりで引き受けようとしている宗太郎を残して帰ることはできなかった。
「僕もやりますから」
「時には仲間に背中を預けるのも大切だぞ」
いくら片付けに参加する旨を伝えても断られてしまう。
「鮫島がするべき事は片付けじゃない。他にやるべき事があるだろう?」
宗太郎は指揮者用の譜面台と椅子を両手に持って倉庫へと去って行った。
片付けをせずに帰ることに申し訳なさを感じていた鮫島だったが、これは宗太郎なりの思いやりだろう。それならば彼の思いを無駄にするわけにはいかない。
鮫島は急いでピッコロを片付け、他の団員に混ざって帰路を急いだ。
ようやく自宅に帰り着いた鮫島はパソコンを起動し、慣れた手つきでいつものチャンネルへとアクセスした。
ずらりと並んだサムネイル。マウスホイールを転がして過去の動画を漁る。
全ての動画に視聴済みの表示が出ている。ひとつも残すことなく視聴している。さらに繰り返し何度も視聴していた。
到底タイムリミットの二週間後までにすべての動画を見直すことはできない。鮫島は限られた時間を有意義に使おうと選りすぐりの動画を探していた。
マウスホイールを転がしているうちにページの最深部に達していた。
目に留まったのは彼女が活動を初めて二回目の配信だった。最初の配信は三十分にも満たない自己紹介だけのものだったが、その次の配信は視聴者のコメントを拾いながらファンの愛称などを決めていた。
鮫島は無意識のうちにそのサムネイルをクリックしていた。
「それじゃあ次はファンネームを決めましょう」
前回まで視聴していた続きから動画が再生される。
「ロミオ? それって『ロミオとジュリエット』のロミオだよね?」
いいじゃんそれ!
しっくりとくる愛称に彼女も満足している様子だ。
≪ファンネーム ロミオ≫
決定事項として画面にその文字が表示された
「実は私、『ロミオとジュリエット』の映画見たことないの。小学校の音楽の授業で習ったからストーリーは知っているけどね。じゃあ次はイラストのハッシュタグ」
イラストなどの作品をSNSに投稿する際につけるハッシュタグを決めるようだ。このハッシュタグをつけることによって検索しやすくなる。これによって他のロミオだけでなく、尾神樹里の元にもその作品が届きやすくなる。
提案がコメント欄に流れていく
お嬢様の肖像画
樹里絵
ジュリ絵ット
コメントでは『お嬢様の肖像画』という案が多く流れていたが、彼女の目に留まったのはそれではなかった。
「『ジュリ絵ット』ってなんかよさげだよね」
なんじゃそりゃ。
ロミオたちからの評判はあまり良くないようだ。
「はい、他の意見は聞きませ~ん。ハッシュタグはお嬢様の私が決めま~す」
しかし尾神樹里はそれを気に入ったらしい。
彼女は独断で強行的にそれを採用してしまった。
そして鮫島は動画の音量をギリギリまで小さくした。
そろそろアレが来る。
≪イラストのハッシュタグ ジュリエッロ≫
画面に決定したハッシュタグが表示される。
しかしその決定事項は事故っていた。
尾神樹里はその誤字に気付いていない。
コメントでそれが指摘されるがなかなか気づく様子がない。
「ねぇみんなどうしたの? エロいとかやめてよ。私は清楚な少女なのよ。そんな言葉なんて――」
きちんと音量を下げておいて良かった。
自身が最悪な形の誤字をしていたことに気付いて彼女は叫んだ。
それは『ロミオとジュリエット』というよりも『美女と野獣』と表現するほうが適切だろう。もちろん野獣のほうで。
彼女は配信で野獣のような咆哮をあげていた。
お嬢様キャラとしてデビューした尾神樹里だったが、初配信から通算わずか一時間未満でそのキャラが崩壊してしまった。
彼女がキレ芸や下ネタを使うようになったのはこの配信からだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます