第7話

「へぇー。フカニート、本当に働いていたのかよ」

「これで満足しましたか?」

「呼び方は変えないけどさ」

「……袋は必要ですか?」

「いらない」

 鮫島はハルトマン軍曹と正対していた。

 レジカウンターに置かれた紫色の小さな箱をレジに通す。本人が言うにはアルトサックスのリードが少なくなったから買いに来たらしいが、絶対に目的はそれだけではないはずだ。

 売り上げにつながるから来店は大歓迎だ。

 しかし仕事中にからかいに来るのは勘弁してほしかった。せめてからかうのであればリードを小箱単位ではなく段ボール単位で購入してほしいものだ。商品陳列の手間が省けるから。

「フカニート、ネットで話題になっているぞ」

「……え?」

 楽器店のテープを小箱に貼っていた手を止めた。

「ニートが樹里ちゃんのための楽団を作ろうとしているって」

「だからニートじゃないですって」

「文句なら俺じゃなくてネット掲示板のやつらに言えよ」

 それは彼の言う通りだ。

 しかし鮫島が働いていることを知っている証人として呼び方だけは変えてほしかった。

「フカニートってロミオ界隈じゃ有名だからな」

「それは褒めているんですか?」

 推しのために吹奏楽団をつくるだなんてロミオの中ではかなり熱心な部類に入るだろう。提案したのは宗太郎だったけども、ネットにその提案をして中心的な人物として動いているのは鮫島だ。辞退を許されない提案だったが楽団長の役職も与えられた。

彼はいまだに楽団長という重要な役目を受け入れてはいない。しかし鮫島が何も知らずに外部からその活動を見ているとすれば、メンバーを集めて楽団長を務めている人物なんてかなり積極的なロミオだと思うはずだ。

 それにしても「ニートが楽団を作ろうとしている」だなんて悪意が込められているようにしか聞こえない。

 確かに彼女の配信でニートだと公開したのは鮫島自身だった。しかしアルバイトに過ぎないが、彼女に説教されてきちんと職に就いた。そして後日の雑談配信では仕事が見つかったことを投げ銭で報告したはずだ。

「書き込んでおいてくださいよ。僕はもう働いているって」

「やだよ。俺、ROM専だし」

 ROM専とはネット掲示板に書き込みはせず、ただ会話を眺めて楽しんでいる利用者たちの事だ。

 ハルトマン軍曹は会計が済んだリードの小箱をポケットにねじ込んだ。

「また買いに来る」

「お買い上げありがとうございます」

「じゃあな、フカニート」

 ネット掲示板に書き込んでいる人たちは今の鮫島を知らないから仕方ないだろう。

 しかし働いている姿を知っているハルトマン軍曹にだけはその名前で呼ばれたくはなかった。今度から彼の事を吉野士長と呼んでやろうか。

 レジの仕事が終わった鮫島はその前にやっていた作業に戻った。

そこに店長がやってきた。

「鮫島くん、少しいい?」

「どうしました?」

「荷物が届いたから搬入口に来てくれる?」

「はい、すぐに行きます」

 鮫島は作業台に広げていた書類を手早く片付け、指示を受けた搬入口へと向かった。そこでは先に到着した店長が荷役作業を見守っていた。

 周囲は商品が詰め込まれた段ボールが山積みになっている。外では運送会社のドライバーが四トントラックから商品を降ろしている。

 その中で異様な外見をしている商品が置かれていた。

 エアパッキンで厳重に保護された巨大な商品だった。

「店長、これって……」

「なんか社長が全国から集めてきたらしいよ。鮫島くんに渡してって」

 搬入口に並べられていたのはエアパッキンでぐるぐる巻きにされたシロフォンやビブラフォンだった。

 これらは商品の楽器ではない。新品の楽器ならばメーカー名が記された綺麗な箱に入っているはずだし、中古品だとしてもうちの店では取り扱っていない。そもそも店に打楽器が入荷される予定なんて入っていなかった。

 さらにはこの楽器たちを鮫島に渡すようにと指示がでているらしい。

 それも不自然だった。確かにロミオウィンドオーケストラで打楽器をどう準備するか話し合われているが、その課題はおろか楽団が結成されたことなんて社長が知っているはずがない。

 ふと外を見ると四トントラックからさらに楽器が出てきた。幾重にも巻かれたエアパッキン越しにオレンジ色の本体が見える。ティンパニーだった。それはトラック後部のゲートに乗せられると、ゆっくりと地面へと降ろされていく。

「なんで社長が打楽器を……?」

「さぁ? 金になると思ったんじゃない?」

 あの人、金儲けの事しか頭にないから。

 そう言いながらも店長は好奇心を抑えながら搬入された打楽器を舐めまわすように観察していた。

 社長は金になると考えたのだろうと店長は言っていたが、鮫島は儲けにはつながらないと考えていた。

 今回の演奏会は入場料を取る予定はない。それにスポンサー料や広告料も取るつもりがない。ホールのレンタル料や本番当日のカメラマンや照明スタッフも自分たちで資金を出し合って活動するつもりだ。

 この状況ではどう頑張っても一円の儲けにすらならないはずだ。むしろ楽器を調達したことで赤字になっているに違いない。

 なぜ社長がここまで動いてくれたのか鮫島は予想すらつかなかったが、思いもよらない支援に涙がこぼれそうだった。

 荷下ろしが終わったらしい。

 受領印を貰ったドライバーはトラックに飛び乗って走り去って行った。

「店長、このあと本社に電話をかけてもいいですか?」

「もちろん。あと電話が終わったら昼休憩ね」

「分かりました」


 搬入口から店舗に戻ってきた鮫島は事務所に駆け込んで電話横の内線リストから目的の番号を探し出す。これまでに他の店舗に掛けたことがあるが、まさかアルバイトに過ぎない自分が社長室あてに内線を入れるだなんて。

 推し間違えないようにゆっくりとボタンを押して受話器を耳に当てる。

 ワンコールで社長室につながった。

 それと同時に鮫島の緊張がピークに達した。

「はい、本社社長室です」

「お忙しいところ失礼します。宮崎店の鮫島と申します」

「あ、宮崎店の鮫島さんですね。すぐ社長に繋ぎます」

 通常ならば店舗から直接社長室に内線を掛けることはない。通常ならばエリアマネージャーを通して社長へと報告が上がる。

 店舗から直接内線がかかってくるなんて、電話に出た社長秘書からしても初めての事だろう。しかし社長秘書な取り次ぎを断るどころか混乱することもなく、華麗な所作で電話の転送をしてくれた。

 受話器からはクラシック曲の保留音が聞こえてくる。

 そのメロディはすぐに途切れた。

「もしもし、鮫島くん? 楽器届いた?」

「はい届きました。ありがとうございます」

「下取りしたボロで申し訳ないけどさ」

「ボロだなんてとんでもないです。いくら古くても楽器は楽器ですから」

「おぉ、さすが楽器店員」

 社長から直接褒められることがあるだなんて。

 新品の楽器だとしてもボロボロの楽器だとしても、楽器として丁寧に扱う。それは学生時代の吹奏楽部で徹底的に教育されたことだ。無意識のうちにその言葉が出てきていた。

「ところで吹奏楽団のことをどこでお知りになったんですか?」

「う~ん、店長とか、まぁいろいろ」

 含みがあるような笑い声が聞こえてきた。

「なんか面白いことをしているらしいじゃん。ロミオウィンドオーケストラ、だっけ?」

 いたずらっ子のような笑顔をした社長の姿が電話越しにもわかる。

「そういえばこの前の視察のときに展示品のピッコロを下げておくように指示したじゃん」

「はい。もちろんすぐに新しいピッコロと交換しました」

「その古いピッコロってもう中古市場に流した?」

 鮫島は在庫状況を思い出した。

 売れるか怪しい楽器であれば委託という形で預かって売れ残ったら問屋に返品される。

しかしあのピッコロはほぼ確実に売れると見込んで問屋から買い取ったものだ。だから売れ残っても問屋に返品することはできない。あのピッコロがこれから行く場所は中古楽器の通信販売サイトだ。

 たしかあのピッコロは調整が終わっている。しかしまだ中古市場には流せていない。

「申し訳ありません。まだ中古市場に出品できて――」

「ダメダメダメダメ!」

 遅い出品を謝ろうとしたが遮られてしまった。

「そのピッコロってまだ店にあるんだよね?」

「はい。出品の最終調整中は終わっているのですが」

「ちょうど良かった。中古価格で買い取るから、私の名前で請求書を社長室に送っておいて」

「えっと、買い取るというのは……」

 お買い上げありがとうございます、というべきだっただろうか。

 店舗の売り上げにはなるけども社長の取り分が増えることはない。むしろ懐が痛むことになるだろう。

 それに社長の趣味はクラシックギターだ。フルートやピッコロも嗜んでいるという話は聞いたことがない。

 彼が購入するということに疑問を感じたことが電話越しに伝わってしまったのだろう。社長はそのあとの事について説明してくれた。

「鮫島くんに譲るから、よかったら楽団で使ってよ」

「え、いいんですか?」

 それは予想もしていなかった提案だった。

 楽団の一番大きな問題は打楽器がなかったことだが、それと同時にフルートパートでピッコロを持っている人がいないという課題も抱えていた。吹奏楽の中で最高音を担当するピッコロは絶対に欠けることができない楽器だ。

「鮫島くんはフルートを吹いていたよね?」

「はい。学生時代に吹奏楽部で吹いていました」

「それならピッコロも経験があるでしょう?」

「たしかに練習すれば吹けると思いますが……」

 学生時代の吹奏楽部で吹いたことはあるがそれ以来ピッコロは持ったことすらない。全くの初心者よりはアドバンテージがあるが、その長いブランクを埋めるにはそれなりの練習をしなければならないだろう。

「それじゃあそのピッコロを鮫島くんに託すよ」

「僕に……ですか?」

 正直、それは嬉しい提案だった。

 しかし同時に戸惑いもあった。

 先日までの楽団は打楽器とピッコロをどう準備するかという問題を抱えていた。演奏者はいるが肝心の楽器がない。しかし購入するにはハードルが高すぎた。

 その問題が今日だけで両方片付いた。

 団員としては嬉しい事だったが、心のどこかでは不気味に感じていた。

 あまりにも都合が良すぎるのではないだろうか。

 金額や流通量で考えればピッコロの事ならまだ分かる。しかし高価で流通量が少ない打楽器が同時に、さらには社長から店舗の下っ端アルバイト宛てに届くなんて。

 あまりにも都合が良すぎる。

 まるで誰かに操られているような感覚がする。

 鮫島の後ろに巨大な組織が控えているかのようだ。

 なにか自分がとんでもない事に手を突っ込んだようで恐怖を感じていた。

 しかしそれに気づいていないかのように社長は話を続けた。その声を聞くと不思議と安心感がある。これが組織の頂点に立つ人物のカリスマ性というものだろうか。

「京都府民のしがないフルート奏者からの気持ちだから」

「分かりました。このピッコロで本番に臨みます」

 社長はフルートを嗜んでいるのか。

 そう聞くのは野暮なことだった。

 同じ趣味を持つ者同士の波長というのだろうか。社長からの気持ちを鮫島は迷うことなく受け取った。きっと社長もフルートを吹いているのだろう。

「ただこの楽器を頂くわけにはいきません。本番が終わりましたらお返しします」

「……分かりました。本番が終わったら素直に受け取りましょう」

 鮫島の気持ちを阿吽の呼吸で受け取ったのは社長も同じだった。

 間違いない。

 鮫島も社長も、同じ趣味を持つ同志だ。

「私たちも演奏会を聴きに行くからね」

「ありがとうございます」

 いつもの癖でペコペコと頭を振り、慎重に電話のフックを指で押し込んで通信を切断した。

 まさかアルバイトの自分が直接社長室に内線を掛けるだなんて。

ツーッ、ツーッと機械音が鳴っている受話器を定位置に戻す。

 ふと冷静に会話内容を振り返った。

 社長は「私たちも」演奏会を聴きに行くと言っていた。

 まさか社長は役員たちを引き連れて演奏会に来るというのだろうか。

 鮫島は下っ端のアルバイトだ。まさか一介のアルバイトが開催する演奏会を社長が聴きにくるというのだろうか。

 いや、きっとそれはリップサービスというものだろう。鮫島が務める川崎楽器の本社は京都府にある。必然的に社長や役員は京都府に住んでいることになる。プロの吹奏楽団の演奏会ならともかく、アマチュアだけの同好会の演奏会のためだけに京都府から宮崎県までやってくるとは思えない。ましてや川崎楽器は全国展開している大企業だ。そんな会社の経営陣がわざわざ宮崎県までやってくるとは思えなかった。

 あのお調子者の社長のことだ。

 あれはただのリップサービスだと鮫島は納得した。

 隣では店長が書類を整理している。

「店長、ありがとうございました」

「ん? 何が?」

「打楽器がなくて困っていること、社長に相談してくださったんじゃないですか?」

 社長は確かに店長から情報を得たと言っていた。

 アルバイト中に来店した団員との会話をどこかで聞いていたのだろう。

 上司の思いやりに感動していた鮫島だったが、店長は何もしていないとでも言いたげに書類に視線を戻した。

「そんなんじゃないよ。俺は面白そうなことをしているってエリアマネージャーと雑談しただけだから。それが社長まで上がったんじゃない?」

「それだとしても、心配してくださってありがとうございます」

「だから本当に俺は何もしていないって。社長が勝手にやったことだから」

「……はい」

 頑なに店長は関わりを否定する。

 これ以上彼に何かを感謝するのはむしろ無粋かもしれない。

「それでは昼休憩に入ります」

「いってらっしゃい」

 休憩室に入った鮫島がすることは弁当を食べることではなかった。

 ロッカーからスマホを取り出すと、ロミオウィンドオーケストラのグループチャットにメッセージを投下した。もちろん内容は思いがけず打楽器とピッコロが準備できたことだった。

 平日の真っ昼間だったが、数人の団員から返信が返ってきた。

 確かに最大の問題が一気に解決するなんて、あまりに都合が良すぎた。

 しかし今は他の事を考えず、ただ社長の思いやりに感謝しよう。 

 それと同時に新たな問題が発生した。

 あの打楽器たちをどこに保管しておこうか。

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